marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『ティンブクトゥ』ポール・オースター

ティンブクトゥ
トンブクトゥという地名なら以前から知っていた。泥を支柱に塗り重ね、日干し状にして建てられた城のようなモスクのある、西アフリカ、マリ共和国の砂漠の都市。黄金郷との噂もあり、ヨーロッパ人にとっては、地の果てにある夢の国のように想像されていたという。ティンブクトゥはその異名。この世に住む家とてない放浪詩人ウィリーにとって、死んだら行き着ける最後の地、つまりは天国の謂、それがティンブクトゥだ。

「ミスター・ボーンズは知っていた。ウィリーはもはや先行き長くない」という書き出しではじまった小説は、次段落の冒頭で「しょせんは犬の身、ミスター・ボーンズに何ができよう?」とつづく。なるほどね。ボーンズ( bones )つまり「骨」。犬なんだから。手を変え、品を変え、様々な奇策で面白いストーリーを繰り出して読者を楽しませてくれるオースター氏、今度はこう来ましたか。

犬の視点で語るという手は、たとえば、ヴァージニア・ウルフに『フラッシュ』という先例がある。さらに、柳瀬尚紀氏によれば、ジェイムズ・ジョイス作『ユリシーズ』第12章、所謂「キュクロープス挿話」が犬の視点による語りだ、という。その見解に基づいた訳さえある。オースターに、ウルフやジョイスに対抗する気があったかどうかは知らないが、文学から文学を作るのは、オースターの得意とするところである。一度はやってみたかったのかもしれない。

ホームレスとなって街を彷徨い歩くことは、この作家のオブセッションだ。オースターの主人公はすでに何度も路上生活者となっている。不変のモチーフでもって、毎回異なるストーリーを展開することを己に課しているような作家としては、一度は、このテーマを「異化」したかったにちがいない。『ドン・キホーテ』好きのオースターだ。ドン・キホーテサンチョ・パンサという従士がいなければ、あの物語がああまで面白くなったかどうか。人語を解する犬をおつきにした放浪詩人の遍歴物語のはじまりである。

ドン・キホーテは騎士道物語の読みすぎで心を病んでいた。文学青年だったウィリーは、ドラッグ漬けがたたって精神病院に送られ、将来の望みを絶たれることに。しかし、あるクリスマスの夜、サンタクロースによる啓示を受けたウィリーは、他者を幸せにするため、愛犬を連れて家を出る。ドン・キホーテの面白さは、風車を怪物と思って戦う騎士を、冷めた目で物語っていることにある。気の狂った主人に同調するようにしていながら、サンチョの目は実態を見抜いている。サンチョが主人を見捨てないのは、彼が正しいことをするからではない。彼を愛しているからだ。

犬の視点で、この世界を見ればどうなるか。浮浪者同然の詩人との徒歩旅行も、雑種犬であるミスター・ボーンズにとっては快適な生活でしかない。排泄の場所や時間は自由だし、外の空気に触れていられる。寝るときは、大好きなウィリーに腕に抱かれて眠るのだから安心なことこの上なし。逆に、ウィリーと分かれたあと、子どもに拾われてからの、段ボール箱や犬小屋の生活は雨風の心配こそしないですむが、愛する人といっしょに寝られないという点で、とうてい満足できるものではない。

犬の視点を持ち込むことで、ふだん我々が当然視している一般人の生活ぶりが、たとえ最後の飼い主であるジョーンズ一家のようなアメリカの郊外生活者らしい一見快適極まりないものであっても、女性の自己実現という観点からは、早すぎた妊娠、子どもの病気、夫との性格の不一致等々の問題を抱えての括弧つきの「幸福」であることが、読者の目にまざまざと映る効果を生む。

好んで住所不定、一所不在の生活を主人公に強いてきたオースターには、子どもの学資やローン返済のため、否が応でも九時五時の会社勤めを送る、巷に溢れる男たちの生活が、もしかしたらよく飲み込めないのではないだろうか。金などはある日突然誰かの遺産が転がり込んでくれば、何とかなるし、ないならないで、あるうちはそれで生活し、なければ死ぬまでといった骨絡みのニヒリズムが彼の内部に巣食っているのではないだろうか。そんな気がしてならない。

犬という外部の視点を得たことで、市民生活というものが一般的に獲得している価値観をぺらっと裏返して見せることができた。通常なら理解しがたい種類の人間との間に愛情関係すら打ち立てることができた。そういった点で、オースター版『犬の生活』の執筆は、作家にとって心地よい作業ではなかったか、と思うのである。