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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『湖中の女』を訳す 第二十八章

<have a line on>は「~に関する情報を持っている」

【訳文】

 ウェバーは静かに言った。「ここでは、我々のことをただの悪党だと思っている人もいるだろう。連中はこう思っている。妻を殺した男が、私に電話をかけてきて言う。『やあ、警部。ちょっと殺人事件があってな、居間が取っ散らかってるんだ。それで、遊んでる一ドル銀貨が五百枚ほどあるんだが』すると、私がこう言うんだ。『分かった。何もするんじゃない。すぐに毛布を持って駆けつける』とね」
「そこまでひどくはないだろう」私は言った。
「何がしたくて、タリーの家に会いに行ったんだ。今夜は?」
「タリーはフローレンス・アルモアの死に関する何らかの情報を手にしていた。彼女の両親は彼を雇ってそれを探らせてたんだが、彼はそれについて、二人に話していない」
「それで、君になら話すだろうと思ったのか?」ウェバーは皮肉っぽく訊いた。
「手持ちの札がそれしかなかったんだ」
「それとも、デガーモに痛い目に合わされた腹いせに、彼にも痛い目を見せてやりたくなっただけなのか?」
「それも少しはあるかもしれない」私は言った。
「タリーはケチな強請り屋だった」ウェバーは見下げ果てたように言った。「常習犯でね。 追い払う方法は何でもよかった。というわけで、彼が手にした情報とやらを教えてやろう。フローレンス・アルモアの足から掠めたダンスシューズの片っぽうだ」
「ダンスシューズの片っぽう?」
 彼はかすかに微笑した。「ダンスシューズの片っぽうだけ。後になって、彼の家に隠してあったのが見つかった。緑色の天鵞絨のダンス用パンプスだ。踵に小さな宝石がいくつかはめ込まれていた。ハリウッドの劇場用の履き物なんかをつくる職人に特注したものだ。さて、このダンスシューズがどうして重要なのか、訊いてくれ」
「このダンスシューズがどうして重要なんだ、警部?」
「彼女はそれを二足持っていた。全く同じもので、同時に注文していた。別に不思議はない。擦り減るとか、酔っ払いに足を踏まれるとかした時のためだ」彼は言葉を切り、薄笑いを浮かべた。「一足の方は一度も履かれていなかったようだ」
「分かりかけてきたように思う」私は言った。
 彼は椅子の背に凭れ、肘掛けをとんとん叩いた。私の答えを待っていた。
「家の通用口からガレージまでの通路は雑な仕上げのコンクリートだ」私は言った。「かなりざらついている。彼女が運ばれて、歩いていないとしよう。そして、彼女を運んだ誰かが彼女にダンスシューズを履かせた。まだ履いたことのない方を」
「それで?」
「そして、レイヴァリーが往診中の医師に電話している間にタリーがそれに気づいたとしよう。そこで彼は、履かれていないダンスシューズを持ち去った。フローレンス・アルモアが殺害された証拠だと考えたんだ」
 ウェバーはうなずいた。「もし彼が、警察に見つかるように、現場に残しておきさえすれば、それは証拠になった。取られた後では、彼が食わせ者だったという証拠にしかならん」
一酸化炭素血中濃度の検査はしたのか?」
 彼は両手を机の上に置いて、じっとそれを見下ろした。「した」彼は言った。「一酸化炭素中毒でまちがいない。また、その見かけに検死官も満足していた。暴力沙汰の形跡はなかった。それで、アルモア医師が妻を殺害していないと満足してしまった。おそらく彼らはまちがっていた。捜査は少々おざなりだったようだ」
「担当は誰だったんだ?」私は尋ねた。
「ご推察の通りだ」
「警察が来たとき、ダンスシューズが片っ方なくなっていることに気づかなかったのか?」
「警察が来たときにはダンスシューズはなくなってはいなかった。忘れちゃいけない。アルモア医師がレイヴァリーの電話を受けて帰ってきたのは警察が呼ばれる前だ。紛失した靴のことはタリーに教えられた。家に置いてあった新品の靴を彼が持ち去ったのかもしれない。通用口は鍵がかかっていなかったし、メイドたちは寝ていた。それに対する反論は、履かれていない靴のあることを彼が知っていたとは思えない、というものだ。あいつならそれくらいのことはやりかねない。目端の利くこすっからい小悪党だからな。だが、やったと決めつけるだけの証拠がない」
 我々はそこに座って互いに顔を突き合わせ、考えていた。
「ただし」ウェバーはゆっくりと言った。「その看護師が、タリーと組んでアルモアを強請ろうとしていたなら、話はちがってくる。考えられる話だ。そう思わせる点もある。そうではないと思わせる点はもっとあるがな。山で溺死した女がその看護師だと考える理由は何だ?」
「理由は二つ。どちらか一方だけでは決定的ではないが、二つ合わせるとかなり強力だ。数週間前に見かけも振舞いもデガーモによく似たタフガイが山にやってきて、ミルドレッド・ハヴィランドの写真を見せて回っている。髪型や眉毛にちがいはあったが、それはミュリエル・チェスによく似ていた。誰も彼に協力する者はいなかった。男はデソトと名乗り、ロサンジェルスの警官だと言っていた。ロサンジェルスにはデソトという名前の警官はいない。その話を聞いてミュリエル・チェスは怯えた。もし、それがデガーモだったとしたら話の辻褄が合う。もう一つの理由は、ハートのついた金のアンクレットがチェスの小屋の粉砂糖の箱の中に隠されていたことだ。彼女が死んで、亭主が逮捕されてから発見された。裏にこう彫られていた。『アルからミルドレッドへ。一九三八年六月二十八日。愛をこめて』」
「どこか別のアルと別のミルドレッドの可能性もある」ウェバーは言った。
「そんなこと、自分でも信じちゃいないんだろう。警部」
 彼は前かがみになり、空気に穴を開けるように人差し指をくるくる回した。「実際のところ、いったい君は何がしたいんだ?」
「はっきりさせたいんだ。キングズリーの妻がレイヴァリーを撃っていないことを。彼の死はアルモアの商売に関わりがあり、それはミルドレッド・ハヴィランドと繋がっている。もしかしたら、アルモア医師とも。明らかにしたい。キングズレーの妻が行方不明になったのは、彼女をひどく怖がらせるようなことが起こったからだということを。やましさを感じているかどうかは別として、彼女は誰も殺してはいない。もしそれを明らかにすることができたら、五百ドルは私のものだ。試してみても法には触れない」
 彼はうなずいた。「それはそうだ。その根拠さえ分かれば、力を貸すこともできるだろう。警察はその女を見つけてはいない。何しろ時間が足りないのでね。だが、君が私の部下をはめる手伝いはできない」
 私は言った。「デガーモをアルと呼んでいるのは聞いた。しかし、私はアルモアのことを考えていた。彼の名前はアルバートだ」
 ウェバーは自分の親指を見た。「しかし、彼はその女と結婚していなかった 」彼は静かに言った。「結婚していたのはデガーモだ。彼女は彼にひどく手を焼かせた。彼の中で悪いように見えるものの多くは、その結果なのだ」
 私はじっと坐ったままだった。しばらくして私は言った。「知らずにいたことが見えてきたよ。彼女はどんな女だったんだろう」
「頭が切れて、人当たりの良い、役立たずだ。男の扱いに長けていた。男たちは彼女のためなら四つん這いになって靴だって舐めたろう。もし彼女の悪口を言いでもしたら、あの大間抜けは即座に君の頭を引きちぎってしまうだろう。彼女は彼と離婚したが、彼にとってはそれで終わりではなかった」
「デガーモは彼女が死んだことを知ってるのか?」
 ウェバーは長い間静かに座っていた。それから、言った。「彼からは何も聞いていない。もしそれが同じ女だったとして、彼にどんな手が打てるというんだ?」
「彼は山で女を見つけてはいない――私たちの知る範囲では」
 私は立ち上がり、机の上に屈み込んだ。「ねえ、警部、揶揄っちゃいないだろうね?」
「いや、これっぽっちも。そういう男もいるし、そういう風に仕向ける女もいるということだ。デガーモが彼女を傷つけたくて山に探しに行ったと思っているとしたら、君はバータオル並みに湿っぽいな」
「そのことは頭になかったが」私は言った。「可能性はなくもない。デガーモがあの辺りをよく知っていれば、だが。誰であれ、女を殺した人物はよく知っていた」
「これはここだけの話だ」彼は言った。「胸の裡に収めておいてほしい」
 私はうなずいたが、約束はしなかった。もう一度、おやすみを言って出た。彼は私が部屋を出るのを見送った。その姿は傷つき、悲しげだった。
 クライスラーは建物脇にある警察の駐車場に駐まっていた。キーは差しっぱなしで、フェンダーは無傷だった。クーニーは脅しを実行しなかったようだ。私はハリウッドに引き返し、ブリストルにある自分の部屋に上がっていった。もう遅く、ほとんど真夜中だった。
 緑と象牙色の廊下に人影はなく、どこかの部屋で電話が鳴っているだけだった。その音はしつこく鳴り響き、ドアに近づくにつれて大きくなっていった。私は鍵を開けた。鳴っていたのは私の電話だった。
 私は真っ暗な部屋を横切り、横の壁にあるオーク材の机の縁にある電話のところまで歩いた。私がたどり着くまでに、少なくとも十回は鳴ったにちがいない。
 受話器を取り、電話に出た。かけてきたのはドレイス・キングズリーだった。彼の声は切羽詰まっていて、甲高く、緊張していた。「何てこった、いったいどこに行っていたんだ?」彼は怒った。「何時間も連絡を取ろうとしていたんだぞ」
「もういいでしょう、今はここにいますよ」私は言った。「どうしました?」
「彼女から連絡があった」
 私は手にしていた受話器をきつく握りしめ、ゆっくり息を吸い込んでからゆっくり吐き出した。「それで」私は言った。
「すぐ近くにいる。五、六分でそこに着く。出られる準備をしといてくれ」
 彼は電話を切った。
 私は耳と電話機の真ん中あたりに受話器を持ったまま、突っ立っていた。それから、のろのろと受話器を置き、握っていた手を見た。手は半ば開かれ、まだ受話器を握っているかのように固まっていた。

【解説】

「それで、遊んでる一ドル銀貨が五百枚ほどあるんだが」は<And I've got five hundred iron men that are not working.>。清水訳は「使い道のない紙っ切れが五百枚、ここにあるんだけどね」。村上訳は「で、五百枚くらい遊んでいるドル札があるんだがね」。田中訳は「ついでに言つとくが、おれのところには、ぶらぶらしてる子分が五百人はいる」。面白い訳だが、それだけ手下がいれば、死体の処理くらいお茶の子だろう。<iron man>は俗語で「ドル紙幣、ドル銀貨」のこと。

「というわけで、彼が手にした情報とやらを教えてやろう。フローレンス・アルモアの足から盗ったダンスシューズの片っぽうだ」は<So I'll tell you what it was he had. He had a slipper he had stolen from Florence Almore's foot>。清水訳は「だから、彼が握ってたのが何であったかを君に教えてあげよう。フローレンス・アルモアの足から盗んだスリッパの片っぽを握ってたんだ」。田中訳は「タリイがにぎていた証拠というのをおしえてやろうか。ミセズ・アルモアの死体からかつぱらつたスリッパだよ」。村上訳は「だから君に教えてやろう。彼が何を手にしていたかを。彼はフローレンス・アルモアの履いていたダンス靴の片方を持っていたんだよ」。

短い台詞の中に<he had>が三度連続して使われている。初め二つの<he had>は、マーロウが言った「タリーはフローレンス・アルモアの死に関する何らかの情報を手にしていた」(He had some line on Florence Almore's death>で使われている。<have a line on>は「~に関する情報を持っている」という意味だ。ウェバーが、それを踏まえて言ったのなら、同じ言葉で訳す方がいいと思うが、村上氏は特に意識していないようだ。

