marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

吉野行

突然思い立って、吉野に行くことにした。
子どもも連れ、吉野に出かけたのはもう十数年も前になるか。蔵王堂を訪ねた折、妻は急に体の調子が悪くなって民家の軒端にしゃがみ込んだまま、我々が帰るのを待っていたので満足に桜見物もしていない。
近くの桜が満開なのを見て、その時のことを思い出したのだ。
駐車場までの山道が渋滞で、当時はマニュアル車であったため坂道発進を繰り返し、うんざりしたのを覚えている。今の愛車はクラッチはないが、ブレーキを踏んでいないと坂道は下がる。妻のコペンで出かけることにした。
花曇りで、オープンで走るには暑くも寒くもなく絶好のコンディションだ。花粉症なので、キャスケットをかぶり眼鏡の上からジョッキーのつける乗馬用のゴーグルを装着した。これで大丈夫と思ったのだったが。
吉野までは旧街道を走る。豪家の軒先にかかる枝垂れ桜も、山の斜面に煙るように咲き誇る染井吉野も今を盛りに咲いている。連翹の黄色も目に鮮やかで、花見はオープン・カーに限ると言いたい気分だった。
ところが、である。吉野に近づいた頃から桜が少なくなった。いや、桜の木はそこかしこにあるのだが、花が咲いていないのだ。まだつぼみが堅く開花までは一週間もある模様。案ずるままに山道を登りかけたが、車はやはり少ない。それでも、そぞろ歩きをする人の数はけっこういるので、花は咲いているのかとも思ったのだが。
東京から来ている観光バスまであるのに、花はまだだった。いったいこの人たちは何を見に来ているのかと怪しんだ。ツアーガイドは、どう説明するのだろう。「良いときにお見えになりました。満開の頃なら、こんなにゆっくり見て回ることはできませんよ。」なんて言うのだろうか。
せっかく吉野まで来たのだ。入之波温泉なら小一時間で行ける。温泉に入って帰ることにした。あまご釜飯と山菜定食に舌鼓を打ち、露天風呂を楽しんだ。独特の茶褐色をした湯はもちろんだが、鄙びた山の出湯にしかない静けさが何よりだ。入り口に「湯あたりに注意」と貼り紙があったが、その訳が分かった。38℃という温度がちょうど良く、外に出ると肌寒いのでついつい長湯しがちになる。実際ひとりで露天風呂につかり鳥の声など聞いていると、湯から出たくなくなるのだった。
帰宅するまでは何ともなかったのに、寝る前になって水洟が出てきた。確かに目はしっかりおおったが、鼻に関しては無防備だった。花見ならぬ鼻水に終わった一日であった。