marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『闇の中の男』ポール・オースター

闇の中の男
これもまた、作者の言う「部屋にこもった老人の話」系列のひとつで、五作目に当たるこの作品が最後の作品になる。主人公の名はオーガスト・ブリル。「元書評家で七十二歳、ヴァーモント州ブラトルボロ郊外に、四十七歳の娘、二十三歳の孫娘と暮らしている。妻は去年亡くなった。娘の夫は五年前に出ていった。孫娘の恋人は殺害された。悲しみに暮れた、傷ついた者たちの一家なんだよ。ブリルは毎晩、闇の中で目覚めたまま、過去を考えまいとして、別の世界をめぐる物語を捏造するんだ」。

ブリルが作る物語の主人公はオーエン・ブリック。クイーンズ、ジャクソンハイツに住む、じき三十にならんとしている男である。彼はまた(略)フローラという名の女性と結婚していて、過去七年、手品を生業とし、ザ・グレート・ザヴェッロなる芸名で、主としてニュー・ヨーク内外の子どもの誕生日パーティーで仕事をしてきた」。ブリルは、このブリックを突然深い穴のなかに送り込む。穴から助け出されたブリックは伍長と呼ばれ、アメリカが内戦中であることを知らされる。彼がこの世界に召喚されたわけは、この戦争を考え出した男(ブリル)を暗殺し、戦争を終わらせることである。とまどうブリックに上司の軍曹は、次のように説明する。

「単一の現実というものはないんだよ、伍長。現実はいくつもあるんだ。単一の世界というものはない。世界はいくつもあって、互いに並行して流れている。世界と反世界、世界と影世界、そのそれぞれが、別の世界にいる誰かによって夢見られるか書かれるかしている。世界の一つひとつが、人間の精神の産物なんだ」

SFでいう並行世界(パラレル・ワールド)である。つまり、ブリルの考える世界が「もう一つの世界」として現実に存在していて、二つの世界は薬物によって眠らされた睡眠時の夢で往き来するという設定になっている。「もう一つの世界」の方では、あの問題を残した大統領選後、ブッシュ政権に愛想をつかしたニュー・ヨークその他の都市や州が、アメリカという国家から独立したことで、双方の間で武力衝突が生じ、今では四年も続く内戦中という事態になっている。簡単に言えば、民主党の考える国家と共和党の考える国家が同床異夢の夢から醒め、別の国家となるというアイデアである。このアイデアは面白く、名ばかり同じでも本質は全く違う党を有するわが国の惨憺たる政治状況を思うとき、独立する力を持つ勢力というものを想像上としても現実化できるアメリカの潜勢力にため息が出る。

世界の持つ悪意に滅多打ちにされた孫娘や娘とともに老境を生きるブリルもまた、最愛の妻を亡くし、悲しみに沈んでいる。眠れぬ夜を過ごすための物語と、家族の過去の物語が交互に語られる。ブリルの人生はイラク戦争や、ナチスユダヤ人迫害といった現実の悪が影を落としている。交通事故で片足を損傷し、車椅子生活を送る老人には自殺願望がある。自分の創造した主人公を物語内で脅迫し、創造主である自分を殺させるという設定は、初期のニュー・ヨーク三部作を思い出させる、いかにもポール・オースターらしい構成だが、作者の年齢のせいかいささか歯切れが悪い。

若いブリックは、物語内物語の中で溌剌と動く。初恋の人と再会し、ベッドまで共にする。彼は元の世界に戻りたいが、そのために人を殺すことは拒否する。内戦下で不自由な生活ながら、飢えを感じ、不味くて高い食事をがっつき、殴られ、歯まで折られる。つまり、想像の世界の中で生きる男は、ブリルと違って、生き生きとした「現実」を生きている。その世界では、世界貿易センター・ビルは今でも建っており、アメリカはイラクで戦争したりしていない。オースターにとって、あるべき現実がどちらであるかはいうまでもない。

読者としてはブリックの物語をもっと読み続けたいのだが、眠れない孫娘がブリルの寝室を訪れ、祖母との結婚、離婚、そしてやり直しの経緯を聞きたがるので、「もう一つの世界」の方がどうなっていくのかが分からぬまま、読者はブリルの昔話を聞かされるわけだ。これが作者の企みなのは分かってはいても、どうにも歯がゆい。映画を勉強中の孫娘と語る映画論には、小津の『東京物語』に関するかなり詳しい批評も挿入され、それはそれで興味深いものがあるが、ストーリー・テラーとしてのオースターを期待する読者としては不満が残る、と言わねばなるまい。ブリックの物語がよくできていればいるだけ、その結末のつけ方が尻切れトンボのようで、収まりが悪いのだ。

ただ、ブリルが語る妻ソフィーの人物像や、その結婚の破綻に至る経緯、そこからの復縁の物語は実にリアルで、男女間の心理のくいちがいや、四十代の男心の揺れは、かなりの説得力を持っている。傷ついた一家が祖父と孫娘の同居を契機に一歩ずつ恢復に向かう物語として読めば、それはそれで読み応えのあるストーリーであることはまちがいない。オースターのこれまでの作品と、つい比べてしまうこちらが悪いのかもしれない。