<slipper>は「スリッパ」だが、辞書を引くと、日本語の「スリッパ」より意味が広く、文脈によって「室内用の靴・ダンスシューズ・バレエシューズ・庭用サンダル・下駄」などを指すこともある、という。また普通は<slippers>と複数形を使うので、<a slipper>なら、そのどちらか片一方である。

「だが、やったと決めつけるだけの証拠がない」は<But I can't fix the necessary knowledge on him>。清水訳は「だが、彼についてはまだわからないことがだいぶある」。田中訳は「だが、それまで知つていたとは、わたしには考えられん」。両氏の訳ではそうなっているが、<fix ~ on>は「(責任、嫌疑など)を人に負わせる」という意味。村上訳は「ただやつがそうしたと決めつけられるだけの確証は、まだ得られていない」。

「私がたどり着くまでに、少なくとも十回は鳴ったにちがいない」は<It must have rung at least ten times before I got to it>。清水訳は「私が手にとるまで十分間は鳴っていたろう」。田中訳は「おれがでるまでに、すくなくとも十ぺんぐらいは電話をかけてきたらしい」。マーロウが知ることができるのは廊下を歩いていたときに鳴っていた電話の音だけだ。それが、何分間鳴っていたか、何回かけてきたか、そんなこと分かるはずもない。村上訳は「そこに着くまでに、少なくともベルが十回は鳴っただろう」。

「受話器を取り、電話に出た。かけてきたのはドレイス・キングズリーだった」は<I lifted it out of the cradle and answered, and it was Derace Kingsley on the line>。田中訳は「受話器をとりあげると、ドレース・キングズリイの声がつたわつてきた」。村上訳は「受話器を取り、返事をした。かけてきたのはドレイス・キングズリーだった」。清水訳にはこの一文が抜け落ちている。

『湖中の女』を訳す 第二十七章

<corner office>は二つの壁面が窓になった、眺めのいい重役室のこと

【訳文】

 ウェバー警部はその少し曲った尖った鼻を机越しにこちらに突き出して言った。「かけたまえ」
 私は丸い背凭れの木の肘掛け椅子に腰を下ろし、左脚を椅子の角張った縁からそっと離した。広くて端正なオフィスは眺めのいい角部屋だった。デガーモは机の端に座り、脚を組み、考え深げにくるぶしをさすりながら、窓の外を眺めていた。
 ウェバーは続けた。「君はトラブルを求め、それを手に入れた。住宅地を時速五十五マイルで走行し、サイレンと赤いスポットライトで停止を命じるパトカーから逃げようとした。車を停められると暴言を吐き、一人の警官の顔面を殴打した」
 私は何も言わなかった。ウェバーは机からマッチ棒をつまみあげ、二つに折って肩越しに後ろに投げた。
「それとも、連中が嘘をついてるのか――いつものように?」彼は訊いた。
「連中の報告書は見ていないが」私は言った。「住宅地かどうかはともかく、市の境界内でおそらく五十五マイルは出ていただろう。 訪ねた家の外に警察の車が駐まっていた。 私が車を出すとそいつが後をつけてきた。そのときは警察の車だとは知らなかった。 つけられるいわれがなく、見かけも気にくわなかった。少々スピードは上げたが、街の明るいところに行こうとしただけだ」
 デガーモは目を動かして、意味のない冷たい視線を送ってきた。ウェバーは焦れたように歯を鳴らした。
 彼は言った。「それがパトカーだとわかってからも、ブロックの真ん中でUターンして、まだ逃げようとした。その通りなのか?」
 私は言った。「その通りだが、それを説明するには、ちょっとした打ち明け話をしなきゃならない」
「ちょっとした打ち明け話、大いに結構」ウェバーは言った. 「どちらかといえば、私はちょっとした打ち明け話を聞くのを得意にしてる」
 私は言った。「私を逮捕した警官たちは ジョージ・タリーの妻が住んでいる家の前に車を駐めていた。既にそこにいたんだ。私よりずっと前から。ジョージ・タリーは前にこの街で私立探偵をやっていた男だ。私は彼に会いたかった。その理由はデガーモが知っている」
 デガーモはポケットからマッチを取り出し、その柔らかい端を静かに噛んだ。彼は無表情にうなずいた。ウェバーは彼を見なかった。
 私は言った。「ばかなやつだよ、デガーモ。やることなすことばかげていて、やり方もばかばかしい。昨日、アルモアの家の前で事を構えたとき、要もないのにタフぶって見せたろう。くすぶってもいなかった私の好奇心にそれが火をつけた。おまけにあんたは、もしものとき、その好奇心を満たすにはどうすればいいか、ヒントまで与えてくれた。友だちを守るためにあんたがやるべきことは、私が動くまで口をつぐんでることだった。そうしてたら、私は何もしなかったし、あんただってこんなことにはならなかっただろう」
 ウェバーは言った。「ウェストモア・ストリートの一二〇〇番地区で逮捕されたことと、いったい何の関係があるんだ?」
「アルモア事件が絡んでいるのさ」 私は言った。「ジョージ・タリーはアルモア事件を調べていた。飲酒運転で挙げられるまではね」
「なあ、私はアルモア事件には一切関わっていないんだ」ウェバーは口を挟んだ。「最初にジュリアス・シーザーに短剣を突き刺したのが誰かさえ知らない。要点を押さえて話すことはできないのか?」
「私は要点を押さえている。アルモア事件の事情に詳しいデガーモは、その話をされることを嫌う。パトカーの連中さえそのことを知っている。アルモア事件を調査していた男の妻を訪ねていなければ、クーニーとダブスに私を尾行する理由はなかった。彼らがつけてきたとき、私は時速五十五マイルも出していなかった。逃げようとしたのは、あそこを訪ねたことで、袋叩きにされるかもしれない、とふと思ったからだ。そう思わせたのはデガーモだ」
 ウェバーはちらっとデガーモを見た。デガーモのタフな青い目は、部屋の向こう側の壁を見ていた。
 私は言った。「手を出したのは向こうが先だ。クーニーが私にウイスキーを無理やり飲ませ、口をつけると同時に私の腹を殴り、上着の前にこぼして証拠の匂いがつくようにした。私が鼻を殴ったのはその後だ。その手口を聞いたことがないとは言わせないよ、警部」
 ウェバーは別のマッチを折った。後ろに凭れ、小さく締まった拳を見た。彼は再びデガーモを見て言った。「君が今日、署長に就任してたら、私も仲間に入れられたのだろうな」
 デガーモは言った。「よしてくださいよ。この探偵は軽いのを二、三発くらっただけです。ちょっとした冗談ですよ。真に受けちゃ――」
 ウェバーは言った。「クーニーとダブスをあそこに行かせたのは君か?」
「ええ、まあ、そうしました」デガーモは言った。「どうしてこいつら詮索屋のことを我慢してなきゃならんのです。勝手にこっちのシマに入り込んで、もう済んでしまった事件を煽り立て、さも仕事をしたように見せかけて、年寄り夫婦から大金をふんだくろうとしてるんですよ。こいつらは、痛い目を見なきゃわからんのです」
「君にはこの件がそう見えているのか?」ウェバーは訊いた。
「見たまんまを言ってるんです」デガーモは言った。
「君のような輩には何が必要なんだろうな」ウェバーは言った。「思うに、今の君にはちょっと外の空気が必要だ。そうしていただけるかな、警部補?」
 デガーモはゆっくり口を開いた。
「つまり、私にさっさと出て行けということですか?」
ウェバーはいきなり身を乗り出し、鋭い小さな顎が巡洋艦の船首みたいに風を切った。「そうしていただけるとありがたい」
 デガーモはゆっくり立ち上がった。頬骨が暗い赤みを帯びた。前屈みになり、机の上に片手を置いて、ウェバーを見た。ちょっと緊迫した沈黙があった。
「いいでしょう、警部。しかし、あなたのやり方はまちがってる」
 ウェバーは答えなかった。デガーモはドアのほうに歩いて出て行った。ウェバーはドアが閉まるまで口を開かなかった。
「一年半前のアルモアの件と今日のレイヴァリーの襲撃を結びつけようというのが君の考えた筋書きか? それとも、キングズリーの妻がレイヴァリーを撃ったことを承知の上で煙幕を張っているだけなのか?」
 私は言った。「その件は、撃たれる前からレイヴァリーに結びつけられている。おそらく縦結びのような、ざっくりとしたやり方でね。だが、疑いを抱かせるにはそれで十分だ」
「君が考えている以上に、私はこの問題を徹底的に調べてきた」ウェバーは冷やかに言った。「私はアルモアの妻の死と個人的に何の関係もないし、当時は刑事部長でもなかったが。君が昨日の朝までアルモアのことを知らなかったとしても、それ以来、彼のことをよく耳にしているはずだ」
 私は、ミス・フロムセットとグレイソン家から聞いたことをそのまま彼に伝えた。
「レイヴァリーがアルモア医師を強請っていたというのが君の持論なんだな」彼は最後に訊いた。「そしてそれが殺人事件と何らかの関係があると?」
「持論なんてだいそれたものじゃない。単なる可能性に過ぎない。ただ、それを無視していては探偵稼業はやっていけない。レイヴァリーとアルモアの間に、関係があったとしたら、根の深い危険なものだったかもしれないし、単なる知り合いだったかもしれないし、知り合いですらなかったかもしれない。私の知る限りでは、彼らは互いに話したことがない。しかし、アルモア事件に何もおかしな点がなかったとしたら、事件に興味を持つ者が、なぜこうまで痛い目を見るんだ? ジョージ・タリーが酒気帯び運転で挙げられたのは偶然かもしれない。しかし、それは彼がこの件に取り組んでいた矢先だった。私が彼の家をじろじろ見て、アルモアが警官を呼んだのも、二度目に話をする前にレイヴァリーが撃たれたのも偶然かもしれない。しかし、今夜あなたの部下二人が、私が現れたら面倒を引き起こしてやろう、と手ぐすね引いてタリーの家を見張っていたことは偶然ではない」
「それは認めるよ 」ウェバーは言った。「そして、その事件はまだ終わっていない。告訴したいのか?」
「警察官を暴行容疑で告訴するには、人生は短すぎる 」私は言った。
 彼は少し苦笑した。「それでは、この件はすべて水に流し、いい経験をしたと思うことにしよう 」と彼は言った。「それと、私の知る限り、君の名前は拘留記録に載っていないので、いつでも自由に帰れる。もし私が君だったら、レイヴァリーの件はウェバー警部に任せておく。結果的にアルモア事件との繋がりが判明する可能性のある些細な事案も含めてね」
 私は言った。「可能性のある些細な事案も含めてというなら、昨日ピューマ・ポイント近くの山の湖で溺れてるのが見つかったミュリエル・チェスという女の件もだな?」
 彼は小さな眉を上げた。「そう思うのか?」
「ミュリエル・チェス という名前は知らないかもしれないが、ミルドレッド・ハヴィランドなら知ってるんじゃないか。以前アルモア博士の診療所の看護師だった。ミセス・アルモアがガレージで死体で発見された夜、彼女を寝かしつけた女だ。もし何か不正が行われたとしたら、誰の仕業か知っているかも知れない。金をつかまされるか、脅されるかして、すぐに街を出たのだろう」
 ウェバーはマッチ棒を二本つまみあげ、それを折った。小さな冷たい目は私の顔を見つめていたが、何も言わなかった。
「そして、その時点で」私は言った。「まさにちょっとした偶然に出会う。私が全体像の中で進んで認める唯一つの偶然だ。このミルドレッド・ハヴィランドは、リバーサイドのビアホールでビル・チェスという男と出会い、何らかの事情で彼と結婚し、リトルフォーン湖で一緒に暮らすことになる。そしてリトルフォーン湖の持ち主の妻は、アルモア夫人の遺体を発見したレイヴァリーと懇ろの関係にあった。これこそ本当の偶然と言えるだろう。偶然以外の何物でもないが、それが基本中の基本なんだ。他のすべてはそこから流れ出ている」
 ウェバーは机から立ち上がり、冷水器のところに行って、紙コップの水を二杯飲んだ。彼はゆっくりとカップを握りつぶし、二つを丸めて一つの玉にし、冷水器の下の褐色の金属製の屑入れに落とした。そして、窓の方に歩いて行って湾の向こうを見た。当時は灯火管制が施行される前で、ヨットハーバーには多くの明かりがあった。
 彼はゆっくり机に戻って腰を下ろした。手を伸ばして鼻をつまんだ。何かについて腹を括ろうとしていた。
 彼はゆっくり言った。「それを、一年半後に起こったことと一緒くたにすることに、どんな意味があるのか、さっぱりわからん」
「オーケイ」私は言った。「時間潰しをさせて済まなかった」私は帰りかけた。
「脚はひどく痛むのか?」私が身を屈めて足をさすっていると、彼が訊いた。
「かなりね。だが、よくなりつつある」
「警察の仕事は」彼は優しいとさえいえる声で言った。「問題をどっさり抱え込んでいる。政治とよく似ていてね。人格識見ともに優れた人間を求めているのに、人格識見ともに優れた人間を惹きつけるものが何もない。だから、手持ちの駒を使うしかない。それで、こういうことが起きるんだ」
「分かってる」私は言った。「こういうことには馴れっこでね。何とも思ってないよ。おやすみ。ウェバー警部」
「ちょっと待て」彼は言った。「少し座ってくれ。この件とアルモア事件に関わりがあるとしたら、それを明るみに引っ張り出し、調べてみようじゃないか」
「そろそろ誰かがやってもいい頃合いだ」私は言った。そして、もう一度腰を下ろした。

