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『ドゥルーズの哲学原理』國分功一郎

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書) [ 國分功一郎 ]
当時、知的ジャーゴン扱いされていた『アンチ・オイディプス』を、東京に出張した際買い求め、宿舎で読み始めて当惑したのを思い出す。仮寝の伴になるような手合いではなかったからだ。それにも懲りずに、『千のプラトー』、『差異と反復』、『哲学とは何か』と、決して読みやすくはない書物を買い続けたのは、何とかして読み解きたいという思いが強かったからだろう。それにしても『差異と反復』を手にしたときの違和感は、いまだに忘れられない。今思えば、あれが、ジル・ドゥルーズドゥルーズ=ガタリのちがいだったのだ。
本文は、五章に亘り、逐次的に発表された論文を追いながら、それぞれを解説し、ともすれば難解と思われがちな哲学者ドゥルーズの実像に迫ろうとするものである。丁寧な読み取りでドゥルーズ哲学を風通しのよいものにしてくれている。哲学者ドゥルーズの入門書として、最適の書物であるとともに、人間ドゥルーズを知る上でも外せない一冊になっていると思う。
第一章「自由間接話法的ビジョン…方法」では、他人の哲学を語りながら、なぜそれがドゥルーズの哲学たり得ているのかという謎を解く。第二章「超越論的経験論…原理」では、ヒュームの経験論を援用してカントの超越論の限界を超え出してゆくドゥルーズ哲学の原理に触れる。第三章「思考と主体性…実践」では、『プルーストシーニュ』を用い、思考というものは強制されないと生まれないという思いがけない指摘と、思考を習得するための方法について論じている。第四章「構造から機械へ…転回」は、いよいよガタリとの出会いから、構造主義に飽き足らない思いを抱いていたドゥルーズが分裂分析という方法による『アンチ・オイディプス』を発表する時期に至る。そして最終章では、ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』を中心とする権力論を批判することを通して権力ではなく欲望が人を従属させていることに気づいてゆく。
著者は、まずジル・ドゥルーズという哲学者の像を明らかにするところからはじめている。それは、ドゥルーズという哲学者が、ある立場の人々からは、エリート的で非政治的な人物と見られる一方で、別の立場からは政治的な人間とも見られているという問題があるからだ。何故こういうことが起きるのかといえば、ドゥルーズには、ドゥルーズ一人の名で書かれた書物とフェリックス・ガタリとの共著という形で著した書物の二系列が存在するからである。
もともと、ドゥルーズという哲学者は経験論哲学者であるヒュームを論じた論文でデビューしている。その後もスピノザライプニッツなど過去の哲学者を取り上げて、その哲学を論じることで自分の哲学を見出すというスタイルの哲学者であった。『差異と反復』は、そのような形式で書かれている。
ところが、あるとき、知人に当時積極的に政治活動を行っていたガタリを紹介される。話を聞いたドゥルーズは、その精神分析を基にしたアイデアに魅了される。そこで、ドゥルーズガタリにアイデアをメモにすることを奨励し、二人で話し合ったことを論文としてまとめ、共著という形で世に問うた。『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』がそれである。「欲望する機械」や「リゾーム」、「ノマド」などのキイ・タームは人口に膾炙し、世を席巻することとなった。
喘息の持病を持ち、あまり身体に自信のなかったドゥルーズは、パリの自宅で執筆し大学で講義をするという習慣を生涯変えなかったという。初期ドゥルーズをよく知るフランスの学者仲間と、刺激的な問題提起が話題を呼ぶ大著でその謦咳に接したアングロ・サクソンを中心とする外国の学者、知識人とでは、ドゥルーズ受容に差があったわけだ。それが災いして、エリート的で非政治的なドゥルーズと政治的でアクティブなドゥルーズという異なった哲学者像が生まれることになった。
著者によれば、ガタリとの協働作業という実験を終え、一人になったドゥルーズは、超越論的経験論の哲学者に戻ってしまっているという。ガタリとの出会いは単なる偶然であったとでもいうように。著者は「あとがき」にこう記す。
「彼自身がここまで無変化だったのは、出会いの偶然に賭けるという彼の身振りが。やはり何らかの真理を含んでいたからだと思えてならない。この真理は、「出会いがありうる」という意味では、希望を与えてくれる。しかし、「それは偶然に左右されるのだから、結局は何もどうにもならない」という絶望も与える。(…)希望も絶望もない、いわば、熱くも冷たくもない世界。ただ出来事だけがある。それに時たま自分がぶつかり、そして何事かが起きる……。ドゥルーズはそんな世界をずっと生きていたのではないだろうか。」
「欲望のアレンジメント」を熱く語りかけるドゥルーズ=ガタリの世界から何とかけ離れたドゥルーズの世界だろう。今一度、書棚から『差異と反復』を取り出して再読してみようと思う。ドゥルーズ=ガタリではない、一人の哲学者、<人は反復の中から「差異を抜き取る」ことで生きている。反復は毎回が新しく、差異を伴っている。しかし、人は新しさに毎度毎度直面していては生きていけな い。「それ」が続いていくという期待の中でこそ、人は生きていける。それゆえ習慣という原理が求められる。習慣の生成を「受動的総合」と呼>び、「受動的総合という至福が存在するのだ」とまで述べるドゥルーズという哲学者に再び出会うために。