marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『メディチ家の黄昏』 ハロルド・アクトン

メディチ家の黄昏
こういうのをデカダン趣味というのでしょうか。時は17世紀、トスカーナ大公国を舞台にフィレンツェの名門、誉れ高きメディチ家の衰退から崩壊に至る経緯を、厖大な資料を駆使し、想像力の限りを尽くして描き出した年代記。これが面白いの何のって。

隙あらば自国の勢力下に置こうと機を窺うスペイン、フランス、それにオーストリアといった大国、帝国を向こうに回しながら、姻戚関係をたよりにのらりくらりとはぐらかすイタリアの小国トスカーナ大公国にとって焦眉の急と言えるのは後継者問題であった。

まともな歴史書で読めば、特に面白いことなどはないのかもしれないけれど、いったん裏側にもぐって見れば、大公やら大公妃やらといった名門貴族の結婚の馬鹿馬鹿しさといったらない。まずは、誰と結婚させるかだが、ヨーロッパ中にあるどの王家と繋がりができるかが問題になる。相手国の属領とならずに、うまくいけば跡継ぎが相手の国の領主になれるような相手を探す。次は健康状態。王家同士は近親婚が多く遺伝上の問題がある。無事に後継者を産めるかどうかだ。さらには財産、そして外見が最後にくる。そこまで条件が整えばいざ結婚ということになるのだが、写真というもののなかった時代。肖像画だけが頼りだが、これもあまり当てにはならなかった。

そんなわけで、実際会ってみると、あまりにも想像とちがっていたりして、すぐに別居や喧嘩別れということになる。莫大な経費がかかった結婚の儀式や披露宴、それに大衆向けのページェントと、繰り返される国を挙げての大散財のわりに、それに見合う跡継ぎの出産可能性の低いこと。一つには、皇子たちの性格があり、父親の育て方がある。宗教教育の行きすぎで抹香臭い性格に育ったコジモ三世や、女好きで大食漢のフェルディナンド公子、父に愛されなかった所為で鬱ぎこんでばかりいるジャン・ガストーネといった困った跡継ぎたち。それに、彼らに嫁いだ女性たちがまたすごい。フランスに帰りたいの一点張りで 夫と徹底抗戦する大公妃をはじめ、田舎にある自分の所領から一歩も出てこないザクセン=ラウエンブルク女公といった勝手気儘な女性ばかり。

このトスカーナ大公国年代記には、正直言って感情移入したくなるような人物はほとんど登場しない。傍目には面白かろうが、こんな人物を頭にいただく国民は大変である。しかし、彼らにしたところで自分の妻一人思うようにならないのだから、あとはしたい放題にやるだけ、といった気持ちだったのだろう。鼻つまみ者たちを宮廷に集め、狂態に満ちた宴会をし続けたり、風呂にも入らず、着替えもせず、吐瀉物にまみれた寝台の上から一歩も出ずに謁見したりと、究極のデカダンぶりを見せるトスカーナ大公国最後の世継ぎジャン・ガストーネの姿にはフィレンツェルネサンスの大輪の花を咲かせた名門が崩壊してゆく様が偲ばれ、哀れを誘う。

その一方で、これらの大公たちの蒐集した名画(その中にはマニエリスムの名品パルミジャニーノの「長い首の聖母」がある)から、その審美眼の確かさを認めたり、国民の方を向いた善政を取り上げたり、ハロルド・アクトンの筆は偏ることなく、栄光に満ちた名家の滅びゆく姿を書き留めている。

著者ハロルド・アクトンは、イタリア生まれの英国人で、オックスフォード大学在学中から、派手な服装とこれ見よがしの奇行で知られる耽美派の旗頭として、その悪名は高かったらしい。イヴリン・ウォーの傑作『ブライヅヘッドふたたび』の冒頭部、セヴァスチャンの部屋を訪れた主人公が出くわすアントニー・ブランシュという学生がハロルド・アクトンその人である。著者が願ったのは文学のバロック的作品を産み出すことだったという。豪奢な意匠の上に忍び寄る頽廃をみごとにとどめた綴れ織りのような作品である。