【解説】

「ウェバー警部はその少し曲った尖った鼻を机越しにこちらに突き出して言った」は<Captain Webber pushed his sharp bent nose across the desk at me and said>。初登場のときにウェバーは次のように描写されている。<His nose was sharp and bent a little to one side>(とがった鼻は少し片方に曲がっている)。清水訳は「とがった鼻が(中略)一方に少々まがっていた」。田中訳は「鼻はほそくとがり、すこしまがつている」。村上訳は「鼻は尖って、少しばかり一方に傾いていた」。

ところが、今回その鼻は、清水訳では「鋭くまがった鼻」、田中訳では「するどい、まがつた鼻」、村上訳では「湾曲した鋭い鼻」になっている。ひとりの人間の鼻は、そうそう形を変えたりしない。先に「とがった」と描写したなら、今回もそう書くのが道理だろう。三氏とも自分が二十一章でどう訳したのか忘れてしまったらしい。

「広くて端正なオフィスは眺めのいい角部屋だった」は<It was a large neat corner office>。清水訳は「広くて、小ざっぱりした、建物のかど(傍点二字)の部屋だった」。田中訳は「きちんとした、端の大きな部屋だ」。村上訳は「広くて小綺麗な角部屋だった」。<corner office>は、たしかに「角部屋」ではあるが、眺めのいい、つまり角を作る二つの壁面が窓になった、重役や役員のために用意された部屋のことだ。日本語にはこの言葉にうまくあてはまる言葉がない。会社なら「重役室」でいいだろうが、警察ではそうもいかない。

「君が今日、署長に就任してたら、私も仲間に入れられたのだろうな」は<If you got made chief of police today, you might let me in on it>。清水訳は「君が今日、署長に任命されたら、私にもやらせてくれるだろうな」。田中訳は「今日は、署長みたいに勝手なことをいろいろやつてたようだが、すくなくとも、あとで話ぐらいは、わたしにもきかせてくれよ」。村上訳は「もしおまえさんが、警察署長の地位についていたら、私もそういうのに荷担させられていたかもな」。

< let me in>は「中に入れる」。この場合、クーニーやダブスのやってるような仕事の仲間入りすることを指すのだろう。ここでは、文末の<today>に注目したい。時間は夜の十時過ぎ。まだ、その日の話だ。清水訳の場合、そんな時間に署長に任命されることはまずないだろう。村上訳は「今日」というように時間を限定していない。しかし、いくらベイ・シティでも、デガーモのような男が警察署長になることはない。

つまり、ここは仮定法過去を使って、あり得ない話を振っているわけだ。万が一、デガーモが今日、警察署長になっていたら、自分も悪徳警官の仕事を命じられていたかもしれない、と言いたいのだ。クーニーやダブスのような下っ端なら、お前は気にしないかもしれないが、俺だったらどうするつもりなんだ、という脅しを利かせているのだろう。田中訳は後半部分の<might>という過去形が読めていない。

「結果的にアルモア事件との繋がりが判明する可能性のある些細な事案も含めてね」は<and with any remote connection it might turn out to have with the Almore case>。マーロウは、このウェバーの言葉を引き取ってウェバーに返す。<And with any remote connection it might have with a woman named Muriel Chess being found drowned in a mountain lake near Puma Point yesterday?>(可能性のある些細な事案も含めてというなら、昨日ピューマ・ポイント近くの山の湖で溺れてるのが見つかったミュリエル・チェスという女の件もだな?)。

マーロウが省いている<turn out to>は「結局~であることが判明する」という意味だ。この時点ではまだ、ミュリエル・チェスの件の調査にウェバーは関わっていないし「アルモア事件との繋がりが判明」していないからこう言うしかない。この部分を三氏はどう訳しているだろうか。

清水訳は「アルモア事件と思いもよらぬところでつながっているかもしれないがね」「ついでにいっとくと、思いもよらぬところで昨日ピューマ・ポイントの近くの湖で溺死しているのを発見されたミュリエル・チェスという女とのつながりがあるかもしれないぜ」。「思いもよらぬところで~つながりがあるかもしれない」と、引用部分が二分されているのが惜しい。

田中訳は「また、ミセズ・アルモアの死因に関係のありそうな、どんなちいさなことも」「ミセズ・アルモアの件にかかり合いのある、ごくちいさなことまでというなら、昨日、ピューマ・ポイントの近くの、山のなかの湖でその溺死体が発見された、ミューリエル・チェスという女もそうですよ」。<turn out to>についてはウェバーが「(関係の)ありそうな」とぼかしたところを。マーロウには「かかり合いのある」と言わせている。田中氏は「言葉を引き取る」ことには無関心で、別の訳語を使っている。

村上訳は「その事件がアルモア事件に結びつくことになるかもしれない、ほんの僅かなコネクションも含めて」「そして、昨日ピューマ・ポイント近くの山間の湖で溺死体で見つかったミュリエル・チェスという名前の女を、この件に結びつけることになるかもしれない、ほんの僅かなコネクションも含めて」。村上氏は同じ文が使われていることを意識しているが、せっかくのその言葉を、後ろに持っていっては「言葉を引き取る」(他人の話の中途からその話に応じる自分のことばを続ける)ことにならない。

「彼はゆっくり机に戻って腰を下ろした。手を伸ばして鼻をつまんだ。何かについて腹を括ろうとしていた」は<He came slowly back to the desk and sat down. He reached up and pinched his nose. He was making up his mind about something.>田中訳には、このセンテンスがそっくり抜け落ちている。

《「オーケイ」私は言った。「時間潰しをさせて済まなかった」私は帰りかけた》は<“Okay,” I said, “and thanks for giving me so much of your time.” I got up to go>。清水訳は《「もういいんだね」と、私はいった。「時間をこんなに割いてくれてありがとう」》。田中訳は《「オーケー。時間をつぶして、すみませんでした」おれはたちあがつて、いきかけた》。村上訳は《「オーケー」と私は言った。「私のために時間をこんなにも割いていただいて、感謝の限りだ」》。清水訳と村上訳は<I got up to go>が欠落している。清水訳はともかく、逐語訳を旨とする村上訳には珍しいことだ。

マーロウが肘掛椅子に腰を下ろすところから始まり、長時間話し込んだあと、それではと立ちかけて、もう一度腰を下ろすところで終わっている。初めに座った時と、二度目に座ったときの間で、二人の互いに相手に寄せる感情が大きく変化している。肝胆相照らす仲とまではいわないが、かなり相手の能力や人柄について知り合えたのではないだろうか。チャンドラーの小説には、パットンもそうだが、マーロウの相手役に印象的な人物がよく登場する。両者の間で行われる細かな心理戦が読む愉しさを生み出しているのだ。精読することで、それがよく分かる。

