marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『世界文学論集』 J・M・クッツェー

世界文学論集
題名に引かれて読んでみたのだが、特に「世界文学」を論じた本ではない。ノーベル賞作家J・M・クッツェーの文学評論を集めたもの。作家になる前はベケット論で博士号を取得した研究者であり、大学教授でもあった。それだけに評論とはいうものの、冒頭に置かれた「サミュエル・ベケットとスタイルの誘惑」、「カフカ『巣穴』における時間、時制、アスペクト」の二つは、さすがに難しかった。一度読みかけた本は最後まで読み通す、というのが自分に課したルールなので、とにかく最後まで読み続けたのだが、結論から言えば、あきらめないでよかった。

巻頭を飾るのは、「古典とは何か?」という講演で、これはとっつきやすい。その次が件の二本だが、博士論文をもとにしたベケット論も、ドイツ語の時制を話題に小説内の時間を論じるカフカ論も内容自体は興味深く、その論じ方も具体的かつ丁寧で、決して難解な文章ではない。ただ、学術論文のようなもので一般の読者を対象にしていないから、難しく感じられるのだろう。ただ、その次の「告白と二重思考――トルストイ、ルソー、ドストエフスキー」になると、格段に分かりやすくなる。

人が自分について語るとき、どこまで語ることができるのか、という問い自体は普遍的なものである。ところが、問題はそう簡単ではない。語る自分と語る対象の自分はそのまま重ならないのは、以前はともかく、ポストモダン以降自明である。クッツェーが言うように、私とは他者であり、自伝とは「他伝」なのだ。ド・マンやデリダを引きながら、脱構築批評とはひと味ちがう考察を行なっている。対象がトルストイドストエフスキーというロシア文学の二大巨頭ということもあり、カフカベケットよりも馴染みがあるのもありがたい。

「検閲の闇を抜けて」は自身も南アの検閲で被害にあっているクッツェーの語る「検閲論」。「偏執症(パラノイア)は不安定な政治体制の、特に独裁制の、病理である。近代の独裁制をそれ以前の独裁制から区別する特徴の一つは、偏執症が上層部から全人民に感染する範囲の広さと速度である」。全市民が他の全市民をスパイするようになるのだ。「絶え間ない公的脅迫」は、市民を「抑圧された人にするだけでなく自らを抑圧する人にする」。このあたりの論調はフーコーの「パノプティコン」に共通する。クッツェーは検閲を経験した自分もまたこの病理に冒されていることを自覚している。ここに突然挿入される、自己についての認識を語る比喩の巧さにうなった。

「自己とは、今日の私たちの理解では、古典的合理主義で思われていたような統一体ではない。逆に、それは多数的で、多数に自己分裂している。比喩的に言うなら、それは、多数の動物が住んでいて、合理性という過労気味の管理人がかなり限られたコントロールしかしていない動物園である。夜になると管理人は眠り、動物たちはうろついて夢という仕事をする」「フロイトによれば、芸術家とは、一定の自信を持って内部の動物園を周遊し、望むならばたいした傷も受けずにそこから出てくることができる人々である」

自己というのが多数的なものであることは既に承知していたが、芸術家の仕事がフロイトの言う通りなら、とんでもない仕事といわねばならない。くわばらくわばら、である。

次の「エラスムス――狂気とライヴァル関係」も考えさせられる論文。『痴愚神礼賛』の読解を通じて、一つの権力(教会)とその抵抗者(ルター派)のどちらにも組することなく自らの位置を維持するためにとったエラスムスの企てを語っているのだが、エラスムスに限らない。誰もがあらゆる状況で同じ状況下に置かれている。右でないというなら、左だ、という論法を前にして、それをずらしながらライヴァル関係のどちらにも引きずり込まれないポジションを取り続けるのは周囲すべてを敵に回すことにもなる難しい選択である。クッツェーという人の真摯さがよく伝わってくる。

最後に置かれているのは書評である。ここまでよく読んできました、とご褒美をもらった気分になる。ダニエル・デフォー『ロビンソンクルーソー』、ローベルト・ムージルの『日記』、J・L・ボルヘスの『小説集』、ヨシフ・ブロツキーのエッセイ、ゴーディマとトゥルゲーネフ、ドリス・レッシング自伝、ガブリエル・ガルシア=マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』、、サルマン・ルシュディ『ムーア人の最後のため息』の八本。

やはり、多くの作品を読んでいるボルヘスとガルシア=マルケスについて書かれたものがおもしろかった。とにかく教養の幅が広く、学識がある。ボルヘスについても教えられることが多かった。その二人についての逸話がある。ラテン・アメリカ文学に対するボルヘスの影響は大きなものがある。ガルシア=マルケスがそれについてこう言っている。「[ブエノスアイレス]で買った唯一のものがボルヘスの全集だった」「私はそれをスーツケースに入れて持ち歩いている。毎日読むつもりだ。だが彼は[政治的理由]で私が大嫌いな作家だ」。ピッグズ湾侵攻をボルヘスが支持したからだ。ガルシア=マルケスカストロと盟友関係にある。

ドリス・レッシングの自伝についても、生い立ちから、共産党入党に至る経緯、結婚観、その作家として、女として、親としての時に頑なとも思える姿勢を好意のまなざしで綴っている。書評と書いたが、クッツェーのそれは単なる書評を超えている。作家論といっても差支えがない。おそらく、書く以前に厖大な資料を読み込んでいるにちがいない。一冊の書物の陰から一人の作家の人生が確かな輪郭を纏って立ち上がってくる。まだ一冊も読んでいないクッツェーの小説、是非読んでみたいと思った。