marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『明治の表象空間』松浦寿輝

明治の表象空間
萩原朔太郎の詩が好きで、『月に吠える』『青猫』と読み進み、その口語自由詩のたたえるリズムに心地よく酔いしれていたら、突然、『氷島』の詰屈な文語調にぶつかり、いったい朔太郎はどうなってしまったのだろう、などと不審に思いながらも、その独特の韻律に、やはり心を揺さぶられ、序詩「漂泊者の歌」一篇は、当時大学ノートの裏表紙に万年筆で書き写し、暗誦したものである。

それにしても、口語自由詩の完成者と目される朔太郎が何故転向するかのように文語体で詩を書かねばならなかったのか、という疑問は解決を見なかった。ところが、その謎を解く鍵がこの本のなかにあったのだ。しかも、愛惜措く能わざる「死なない蛸」の精密な解読とともに。レヴィ=ストロースの「冷たい社会」/「熱い社会」の二分法を借りた「冷たい時間」(情報不在の不活性化していた社会)「熱い時間」(交通・通信技術が飛躍的に進化を遂げた明治十年代)という二つの時間を使って。

「明治の表象空間」について書かれた本のなかに、昭和の朔太郎の話が何故、と思われる向きもあろうかと思う。しかし、題名こそ、「明治」を冠しているが、この本、極めてアクチュアルな問題意識に貫かれている。フーコーが『言葉と物』で取り上げたのが、古典主義時代における生物学、経済学、文法学である。それが今日の精神分析学、文化人類学言語学にいかに繋がっているか、目の覚めるような分析であった。著者の仕事は、日本版『言葉と物』といっても過褒ではなかろう。ただ、フーコーのそれが、いかにも冷静な記述で驚くべき知見が語られるのに比して、著者の言説は怜悧ではあるが裡に秘めた熱が、その表面を蔽う硬質なエクリチュールに罅割れを生じさせ、時に怒りや焦り、苛立ちが仄見える。たとえば、カントの定言命法を援用した「小さな(傍点以下略)正論」について。

「以後、近代日本は、小さな正論が猖蕨をきわめる社会として自己を成型し、それら正論群のネットワークを整備してゆく。正不正の判断それ自体が宙に吊られるわけではない。推しつけがましい判断(わたしは正しい)とそれに基づく強圧的な指令(わたしに従え)は、民衆の日常生活のもっとも細かな襞々の中にまで浸透してゆく。問題はそこで人々の精神と身体を縛り上げてゆく言説が、理性の私的使用に基づくものに限られているという点、そして、にもかかわらず、それら小さな正論群がいつの間にか一致団結し、大きな正論の虚像を虚空に描き上げるのに貢献してゆくという点なのである。かくして誇大妄想的な普遍性を僭称する大きな正論が、その発話に関して誰が責任をとるわけでもないまま、自然に生成してゆくことになってしまうのだ。」

この引用を、明治の初め頃の日本を描いたものとして読めるとすれば、かなり能天気な読者だろう。著者は、知識人の一人として、このような政治状況下にあって、何ができるかを問い詰め、エクリチュールの持つ不可能性を見極めつつ、何故それが、力を持たないか、どうしてそうなったしまったのかを、「明治の表象空間」を分析することで、明らかにしようとしたのだ。だから、風車に挑むドン・キホーテのように鎧兜に身を固め、勝てない戦に打って出たのである。

明治時代の司法制度、教育勅語の成立過程、福沢諭吉をはじめとする錚々たる顔ぶれの啓蒙的知識人の言説とその変遷、小石川植物園を例にとったシステム論、とどれも読み応えのある論考となっている。中でも、現在の日本語、日本文の基礎となっている言文一致の口語体使用を、一度現象学的括弧に括り、透谷、一葉、露伴の文語体の文章の持つエクリチュールの力を分析して見せた第三部「エクリチュールと近代」が圧倒的に面白かった。特に、一葉の『にごりえ』におけるお力の内的独白をヴァージニア・ウルフの『波』や灯台へ』のそれと比較して見せるあたり目を拓かれた思いがした。

朔太郎に戻ろう。いかにも時勢に合わせたかのような「日本への回帰」といったタイトルの下に書かれたエッセイの締めくくりの文を著者は引いている。「日本的なものへの回帰!それは僕等の詩人にとって、よるべなき魂の悲しい漂泊者の歌を意味するのだ。誰れか軍隊の凱歌と共に、勇ましい進軍喇叭で歌はれようか。かの声を大きくして、僕等に国粋主義の号令をかけるものよ。暫く我が静かなる周囲を去れ」と。回帰するべき日本(冷たい時間)は荒れ果て、軍靴の音高い日本(熱い時間)に生きることもできない詩人は漂泊者たらんとする。この国内亡命者の姿は、さらに時代を越え、大江健三郎安部公房の作品に登場する穴に住まう人々と通低する。

異様なまでに硬質なエクリチュールで身を固めた長篇評論は、フーコー張りの言説的愉楽を湛えたものに見せてはいるが、その下で著者は必死に水を掻いているようだ。射程の長い考察は、これからのこの国を考えるためのヒントに満ちている。とっつきにくい相貌の下に、著者の熱い思いが隠されている。是非、手にとっていただきたい一巻である。