『湖中の女』を訳す 第二十六章

<dismal flats>は「見すぼらしい家屋」ではなく「海岸沿いの湿地」

【訳文】

 監房棟はほとんど新品同様だった。軍艦の灰色に塗られた鋼鉄の壁や扉は、二、三ヵ所、噛み煙草の唾を吐かれて外観を損ねていたが、まだ塗りたての鮮やかな光沢を保っていた。頭上の照明は天井に埋め込まれ、厚い摺り硝子のパネルが嵌っていた。監房の片側に二段ベッドがあり、上段には濃い灰色の毛布を巻きつけた男がいびきをかいていた。こんなに早くから眠りこんで、ウイスキーやジンの匂いもさせず、眠りを邪魔されないように上の寝台を選んでいるところから見て、古くからいる下宿人にちがいない。
 私は下の寝床に腰を下ろした。銃を持っているかどうかは調べられたが、ポケットはひっくり返されなかった。煙草を取り出して、膝の裏の熱く腫れあがったところをさすった。痛みはくるぶしまで広がっていた。ウィスキーを吐いたせいで、上着の前の方が嫌な匂いがした。私は布地を持ち上げ、そこに煙草の煙を吹きかけた。煙は天井の照明を蔽う平らな矩形の硝子のまわりをたゆたった。留置場は静まり返っていた。留置場のどこか遠く、別の場所で女が金切り声を上げていた。私のところは教会のように平和だった。
 どこにいるのかしらないが、女は叫び続けていた。か細く、甲高い非現実的な声だった。月明かりに照らされたコヨーテの叫び声に似ていたが、コヨーテのように哀調を帯びて高まっていきはしなかった。しばらくすると、その音は止んだ。
 立て続けに煙草を二本吸い、吸殻を隅の小さな便器に捨てた。上段の男はまだいびきをかいていた。見えるのは毛布の端から出ているべっとりと脂ぎった髪の毛だけだ。うつ伏せに寝て、熟睡している。したたかなものだ。
 私は再び寝台に座った。細長い鉄の薄板を並べた上に薄くて固いマットレスが敷いてある。濃い灰色の毛布が二枚、なかなかきちんと畳んである。とてもいい留置場だ。新市庁舎の十二階にある。とてもいい市庁舎だ。ベイ・シティはとてもいいところだ。そこに住む人々はそう思っている。もし私が住人だったらそう思うにちがいない。私の目に映るのは、青い入り江と断崖とヨットハーバー、そして静かな通りに面した家並み。古い家々は年経た樹々の陰で鬱々とし、新しい家々は緑が目に映える芝生と金網のフェンス越しに、支柱を添えた若木が並ぶ緑地のある大通りに面している。私は二十五番通りに住んでる娘を知っていた。気持ちのいい通りだった。彼女は気立てのいい娘だった。そして、ベイ・シティが好きだった。
 彼女は、古い幹線道路の南側の低湿地帯に広がるメキシコ人や黒人のスラム街のことなど考えもしなかったろう。あるいはまた、崖の南側に伸びる平らな海岸沿いの安酒場、盛り場の汗臭い小さなダンスホールマリファナ煙草を扱う店、静か過ぎるホテルのロビーで新聞を読むふりをしながら目を光らせる細い狐顔の男、そして板張りの遊歩道の上で網を張る掏摸、ぺてん師、詐欺師、酔っぱらい専門の盗っ人、ぽん引き、男娼たちのことも。
 私は扉のそばに行って立った。向かい側には誰も動くものはいなかった。監房棟の照明は薄暗くひっそりしていた。留置場というのは因果な稼業だ。
 私は時計を見た。九時五十四分。家に帰り、スリッパに履き替えてチェスの試合を再現する時刻だ。背の高いグラスに入った冷たい酒とパイプを燻らせる長い沈黙の時間。足を投げ出して何も考えずに座る時間。雑誌を読みながら欠伸をする時間。人間として、家長として、くつろいで夜の空気を吸いながら、明日のために頭を切り替える以外に何もすることのないひとりの男になる時間だ。
 青灰色の看守の制服を着た男が、番号を読みながら監房の間を通ってきた。彼は私の房の前で立ち止まり、扉のロックを解除して、彼らがいつもいつもいつも、そうしなければならないと思い込んでいる厳しい目を私に向けた。俺は警官だ、ブラザー。俺はタフだ、気をつけろ、ブラザー。さもないと四つん這いでしか歩けなくしてやるぞ、ブラザー。しゃっきりするんだ、ブラザー。本当のことをすっかりしゃべっちまえ、ブラザー、吐くんだ。忘れるんじゃねえ、俺たちはタフガイだ。俺たちは警官なんだ。お前のような屑どもを好きなように扱えるんだからな。
「出ろ」彼は言った。
 私が監房から出ると、彼は扉の鍵をかけ直して親指をくいと動かした。私たちは大きな鉄製の門扉に向かい、彼はその鍵を開けて私たちは通り抜け、彼は鍵をかけ直した。鍵束が大きな鉄の輪の中で楽しそうな音を立てた。しばらくして、私たちは内側は軍艦の灰色に、外側は木のように塗られた鋼鉄の扉を通った。
 デガーモがカウンターの傍に立って内勤の巡査部長としゃべっていた。
 メタリック・ブルーの眼を私に向けて言った。「調子はどうだ?」
「いい」
「うちのブタ箱みたいにか?」
「いいブタ箱だ」
「ウェバー警部が会いたいそうだ」
「そいつはいい」私は言った。
「いい、という以外に言葉を知らんのか?」
「今は」私は言った. 「ここではな」 
「少し足を引きずってるな」彼は言った. 「何かにつまずいたのか?」
「ああ」私は言った。「ブラックジャックにつまずいてね。ぴょんと跳び上がって左膝の裏に咬みついたんだ」
「そいつは気の毒だ」デガーモは言った。うつろな目だ。「係の者から所持品を受け取れ」
「持ってる」私は言った。「取られなかった」
「そいつはいい」彼は言った。
「そのとおり」私は言った。「いいよ」
 内勤の巡査部長はもじゃもじゃ頭を上げ、我々二人をじっと見つめた。
「そんなに、いいものがお望みなら」彼は言った. 「クーニーのけちなアイリッシュの鼻を見てったらどうだ。ワッフルにかけたシロップみたいに顔中に広がってるぞ」
 デガーモは興味なさそうに言った。「どうした? 喧嘩でもしたのか?」
「さあね」内勤の巡査部長は言った。「例のブラックジャックがぴょんと跳び上がって咬みついたのかもな」
「内勤の巡査部長にしちゃ、ぺらぺらとよくしゃべるな」デガーモは言った。
「内勤の巡査部長は、大抵おしゃべりときてる」内勤の巡査部長は言った。「だから殺人課の警部補になれないんだろうよ」
「な、これで分かったろう」とデガーモは言った。 「ここでは、俺たちはひとつの幸せな家族みたいなもんだ」 
「満面に笑みを浮かべながら」内勤の巡査部長は言った。「歓迎の意を表して両腕を大きく広げるが、両手には石を握ってるのさ」
 デガーモが私の方を向いて顎をしゃくり、我々は外に出た。

【解説】

「監房棟はほとんど新品同様だった」は<The cell block was almost brand new>。清水訳は「留置所の監房はほとんど真新しいといってよかった」。田中訳は「ブタ箱は、ほとんど新築だつた」。村上訳は「留置場は新築同様だった」。<cell block>を辞書で引くと「独房棟」と出る。しかし、ベッドは上下二段で、先客がいるところを見ると「独房」とはいえない。<cell>だけなら「監房」ですむが<block>がついていれば「一棟」の意味だ。しかし、マーロウは通路を歩いただけで留置場のすべてを見たわけではない。自分の見た範囲という意味で「監房棟」としてみた。

「軍艦の灰色に塗られた鋼鉄の壁や扉は、二、三ヵ所、噛み煙草の唾を吐かれて外観を損ねていたが、まだ塗りたての鮮やかな光沢を保っていた」は<The battleship gray paint on the steel walls and door still had the fresh gloss of newness disfigured in two or three places by squirted tobacco juice.>

清水訳は「スチールの壁とドアの軍艦色のグレイのペンキが、吐きつけられた噛みタバコの汁で二、三カ所よごれているほかはまだ新しさを保っていた」。田中訳は「鉄の壁は戦艦のように灰色のペンキでぬつてあり、ドアのしきり(傍点三字)のところも、まだピカピカで、ほんの二、三ヵ所、嚙タバコの汗(ママ)でよごれているだけだ」。田中氏は<door still had>の<still>を<sill>と誤読したのだろう。「汗」は誤植ではないか。

村上訳は「鋼鉄の壁は軍艦の灰色に塗られ、ドアはまだ新鮮な輝きを放っていたが、二、三ヵ所に煙草の汁をつけられ、美観がそのぶん損なわれていた」。田中訳もそうだが、<the steel walls and door>はセットで訳さないとドアが何色か、分からなくなる。また単に「煙草の汁」としてしまうと、<tobacco juice>が「タバコ(嗅ぎタバコまたは噛みタバコ)によって茶色になった唾液」であることが伝わりにくい。

「彼女は、古い幹線道路の南側の低湿地帯に広がるメキシコ人や黒人のスラム街のことなど考えもしなかったろう」は<She wouldn't think about the Mexican and Negro slums stretched out on the dismal flats south of the old interurban tracks.>。清水訳は「彼女はメキシコ人と黒人のスラム街が、いまは使われていない市街電車の線路の南がわの見すぼらしい家屋にひろがってゆくのを考えていなかった」。

清水氏は<the dismal flats>を「見すぼらしい家屋」と訳し、田中訳も「陰気な、ひくい建物」になっている。村上訳は「惨めな低地」としている。一般的には「陰鬱な」と訳されることの多い<dismal>だが、二つの辞書に「(太平洋海岸沿いの高地の)湿地(米方言)」、「(米南部)海岸沿いの湿地」という別解があった。また、<flat>は「家賃の低いアパート」の意味もあるが、<flats>のように複数形になると「平地、浅瀬、湿地、干潟」の意味になる。

「あるいはまた、崖の南側に伸びる平らな海岸沿いの安酒場、盛り場の汗臭い小さなダンスホール」は<Nor of the waterfront dives along the flat shore south of the cliffs, the sweaty little dance halls on the pike>。清水訳は「崖の南がわの海岸にそってならんでいる曖昧(あいまい)宿、汗くさい、ちっぽけなダンスホール」と<on the pike>をスルーしている。

田中訳は「また、南の断崖のむこうには、海岸にそつて埠頭があり、通りには、汗くさい、小汚いダンスホールが並び」と<dives>をカットしている。<on the pike>は「通りには」と訳されている。村上訳は「あるいはまた、崖の南側に沿って並んだ、海辺の曖昧宿のことも、尾根にある汗臭い小さなダンスホールのことも」と<on the pike>を「尾根にある」と訳している。

<pike>には「槍、キタカワカマス(魚)、有料道路、尖峰」等の意味がある。村上氏の「尾根」は「尖峰」から来ているのだろうが、海岸線に沿った猥雑な界隈を眺めていた視線が、唐突に何処とも知れぬ尾根に移るのはどうだろう。1902年にカリフォルニア州ロングビーチにできた娯楽施設に<the Pike>というのがある。海岸沿いの立地、複合的な遊興施設という意味で、その<the pike>を使ったと考えられないだろうか。

「留置場というのは因果な稼業だ」は<Business in the jail was rotten>。清水訳は「留置所はさびれていた」。村上訳は「留置場はいかにも閑散としていた」。<rotten>は「腐った、(道徳的に)腐敗堕落した」という意味だが、「寂れた、閑散とした」という意味はない。<rotten busines>には「因果な商売(稼業)」という意味がある。おそらく、これを使ったのだろう。どうしたことか、田中訳にはこの文を含む四つの文からなるセンテンスが見られない。うっかりして、読みトバしたのかもしれない。

<「満面に笑みを浮かべながら」内勤の巡査部長は言った。「歓迎の意を表して両腕を大きく広げるが、両手には石を握ってるのさ」>は<“With beaming smiles on our faces,” the desk sergeant said, “and our arms spread wide in welcome, and a rock in each hand.”>。ところが、清水訳にはこの部分が欠落している。章の結びにあたるところでもあり、うっかりミスとは考えにくい。田中訳といい清水訳といい、この章には遺漏が多い。何かわけでもあるのだろうか。

 

『湖中の女』を訳す 第二十五章

<touched>は「気がふれた、頭が変だ」


【訳文】

 ウェストモアは街外れを南北に走る通りだ。私は北に向かって車を走らせた。次の角で、もう使われていない都市間鉄道の線路をがたごとと横切り、一区画まるごと廃車置き場になっているブロックに入った。木製のフェンスの向こうには、解体された古自動車の残骸がグロテスクな格好で山と積まれ、まるで近代戦の戦場のようだ。月の下で錆びた部品の山はごつごつして見える。屋根の高さまで積み上げられた部品の間に細い道が通じていた。バックミラーにヘッドライトが光った。光が大きくなる。私はアクセルを踏み、ポケットからキーを取り出してグローブボックスの鍵を開けた。三八口径を取り出してシート上に置き、脚の横に寄せた。
 廃車置き場の向こうは煉瓦工場だった。荒れ地のずっと向こう、窯の上に突き出た高い煙突に煙は出ていない。暗い煉瓦の山、看板のある低い木造の建物、空っぽで、動くものもない、明かりもない。
 後ろの車が差を詰めた。やや狂気を帯びたサイレンが低い唸り声を上げて夜を抜けてきた。その音は、東は放置されたゴルフ場のへりをかすめ、西は煉瓦工場を横切っていった。私はもう少しスピードを上げたが、何の役にも立たなかった。後ろの車が急接近してきて、巨大な赤いスポットライトがいきなり道路一面を照らし出した。
 その車は横並びになり、割り込みはじめた。私はクライスラーを急停止し、パトカーの後ろに回り込んで、半インチの余裕をもってUターンし、逆方向にエンジンをふかした。後ろで、荒っぽいギア鳴りと激怒したエンジンの咆哮が聞こえ、赤いスポットライトが煉瓦工場を何マイルも越え、あたりをなめまわした。
 無駄骨だった。彼らはすぐ私の背後に迫り、スピードを上げてきた。逃げおおせると思ったわけではない。私としては、人家のあるところまで戻れば、何ごとかと通りに出てきた人の目に留まり、もしかしたら覚えておいてもらえるかと思ったのだ。
 思ったようにはいかなかった。パトカーがまた横に並び、耳障りな声が怒鳴った。
「路肩に寄せろ。さもないと風穴をあけるぞ!」
 私は道路脇に車を停め、ハンドブレーキを引いた。銃をグローブ・ボックスに入れ、音を立てて蓋を閉じた。私の左フロントフェンダーのすぐ前でパトカーのスプリングが跳ね上がった。太った男がドアをバタンと閉めて車から飛び出てきて怒鳴った。
「警察のサイレンを聞いたことがないのか? 車から降りるんだ!」
 私は車から出て、月光の下、車の横に降り立った。太った男は銃を手にしていた。
「免許証をよこすんだ」シャベルのブレードぐらい固い声で吠えた。
 私は免許証を差し出した。車に乗っていた別の警官がハンドルの下から滑り出て、傍にやってきて私の手から免許証を受け取り、懐中電灯をつけて読んだ。
「名前はマーロウ」彼は言った。「何てこった。探偵だとよ。こいつは傑作だ。クーニー」
 クーニーは言った。「それだけか? じゃ、これはいらないな」彼は銃をホルスターに戻し、革製のフラップをボタンで留めた。「俺の小さな手で間に合うだろう 」彼は言った。「まかせとけ」
 もう一人が言った。「五十五マイル出てる。飲んでるな。まちがいなく」
「匂いを嗅いでみな」クーニーが言った。
 もう一人の警官は礼儀正しく薄笑いを浮かべながら身を乗り出した。「匂いを嗅がせてもらうよ、探偵さん?」
 私は匂いを嗅がせた。
「ふうむ」と彼は慎重に言った。「ふらついてはいない。それは認めるよ」
「夏にしちゃ冷える夜だ。一杯飲ませてやったらどうだい。ダブス巡査」
「そいつはいい考えだ」ダブスは言った。彼は車に戻り、半パイント入りのボトルをとってきた。まだ三分の一残っていた。「あんまり残っちゃいないが」彼は言った。彼はボトルを差し出した。「景気づけに一杯やりな」
「飲みたくないといったらどうする」私は言った。
「そんなこと言うなよ」クーニーは鼻を鳴らした。「腹をふんづけて欲しいのか、と考えてしまうだろうが」
 私はボトルの栓を開けて匂いを嗅いだ。ボトルの中に入っていた酒はウィスキーのような匂いがした。ただのウィスキーだ。
「年がら年中、同じギャグばかりじゃ仕事は勤まらないぜ」私は言った。クーニーが言った。「八時二十七分。記録しておけ、ダブス巡査」
 ダブスは車に戻って中に屈みこんで報告書に書いた。私はボトルを持ち上げてクーニーに言った。「どうしてもこれを飲めと?」
「いや、 代わりに、腹にジャンプしてもらうこともできる」
 私はボトルを傾けて、口にウィスキーを含んだが、喉の奥には入れなかった。クーニーは突進してきて、私の腹に拳を叩き込んだ。私はウィスキーを吐き出してむせた。手からボトルが落ちた。
 それを拾おうと前屈みになったところへ、クーニーの太った膝が、顔めがけて上がってきた。私は脇に寄ってからだを起こし、ありったけの力で相手の鼻を殴りつけた。彼は左手で顔をおさえ、うめき声をあげながら、右手をホルスターに伸ばした。ダブスが横から走ってきて、低い位置で腕を振り回した。ブラックジャックが私の左膝の裏側を打って、足が痺れ、私は地べたに座り込み、歯を食いしばってウイスキーを吐き出した。
 クーニーは血まみれの顔から手を離した。
「ちくしょう」彼はぞっとするようなだみ声で言った。「これは血だ。俺の血だ」。彼は荒々しい唸り声を上げ、私の顔に向かって足を振り下ろした。
 私は転がって肩でそれを受けた。それでも痛いことに変わりはなかった。
 ダブスは二人の中に割って入り、言った。「もう充分だ。チャーリー。ぶち壊しにしない方がいい」
 クーニーは、足を引きずって後ろに三歩下がり、パトカーのランニングボードに座り込んで顔を押さえた。彼は手探りでハンカチを探し、鼻にそっとあてた。
「ちょっと待ってくれ」ハンカチ越しに彼は言った。「ちょっとでいい。ほんのちょっと」
 ダブスは言った。「落ち着け。もう充分だ。仕方ないだろう。世の中そうしたもんだ」彼は脚の横でブラックジャックをゆっくり揺らしていた。クーニーはランニングボードにつかまって起き上がり、よろよろと前に進んだ。ダブスは彼の胸に手を添えてそっと押し返した。クーニーは手をどけようとした。
「俺は血が見たいんだ」彼は叫んだ。「もっと血が見たい」
 ダブスはそっけなく言った。「何もするな。落ち着け。欲しいものはみんな手に入れた」 クーニーは振り向いて、重い足どりでパトカーの向こう側に歩いて行った。 車に寄りかかって、ハンカチ越しにぶつぶつつぶやいていた。 ダブスは私に言った。
「立ちな、ボーイフレンド」
 私は立ち上がり、膝の裏を揉んだ。足裏の神経は怒れる猿のように跳ね上がった。
「車に乗れ」ダブスは言った。「我々の車だ」
 私はパトカーまで行って乗り込んだ」
 ダブスは言った。「君はもう一台の方を運転するんだ。チャーリー」
「俺はこの車のフェンダーを全部引きちぎってやるぜ 」クーニーは叫んだ。
 ダブスはウィスキーのボトルを拾い上げ、フェンスの向こうに投げ、私の横に滑り込んだ。彼はスターターを押した。
「こいつは高くつくぜ」彼は言った。「あいつを殴るべきじゃなかった」
 私は言った。「どこがいけない?」
「あいつはいいやつだからだ」ダブスは言った。「少しやかましいが」
「だが、面白くない」私は言った。「これっぽっちも面白くない」
「あいつには言うなよ」ダブスは言った。パトカーは動き出した。「彼の気持ちを傷つけてしまう」
 クーニーはクライスラーに乗り込むと、ドアをバタンと閉めてエンジンをかけた。そして、まるで歯車をすり減らそうとしているみたいに、ギアをガリガリと鳴らした。ダブスはパトカーを難なく運転して、再び煉瓦工場に沿って北に向かった。
「新しいブタ箱は、きっと気にいるよ」彼は言った。
「何の罪だ?」 彼はしばらく考えた後、馴れた手つきで車を操り、クーニーが後ろに続いているのをバックミラーで見ていた。 
「スピード違反」と彼は言った。「公務執行妨害。 H.B.D.」。H.B.D.は「飲酒運転(had been drinking)」を意味する警察のスラングだ。
「腹を殴られ、肩を蹴られ、危害を加えると脅されて酒を飲まされ、銃で脅され、ブラックジャックで殴られた。それも丸腰でだ。これについてはどう考えてるんだ? こっちの方をいくらかでも活用することはできないのか?」
「忘れてしまうことだ 」と彼は疲れたように言った。「こんなことを俺が楽しんでるとでも思っているのか?」
「この街も少しはきれいになったと思ってたんだ」私は言った。「まっとうな人間なら、防弾チョッキなしで夜の通りを歩けるくらいには」
「いくらかはきれいになった」彼は言った。「きれいになり過ぎると困る者もいる。汚い金が入って来なくなるのが怖いんだ」
「そういうことは言わない方がいい」私は言った。「組合員証をなくすことになる」
 彼は笑った。「知ったことか」彼は「二週間後には陸軍に入るんだ」
 彼にとって、この事件は終わったのだ。何の意味もなかった。彼はそれを当然のこととして受け止めていた。苦にしてさえいなかった。

【解説】

「やや狂気を帯びたサイレンが低い唸り声を上げて夜を抜けてきた」は<The low whine of a lightly touched siren growled through the night>。清水訳は「サイレンの低い呻きが夜の闇をつんざいて聞こえた」。<a lightly touched>はスルー。田中訳は「調子のいいサイレンの音が、夜の闇のなかに響いてきた」。村上訳は「軽く押されたサイレンの低く唸るような響きが、夜の闇を貫いて聞こえた」だ。

当時のアメリカのパトカーのサイレンがどんな仕組みか知らないが、クラクションではあるまいし、「軽く押された」というのはどうだろう。それに、軽く押された」と「低くうなる」では辻褄が合わない。章の冒頭から、陰鬱で物寂しい情景描写が続いている。田中訳の「調子のいい」というのも、その場の雰囲気にそぐわない。<touch>は通例<touched>と、過去分詞で形容詞的に用いられるときは「気がふれた、頭が変だ」のように「(人の)精神が損なわれている」の意味になる。

「太った男がドアをバタンと閉めて車から飛び出てきて怒鳴った」は<A fat man slammed out of it roaring.>。清水訳は「ふとった男が大声でどなりながら車から出てきた」。田中訳は「デブのお巡りが、わめきながらおりてきた」。両氏が「どなる」わめく」と訳したのは<roaling>。では、<slammed out>はどうなったのか? <slam (out)>は「ドアをバタンと閉める」こと。村上訳は「太った男が怒声をあげながら、ドアをばたんと閉めて車から出てきた」。わけは知らないが、村上氏は擬音をひらがなで書くのを好む。

「五十五マイル出てる。飲んでるな。まちがいなく」<Doing fifty-five. Been drinking, I wouldn't wonder.>。清水訳は「五十五マイル出てた。飲んでるんだろう」。田中訳は「制限速度以上に五十五マイルで走つてた。飲んでたんだろう。まちがいない」。村上訳は「スピード違反に、飲酒運転。その線でいいな」。後で出てくる罪状に合わせたのだろうが、いくら初めからそうする気でも、被疑者の前で「その線でいいな」と言うのは乱暴に過ぎる。

「まるで歯車をすり減らそうとしているみたいに、ギアをガリガリと鳴らした」は<clashed the gears as if he was trying to strip them.>。清水訳は「乱暴にギアを入れた」。田中訳は「ギヤがぶつこわれたかと思うぐらい、ガリガリ鳴らした」。村上訳は「ギアを派手にクラッシュさせた。まるでギアを粉々にしてしまいたいみたいに」。<strip>は「ねじ山をすり減らす」、<clash>は「大きな金属音を立てる」という意味。「クラッシュさせる」の英訳は<crush>で、こちらは「押しつぶす」の意。もしかしたら村上氏は両者を取り違えたのではないか。

 

『湖中の女』を訳す 第二十四章

<play one's cards right>は「うまく立ち回りさえすれば」

【訳文】

 ウェストモア・ストリートの家は、大きな家の後ろにある小さな木造の平屋だった。小さい方の家に番号表示はなかったが、手前の家のドアの横にステンシルで1618と型抜きがされ、裏に薄明かりが点っていた。コンクリートの狭い小径が窓の下を通って奥の家まで続いている。小さなポーチの上には一人掛けの椅子がひとつ置いてあった。私はポーチに上がり、呼鈴を鳴らした。
 そんなに遠くないところでベルが鳴った。網戸の後ろで玄関ドアが開いたが、明かりはつかなかった。暗闇の中から不平たらたらの声がした。
「なによ?」
 私は暗闇に向かって言った。「ミスタ・タリーはご在宅ですか?」
 声は単調で抑揚を欠いていた。「あんた誰?」
「友人です」
 暗闇の中に座っていた女は、喉の奥の方で曖昧な音を立てた。面白がっていたのかもしれない。それとも、ただの咳払いか。
「はいはい」彼女は言った。「で、いくらなの?」
「取り立てじゃありません。ミセス・タリー。ミセス・タリーですよね?」
「ねえ、頼むから消えて、私を放っておいて」声は言った。「ミスタ・タリーはここにいない。ずっといなかったし、これから先もいない」
 私は鼻を網戸に押しつけて部屋の中をのぞこうとした。家具の輪郭がぼんやり見えた。声がしたところにソファの形も見えた。女はそこに寝そべっていた。仰向けに寝て天井を見上げているようだ。ぴくりとも動かない。
「具合が悪いの」声が言った。「もめ事はもうたくさん。帰って、私にかまわないで」
 私は言った。「グレイソン夫妻と話をしてきたところなんです」わずかな沈黙が続いたが、動きはなく、それからため息が漏れた。「そんな人、知らない」
 網戸のドア枠に体をもたせ、通りに続く狭い通路を振り返った。駐車灯をつけた車が一台、道の向こうにいた。ブロックに沿って他に何台か停まっていた。
 私は言った。「いや、あなたは知ってるはずだ、ミセス・タリー。私は彼らのために働いている。彼らはまだあきらめず頑張っています。あなたはどうです。取り戻したいと思いませんか?」
 声が言った。「私は放っておいてほしいの」
「情報が欲しいんです」私は言った。「私はそれを手に入れるつもりだ。できれば穏やかに。それができなければ、大声を出してでも」
 声は言った。「あんたも、警官なの?」
「私が警官じゃないことは知ってるでしょう、ミセス・タリー。グレイソン夫妻は警官と話したりしない。お二人に電話して訊いてみればいい」
「そんな人のことは知らない」という声が聞こえた。「もし、知ってても、ここには電話がない。帰ってよ、お巡りさん。具合が悪いの。ここひと月ずっと病気なの」
「私の名前はマーロウ」私は言った。「フィリップ・マーロウロスアンジェルスの私立探偵だ。グレイソン夫妻と話をしてきた。つかんだことがあるんだが、ご主人と話がしたい」
 ソファの上の女は、こちらに届くか届かないくらい微かな笑い声を立てた。「つかんだ ことがある」と彼女は言った。「聞き覚えのある台詞ね。やれやれ。つかんだことがある。ジョージ・タリーも、つかんだことがある。一時はね」
「またつかむこともできる」私は言った。「うまく立ち回りさえすれば」
「そういうことなら」彼女は言った。「彼の名前は今すぐリストから消した方がいい」
 私はドアの枠に寄りかかり、そうする代わりに顎を掻いた。表通りで誰かが懐中電灯をつけた。なぜかはわからない。灯りがまた消えた。私の車の近くのようだった。
 ソファの上のぼんやりした青白い顔が消え、かわりに髪が現れた。女は顔を壁に向けた。
「疲れた」彼女は言った。壁に向かって話しているので声がくぐもっていた。「心底くたびれた。出てってよ、ねえ。おとなしく帰って」
「少し金の助けを借りるというのはどうかな?」
「葉巻の匂いがしない?」
 嗅いでみた。葉巻の匂いはしなかった。私は言った。「しないね」
「ここにお巡りがいたの。ここに二時間もよ。何もかもうんざり。出て行って」
「考えてみてくれ。ミセス・タリー」
 彼女はソファの上で寝返りをうった。ぼんやりとした顔がまた見えた。はっきりとではないが、もう少しで目が見えそうだった。
「あんたの方こそ、考えてもみて」彼女は言った。「私はあんたを知らない。知りたくもない。話すことなど何もない。もし、あったとしても話すつもりはない。私はここで生きている。もし、これで生きていると言えたらね。とにかく、かろうじて生きてはいる。私のことは、静かにそっとしておいてほしいの。もう帰って、私を一人にしておいて」
「中に入れてくれないか」私は言った。「この件について話し合おう。見せるものがある」
 彼女は突然ソファの上でこちらに向き直り、両足で床を打った。声が怒りを帯びた。
「出て行かないと」彼女は言った。「大声を出すわよ。さあ、今すぐに!」
「オーケイ」私はあわてて言った。「名刺をドアに挟んでおく。名前を忘れないように。もしかして気が変わったときのために」
 名刺を取り出して網戸の隙間に差し入れた。私は言った。「それじゃ、おやすみ。ミセス・タリー」
 返事はなかった。部屋の奥から目がこちらを見ていた。暗闇の中で微かに光って見えた。私はポーチから下り、狭い小径を歩いて通りに引き返した。
 通りの向こうでは、駐車灯をつけた車が、静かなエンジン音を立てていた。至るところ、何千もの通りで、何千もの車が、静かなエンジン音を立てている。私はクライスラーに乗り込み、エンジンをかけた。

【訳文】

「大きな家の後ろにある小さな木造の平屋だった」は<a small frame bungalow behind a larger house>。清水訳は「一軒の大きな邸のうしろの小さなバンガロウだった」。田中訳は「大きな家のうしろにある、ちいさな、木造のバンガロー風の建物だつた」。村上訳は「小ぶりな木造バンガローで、大きな家の背後にあった」。日本で「バンガロー」といえば、キャンプ場のあれを指すが、あれは英語では<hut>。<bungalow>は、通例平屋で正面に広いベランダがついた一戸建て住宅を意味する。

「手前の家のドアの横にステンシルで1618と型抜きがされ」は<the one in front showed a stencilled 1618 beside the door>。もしかすると、目的の家は1618番地内に建てられたセカンド・ハウスだったという可能性もある。<1618½>は、そういう意味だったのかもしれない。もし、そうだとすると田中訳の「一六一八ノ二」あたりが、適訳ということになる。

「ミスタ・タリーはここにいない」は<Mr. Talley isn't here>。自分の夫を、ミスタ呼ばわりするのは、かなり他人行儀な態度だ。タリーという人物に対するわだかまりが感じられる。ここはそのまま訳すべきだろう。ところが、清水訳は「タリーはいないわ」。田中訳は「うちのひとはいないわ」。村上訳は「主人はここにいない」。三氏とも、わざわざ自分の夫であることが分かるように訳している。小さな親切、大きなお世話というものだ。

「声がしたところにソファの形も見えた」は<From where the voice came from also showed the shape of a couch>。清水訳は「声のする方に長椅子がおいてあるようだった」。田中訳は「声がするほうには、長椅子のかたちが見えた」。村上訳は「声の聞こえてくるあたりにはソファのような形が見えた」。<couch>は「寝椅子」や「長椅子」と訳されることが多い。家具としては、両肘掛けが「ソファ」、片肘掛け、あるいは肘掛けなしが「カウチ」と分類されるようだが、アメリカで<couch>といえば「ソファ」のことだ。

「うまく立ち回りさえすれば」は<if he plays his cards right>。清水訳は「使うカードをまちがえなければね」。田中訳は「へんなことをしなければ」。村上訳は「カードを正しく扱えばね」。<play one's cards right>は、カードゲームから出てきたフレーズ。「(いかさまをせずルールにのっとって)しっかり事を運ぶ」という意味で使われる。

 

『湖中の女』を訳す 第二十三章(2)

<fussy about>は「(小さなことに)こだわる」という意味。

【訳文】

 私はミセス・グレイソンを見た。手は動き続けていた。もう一ダースは靴下を繕い終えていた。グレイソンの長い骨ばった足で、靴下はすぐ傷むのだろう。
「タリーに何が起きたんです? はめられたんですか?」
「疑いの余地がない。彼の奥さんはひどく腹を立てていた。奥さんの話では、バーで警官と飲んでいて、一服盛られたようだ。道の反対側にパトカーが待っていて、彼が運転を始めると、すぐに逮捕されたらしい。その上、留置場ではお座なりの検査しか受けていない」
「それにたいした意味はありません。逮捕された後で奥さんに言ったことです。誰だってそれくらいのことは言いますよ」
「私だって警察が不正をしてるとは考えたくない」グレイソンは言った。「しかし、そういうことは現に起きているし、誰でも知っている」
 私は言った。「もし、警察がお嬢さんの死に関してうっかりミスをしていたなら、それをタリーに暴露されたくはなかったでしょう。何人かの首が飛ぶ話です。もし、警察が彼の本当の狙いが強請りだと考えたなら、彼をどう処理するかでそこまで気を揉まなくてもよさそうなものだ。タリーは今どこにいるんです? 要するに、確かな手がかりがあるとして、彼はそれを手に入れたか、追跡中で、自分が探しているものを知っていたということです」
 グレイソンは言った。「彼がどこにいるのかは知らない。刑期は半年だったが、とうの昔に終わっている」
「奥さんの方はどうしてます?」
 彼は自分の妻を見た。彼女はそっけなく言った。「ベイシティ、ウェストモア・ストリート、一六一八番地南。ユースタスと私は、彼女に少しばかりお金を送りました。一人残されて暮らしに困っていたから」
 私は住所を書き留め、椅子の背に凭れて言った。
「今朝、誰かがレイヴァリーを撃ち殺しました。彼の浴室で」
 グレイソン夫人のふっくらとした手が籠の端で動かなくなった。グレイソンはパイプを握り、口を開いて座っていた。そして、死体を目の前にしているように、軽く咳払いをした。古びた黒いパイプが、気づかないほどゆっくり動いて歯の間に戻った。
「もちろん、期待のしすぎかもしれないが」と彼は言いかけ、宙に浮いた言葉に吹きかけるように淡い煙を少し吐いて、続けた。「アルモア医師はそれに関係しているのだろうか」
「そう考えたいところです」私は言った。「だいいち、住まいが目と鼻の先だ。警察は私の依頼人の夫人が彼を撃ったと考えています。警察が彼女を見つけたら、事件は解決したようなもの。ですが、もしアルモアが絡んでいるとしたら、それはきっとお嬢さんの死に起因してるはず。だからこそ、私はそのことについて何かを見つけようとしているのです」
 グレイソンは言った。「一つの殺人を犯した者は、次の殺人を犯すことに、二五パーセント以上躊躇はしないだろう」彼はこの問題について考え抜いたかのように言った。
 私は言った。「そうかもしれません。最初の殺人の動機として何が考えられますか?」
「フローレンスは放縦だった」彼は悲しげに言った。「わがままで手に負えない娘だった。浪費家で金遣いが荒く、いつも、どうにも信用できそうにない友だちを新しく見つけてきた。大きな声でよくしゃべり、たいていは道化役を演じていた。あんな妻は、アルバート・S・アルモアのような男にとっては爆弾を抱えているようなものだ。しかし、それが最大の動機だとは思えない。そうじゃないか、レティ?」
 彼は妻を見たが、妻の方は彼を見なかった。かがり針を丸い毛糸の玉に突き刺したきり、何も言わなかった。
 グレイソンは溜め息をついて続けた。「どうやら、フローレンスは彼が診療所の看護婦とできていることを、みんなに言いふらすと脅していたようだ。彼は放っておけなかったんだろう。一つのスキャンダルは易々と別のスキャンダルにつながりかねないからね」
 私は言った。「彼はどうやって殺したんです?」
「もちろん、モルヒネだ。彼はどんな時も持ち歩いていて、いつも使っていた。モルヒネの使用に関しては専門家だった。娘が深い昏睡状態になってから、ガレージに運んで、エンジンをかけたんだ。知っての通り、検死はなかった。しかし、もし解剖されていたなら、その夜、娘が皮下注射をされていたことがわかったはずだ」
 私はうなずいた。彼は満足そうに椅子の背に凭れ、片手を頭に持って行き、それから顔を撫でるように下ろし、骨ばった膝の上に落とした。彼はこの局面についても研究を重ねてきたようだ。
 私は彼らを見た。年老いた二人が静かに座って、事件から一年半もの間、憎しみという毒を心に注ぎ続けている。アルモアがレイヴァリーを撃ったと分かれば、彼らは喜ぶことだろう。大喜びするに違いない。きっとその知らせは彼らのくるぶしまで温めてくれるだろう。
 しばらくしてから私は言った。「あなたは多くのことを信じておられる。自分がそうしたいという理由でね。彼女が自殺した可能性だってあるし、隠蔽工作は、ひとつはコンディの賭博場を守るため、もう一つは、アルモアが公聴会で質問されるのを防ぐためだったとも考えられる」
「ばかな」グレイソンは語気を荒げた。「彼が娘を殺したに決まってる。娘はベッドにいた。眠ってたんだ」
「分かりませんよ。娘さん自身が麻薬を常用していたかもしれません。麻薬に耐性ができていたのかもしれない。その場合、効果は長くは続きません。夜中に起きて、ガラスに映った自分を見て、悪魔が自分を指差しているのを見たかもしれない。そういうこともあります」
「これくらい相手をすれば、もう充分だろう」グレイソンは言った。
 私は立ち上がった。私は二人に礼を言い、ドアに向かって一ヤードほど行ってから言った。「タリーが逮捕された後、この件について何もなされなかったんですか?」
「リーチという地方検事補に会った」グレイソンは不満たらたらだった。「骨折り損だった。検事局には干渉する正当性がないという見解だ。麻薬の件にも無関心だった。しかし、コンディの店はひと月ばかり後に閉鎖された。何かのきっかけにはなったのかもしれない」
「ベイシティの警察がこっそり逃がしたんでしょう。探す気さえあれば、コンディはどこか別のところで見つかりますよ。 賭博台やらなにやら、前の店そっくりそのままで」
 私はまたドアのほうに歩きかけた。グレイソンは椅子から立ち上がり、足を引きずるように部屋を横切って私の後についてきた.。黄色い顔に赤みが差していた。
「無礼な真似をするつもりはなかった」彼は言った. 「レティと私は、この事件について、こんなふうにくよくよ思い悩むべきではないんだろう」
「お二人ともよく我慢されたと思います」私は言った。「まだ名前があがっていない、他の誰かがこの件に関わっていませんでしたか?」
 彼は頭を振って、それから妻の方を振り返った。彼女の両手は卵形のかがり用裏当ての上で修繕中の靴下を握ったまま動きをとめていた。少し首を傾げていた。耳を澄ましているようにも見えたが、私たちの話にではなかった。
 私は言った。「私が耳にした話では、アルモア医師の診療所の看護師があの夜、彼女をベッドに寝かせたそうですが、それが彼の浮気相手でしょうか?」
 ミセス・グレイソンが急に口を挟んだ。「ちょっと待って。私たちはその人に会ったことはないけど、なんだか可愛い名前でした。もう少し時間をちょうだい」
 一分ほども待ったろうか。「ミルドレッド・なんとか」彼女はそう言って歯を鳴らした。
 私ははっと息を呑んだ。「まさか、ミルドレッド・ハヴィランドじゃないでしょうね? ミセス・グレイソン?」
 彼女は明るく微笑んでうなずいた。「そうよ、ミルドレッド・ハヴィランド。覚えてるでしょ、ユースタス?」
 彼は覚えていなかった。彼はまちがった厩舎に入り込んだ馬のように我々を見た。彼はドアを開けながら言った。
「それが、何か?」
「タリーは小柄な男だって言いましたよね?」私はなおも食い下がった。「例えばの話ですが、声も態度も大きい、いかつい大男ではありませんね?」
「いいえ」ミセス・グレイソンは言った。「タリーさんは中背ともいえないくらいで、中年で茶色っぽい髪をした、とても穏やかな声で話す人でした。少し心配そうな表情をしてました。何というか、いつも心配事を抱えている人みたいな」
「その必要があったようですね」私は言った。
 グレイソンが骨ばった手を出し、私はそれを握った。タオル掛けと握手しているような気がした。
「もし彼を捕まえたら」彼はそう言ってパイプのステムを口にしっかりくわえた。「請求書を持ってまた来てくれ。もちろん、アルモアを捕まえたら、ということだよ」
 私は、アルモアのことだとわかっているが、請求書は要らないだろうと言った。
 私は静かな廊下を戻った。自動運転のエレベーターは、赤いフラシ天の絨毯が敷かれていた。年ふりた香水の匂いがした。お茶を飲む三人の寡婦といった趣きの…。

【解説】

「もし、警察が彼の本当の狙いが強請りだと考えたなら、彼をどう処理するかでそこまで気を揉まなくてもよさそうなものだ」は<If they thought what he was really after was blackmail, they wouldn't be too fussy about how they took care of him>。清水訳は「彼がねらってたのが恐喝だったと警察が考えたとしたら、警察は彼を始末するのにいろいろと騒ぎ立てなかったでしょう」。

村上訳は「でももしタリーの目的が脅迫にあるとわかれば、警察は必死になって彼をどうこうしようとまでは思いますまい」。ところが、田中訳だけは「また、タリイがドクター・アルモアをゆするタネをさがしてると警察で信じこんでいたら。あらつぽいまねもへいきでやつたにちがいない」と逆になっている。<fussy about ~>は「~を気にする、(小さなことに)こだわる」という意味で「騒ぎ立てる」や「必死になって」ということではない。

「ベイシティ、ウェストモア・ストリート、一六一八番地南」は<1618Ѕ Westmore Street, Bay City>と書かれているテクストと<1618½ Westmore Street, Bay City>となっている二通りのテクストがあるようだ。清水訳と村上訳は<1618½>のようだ。田中訳は「一六一八ノ二」としている。アメリカの住所表示は、交差する二本の通りを基準にして、数字の後に方角を示す、NEWSのうちのどれか一文字をつける。通りの名前が一つの場合、後ろに<S>があるなら、その通りは東西に延びているということだ。

「ベイシティの警察がこっそり逃がしたんでしょう」は<That was probably the Bay City cops throwing a little smoke>。清水訳は「おそらくベイ・シティの警察が少々動いたのでしょう」。田中訳は「それは、ベイ・シティの警察が、煙幕を張つてるんでしよう」。村上訳は「ベイ・シティ―の警察が多分少しばかり煙幕を張ったのでしょう」。<throw smoke>は「退屈なパーティーや会場から、さよならを言わずに気付かれずに逃げること」を表すスラング

「彼女の両手は卵形のかがり用裏当ての上で修繕中の靴下を握ったまま動きをとめていた」は<Her hands were motionless holding the current sock on the darning egg>。清水訳は「夫人の手は編みかけているソックスを持ったまま動かなかった」と<the darning egg>をトバしている。田中訳は「ミセズ・グレイスンは、かがり玉の上にべつの靴下をかぶせていたが、その手はじつと動かなかつた」。<darning egg>は「かがり縫いの時に穴に当てる、石や陶器などでできた卵形の道具」のこと、村上訳は「彼女の手は卵形のかがりもの(傍点五字)用裏当ての上に修繕中の靴下を置いたまま、じっと止まっていた」。

「私ははっと息を呑んだ」は<I took a deep breath>。清水訳は「私は息を深く吐いた」。田中訳はここをカットしている。村上訳は「私はひとつ深く呼吸をした」。<take a deep breath>を辞書で引けば「深呼吸する」と出てくる。だが、文脈から考えた場合、こういう時、息は「吐く」ものか、「呑む」ものか。あるいは、「呼吸」するものか。驚いた時などに一瞬、息を止めることを「息を呑む」という。マーロウは「ミルドレッド」の名を聞いたとき、びっくりしたはずだ。ここは「息を呑んだ」のではないだろうか。

「年ふりた香水の匂いがした。お茶を飲む三人の寡婦といった趣きの…」は<It had an elderly perfume in it, like three widows drinking tea>。清水訳は「紅茶を飲んでいる三人の未亡人のような年老いた匂いがただよっていた」。田中訳は「未亡人が三人集まつてお茶を飲んでる時のような、なんだかばあさんくさい香水のにおいがした」。村上訳は「エレベーターには古くさい香水の匂いがした。お茶を飲んでいる三人の未亡人くらい旧弊な匂いだった」。好みが分かれるところだが、章の終わりらしく決めたいところだ。

 

『湖中の女』を訳す 第二十三章(1)

<mean business>は「(冗談ではなく)本気だ」という意味

【訳文】

 ロスモア・アームズは大きな前庭を囲むように建つ、暗赤色の煉瓦造りの陰気な建物だった。フラシ天を張り廻らしたロビーの中には、静寂、鉢植えの植物、犬小屋みたいに大きな籠に入れられて退屈しきったカナリア、古い絨毯の埃の匂い、そして、時を経た山梔子のうんざりするほど甘い香りが収まっていた。
 グレイソン夫妻は北棟の五階、正面側に住んでいた。二人が一緒に座っていたのは、わざと二十年は時代遅れに見えるように設えた部屋だった。分厚い詰め物で膨れ上がった家具に卵形の真鍮のドアノブ、金箔で縁どられた巨大な壁鏡、窓際の大理石張りのテーブル、窓の両端には深紅のフラシ天の厚手のカーテンが掛かっていた。パイプ煙草の煙の向こうに、夕食に食べたラムチョップとブロッコリの匂いが漂っていた。
  グレイソンの妻はふくよかな女性だった。かつてはベイビー・ブルーだったであろう大きな瞳も今は色褪せ、眼鏡のせいでぼやけ、わずかに飛び出て見えた。髪は白く縮れていた。太いくるぶしを交差させて座り、足先をかろうじて床に伸ばし、靴下をかがっていた。膝の上に柳を編んだ大きな裁縫籠をのせていた。
 グレイソンは、長身で猫背の黄色い顔をした男で、怒り肩で眉毛が濃く、ほとんど顎というものがなかった。顔の上の方は本気だが、下の方はバイバイと言っていた。遠近両用眼鏡をかけ、不機嫌そうに夕刊にかじりついている。彼のことは電話帳で調べてあった。公認会計士で、いかにもそれらしかった。指にインクの染みをつけ、前開きのヴェストのポケットには鉛筆を四本も入れていた。
 彼は私の名刺を丹念に七回読み、私をじろじろと眺め回してから、ゆっくり口を開いた。
「私どもに、何の御用でしょう、マーロウさん?」
「レイヴァリーという男に興味がありまして。アルモア医師の向かいに住む男です。お嬢さんは、アルモア医師夫人でした。レイヴァリーはあの晩、お嬢さんを発見した男です。彼女が――死んでいるのを」
 私が最後の言葉をわざとためらいがちに言うと、二人は鳥猟犬のように身構えた。グレイソンは妻に目をやり、妻は頭を振った。
「それについては話したくない」グレイソンは即座に言った。「我々にとって、あまりにも辛いことなので」
 私は少し待ち、彼らと同じように沈痛な顔をした。それから言った。「お気持ちは分かります。 ご迷惑をかける気はありません。ただ、その件を調べるために、 あなた方が雇った男に渡りをつけたいんです」
 彼らはまた互いに見つめ合った。ミセス・グレイソンは今度は頭を振らなかった。
 グレイソンが訊いた。「どういうことかな?」
「少し私の話をした方がいいようです」私は、キングズリーの名前を出さずに、自分が何のために雇われたかを話した。アルモアの家の前で起きたデガーモとの前日の一件も話した。二人はまた身構えた。
 グレイソンは語気鋭く言った。「君はアルモア医師と面識がなく、しかも、彼に近づきもしなかったのに、彼は警官を呼んだということか。ただ家の外にいたというだけで?」
 私は言った。「その通り。もっとも、少なくとも一時間は外にいましたが。つまり、私の車が、ということです」
「何とも解せない話だな」グレイソンは言った。
「まあ、とても神経質な人と言えるでしょうね」私は言った。「そして、デガーモは私に尋ねました。彼女の家族――つまり、あなたの娘さんの家族――に雇われたのか、と。彼はまだ安心していないようですね。どう思います?」
「何を安心するんだ?」彼は私の方を見ないで言った。そしてゆっくりパイプに火をつけ直し、大きな金属製の鉛筆の端で煙草を押し込み、もう一度火をつけた。
 私は肩をすくめ、何も答えなかった。彼はちらりと私を見て、すぐに目をそらした。ミセス・グレイソンは私を見なかったが、鼻の孔は震えていた。
「彼は君のことをどうやって知ったんだ?」グレイソンがいきなり訊いた。
「車のナンバーをメモして、オートクラブに電話して名前を聞き、電話帳で調べたんです。私ならそうしたでしょうね。彼がそんな動きをするのが窓越しに見えていました」
「それでは彼が自分のために警察を働かせていると」グレイソンは言った。
「そうとばかりは言えません。もしあのときの捜査がまちがいだったら、警察は今になってそれがバレて欲しくはないでしょう」
「まちがい!」彼は金切り声に近い笑い声を立てた。
「オーケイ」私は言った。「触れたくない話題であることは承知しています。でも、少しくらい新鮮な風にあてても差し障りはない。ずっと彼が彼女を殺したと思っていた。そうでしょう? だから探偵を雇った」
 ミセス・グレイソンはちらっと目を上げ、またひょいと首をすくめ、繕い終えた靴下をもう一足丸めた。
 グレイソンは何も言わなかった。
 私は言った。「何か証拠はあったんですか、それとも、ただ虫が好かなかったとか?」
「証拠はあった」グレイソンは苦々しげに言った。そして急にはっきりした声を上げた。結局そのことについて話すと決心したかのように。「あったにちがいない。あると聞いていたんだ。だが手にすることができなかった。警察が処分してしまった」
「その男は飲酒運転で逮捕され、送検されたと聞きましたが」
「その通りだ」
「しかし、彼は何をしようとしていたのか、あなたに教えなかった」
「聞いていない」
「気に入らないな」私は言った。「この男は、自分の情報をあなたの利益のために使うか、それともそれを自分のものにしておいて医者を強請るか、決めかねていたみたいだ」
 グレイソンはまた妻の方を見た。彼女は静かに言った。「タリーさんはそんな人には見えませんでした。物静かで、出しゃばることのない小柄な人でした。もちろん、人は見かけでは分かりませんが」
「タリーという名前なんですね。それが私の聞きたかったことの一つです」
「その他には何があるんだ?」グレイソンは訊いた。
「どうやってタリーを見つけるか? お二人の心に疑惑を植えつけたものは何か? 何かあったはずです。さしたる理由もなしに、お二人がタリーを雇うはずがない」
 グレイソンは取り澄ました微かな笑みを浮かべた。彼は小さな顎に手を伸ばして黄色い長い一本の指でこすった。
 ミセス・グレイソンは言った。「麻薬(ドープ)」
「妻は文字通りの意味で言っているんだ」グレイソンはすぐに言った。まるで、その一言が青信号だったかのように。「アルモアは麻薬医だった。まちがいなく今もそうだ。娘はそのことを私たちにはっきりと口にした。彼のいるところで。彼はそれが気にいらなかった」
「麻薬医というのはどういう意味です? グレイソンさん」
「主に、酒と放蕩で神経衰弱の瀬戸際にいる人々を診る医者のことだ。この手の連中は常に鎮静剤や麻薬を投与しなければならない。倫理的な医師なら、いつかは治療を断り、療養所行きを勧める段階がやってくる。だがアルモアのような連中はちがう。金が入ってくる限り、患者が生きていて正気を保っている限り、たとえその過程で絶望的な中毒者になったとしても、彼らは続けるだろう。ぼろい商売だが」彼は澄まして言った。「医者にとっては危険な仕事だろうな」
「間違いなく」私は言った。「しかし、大金が転がり込んでくる。コンディという名前の男を知っていますか?」
「面識はない。だが、どういう人物かは知っている。フローレンスは彼がアルモアの麻薬の供給源ではないかと疑っていた」
「あり得ますね。アルモアは処方箋を何枚も書きたくなかったんでしょう。レイヴァリーはご存知ですか?」
「会ったことはない。でも、誰だか知っている」
「レイヴァリーがアルモアのことを強請っていると思ったことはないんですか?」
 それは彼には思いもよらなかったようだ。彼は片手を頭のてっぺんに持って行き、それから顔を撫でるように下ろし、骨ばった膝の上に落とした。彼は頭を振った。
「いや。どうしてそう思うんだ?」
「彼が死体の第一発見者だったからです」私は言った。タリーの目に、おかしいと映ったものは、レイヴァリーにも同じように見えたはずです」
「レイヴァリーというのはそういう男なのか?」
「分かりません。彼にはこれといった生計手段も、仕事もない。その割にはずいぶんと顔が広くて、特に女性の間で」
「なるほどね」グレイソンは言った。「そういうことは、実に慎重に取り扱われる」 彼は皮肉っぽい笑みを浮かべた。「仕事をしていると、その痕跡に出くわすことがある。無担保融資、長期未払い。無価値な投資をするとは思えないような人物が行った、一見したところ無価値な投資。明らかに償却すべきであるにもかかわらず、所得税の調査を恐れて償却していない不良債権。ああ、そうだ。その手のことは簡単に按配できる」

【解説】

「時を経た山梔子のうんざりするほど甘い香りが収まっていた」は<the cloying fragranct of gardenias long ago>。清水訳は「だいぶ日数のたったくちなし(傍点四字)の鼻をつく香りがただよっていた」。田中訳は「とつくの昔にしぼんでしまつたくちなし(傍点四字)の、あきあきするようなかおりがあるだけだ」。村上訳は「遠い昔のガーデニアの饐(す)えた香りがあった」。

ガーデニアというのは、クチナシのことだ。初夏に咲く花で、甘い香りで知られている。日本では『くちなしの花』という歌が売れたせいで、妙に切ないイメージがあるが、アメリカでは、ダンス・パーティーに女性を誘うときに贈られる花として知られている。花言葉は「とても幸せ」で、これには「(あなたと踊れて)とても幸せ」という意味が込められているという。

<long ago>は「昔の」を意味する形容詞。作品内の季節は六月も半ばを過ぎている。たしかに、清水、田中両氏の訳にあるように、梔子の花の盛りは過ぎているのかもしれない。ただ、<cloying>は「鼻についてくる、うんざりする」という意味で、「嫌な匂い」のことをいうのではない。村上訳の「饐えた」は、少しちがう気がする。せっかく「遠い昔の」という訳語を持ってきておきながら、「饐えた香り」にしてしまうのは惜しい。

「窓の両端には深紅のフラシ天の厚手のカーテンが掛かっていた」は<dark red plush side drapes by the windows>。清水訳は「窓の両がわの暗赤色の気どった壁かけ」になっているが、これはおかしい。<drapes>と複数形になっている場合、ふつうは「厚手のカーテン」を指す。清水氏は<plush>を「気どった」と解しているが、これは「フラシ天」。ビロードの一種で、毛羽の長い生地だ。英語の「プラッシュ」に「天鵞絨(ビロード)」の「天」をくっつけた造語と思われる。

田中訳は「窓には、ダークな感じの、赤いビロードのカーテンがさがつていた」。村上訳は「深紅のフラシ天のカーテンが窓際にかかっていた」だが、「窓際」は「窓に近いあたり、窓のそば」のことだ。カーテンが掛けられているのは「窓」そのものではないだろうか。

「パイプ煙草の煙の向こうに、夕食に食べたラムチョップとブロッコリの匂いが漂っていた」は<It smelled of tobacco smoke and behind the air was telling me they had had lamb chops and broccoli for dinner>。清水訳は「パイプ・タバコの匂いがただよっていた。その匂いの前の空気がまだ残っていて、夕食にラム・チョップとブロッコリを摂(と)ったことを語っていた」。村上訳は「パイプ煙草の匂いが漂っていたが、奥の方から漂ってくる空気から、彼らの今夜の夕食がラムチョップとブロッコリであったことが推測できた」。どちらもくどい。田中訳は「パイプタバコのにおいにまじつて、夕食にたべたらしいラム・チョップとブロッコリーのにおいがした」。これでいいのでは。

「膝の上に柳を編んだ大きな裁縫籠をのせていた」は<a big wicker sewing basket in her lap>。清水訳は「柳の枝で編んだ大きな編み物籠を膝におき」。村上訳は「膝には大きな籐(とう)の編み物用バスケットが置かれていた」。<sewing>は「裁縫、縫い物」。「編み物」なら<knitting>だろう。清水氏は「靴下を編みながら」と訳しているので、編み物としても仕方がないが、村上氏は「靴下をかがっていた」と訳していながら、「編み物用」は変だと思わなかったのか。田中訳は「膝の上に、つくろい物をいれる、おおきな柳細工のバスケットをのせていた」と<sewing>をそのまま訳さず、「つくろい物をいれる」と説明的な語を補っている。

「顔の上の方は本気だが、下の方はバイバイと言っていた」は<The upper part of his face meant business. The lower part was just saying goodby>。清水訳は「顔の上の半分は仕事の顔だった。下の半分はたださよならというだけだった」。田中訳は「顔の上のほうを見ると、なかなかしつかりしているようだが、下半分は、ただ、グッドバイといつてるようだ」。村上訳は「顔の上半分はただただ実務的だったし、下半分はすぐにも別れの言葉を告げたがっていた」。

<mean business>は、「仕事を意味する」という意味ではなく、「(冗談でなく)本気だ」という意味。つまり、目には一応、真剣さがうかがえたが、その半面、口は今にも「帰ってくれ」と言いそうだった、ということだろう。相手に自分に対する無関心を見て取った、いかにもマーロウらしい皮肉である。

「レイヴァリーはあの晩、お嬢さんを発見した男です。彼女が――死んでいるのを」は<Lavery is the man who found your daughter the night she-died>。マーロウは最後の一語をわざと躊躇うことで効果を狙っている。それで、語順を気にして訳すことになる。清水訳は「レイバリーはあなたの娘さんを最初に発見した人間です……亡くなられた晩にです」。訳としては正しいが、<last word>がこれではまずい。

田中訳は「レヴリイは、あの晩、お嬢さんを最初に見つけた男なんですよ。お嬢さんが……死んでいるのを」。村上訳は「レイヴァリーはあなたの娘さんを夜に発見した人物です――死体を」。清水、田中両氏はなぜ、原文にない「最初に」を補ったのだろう? 村上訳だが、<the night>を平たく「夜に」と訳すのは解せない。語順を気にせず訳せば「レイヴァリーは彼女が死んだ夜にお嬢さんを発見した男です」となる。両親にしてみれば、ただの夜ではない。ここは「あの晩」もしくは「あの夜」とするべきだろう。

「二人は鳥猟犬のように身構えた」は<They both pointed like bird dogs>。清水訳は「二人とも猟犬のようにからだを緊張させた」。田中訳は「二人は猟犬みたいに、顔をキッとこちらにふりむけた」。村上訳は「二人はどちらもまるで鳥猟犬のようにはっと顔を上げた」。

<bird dog>は鳥猟用に使われる犬のこと。飼い主は銃で獲物をしとめる。だから、犬は獲物を見つけると「そこにいるよ」と、動きを止めて場所を指示(point)するよう訓練されている。獲物を隠れ場所から追い出す他の猟犬と違うのはそこだ。犬種によっても用途が異なる。ポインターは文字通り、前肢を上げて場所を示し、セッターは伏せ(セット)の姿勢で教える。スパニエルは鳥を驚かせて飛び立たせ、レトリーバーは獲物を回収(retrieve)する。

「彼はまだ安心していないようですね。どう思います?」は<Looks as if he didn't feel safe yet, wouldn't you say?>。清水訳は「彼はまだ身の危険を感じているようです。そう思えませんか」。田中訳は「まだ、安心できないような様子でね。これを、いつたい、どうおもいます?」。村上訳は「アルモア医師は自分の身が十分に護られているとは思っていないように見受けられます。いかがでしょう?」。<he>は、田中氏のいうように、デガーモを指すのか、それとも、村上氏のいうように、アルモア医師なのか?

英文では人称代名詞が頻出するので、こういうことが起こりがち。田中氏はそれを嫌って、出来る限り固有名詞に替えている。その田中氏にして、固有名詞に替えていないのは、これが自明だということだろう。一つの会話の中に<Degarmo>と<he>が使われているのだから、当然、デガーモのことと考えるのが普通だ。

では、なぜ村上氏はこの<he>を、わざわざアルモア医師に替えたのか。それは、これ以降の二人の会話の中に出てくる<he>がアルモア医師を指しているからだろう。つまり、二人の頭の中にある「彼」とはアルモア医師をおいて他にないからだ。でも、果たしてそうだろうか。そこまで断定するのは難しいのではないか。もみ消しに加担した警察だって不安を抱えているに決まっている。探偵を差し向けたのがグレイソンではないのかという疑問はどちらも共有しているからだ。ここはチャンドラーに聞いてみたいところだ。