天窓以外に窓という物を持たぬ四部屋のなかに二万五千巻の貴重な典籍を収め、朝七時からの一時間の散歩を除けば、一日を書卓の前に孤座し、思索に耽る孤独な長身痩躯の学者こそ、ペーター・キーンその人である。一部屋に寝台替わりの寝椅子、他には肘掛け椅子の前の書卓あるのみ。絨毯を敷いただけの後の三部屋に家具はない。洗面台すら車付きにし、終われば部屋の外に出すという徹底ぶり。書物を愛し、驚異的な記憶力でそのすべてを完璧に諳んじており、書棚から孔子を呼び出し、中国語で対話に興じることも屡々。
孤独な学究生活に女は邪魔、と四十になる今日まで独身生活を貫いてきたが、家政婦の本を扱う奇特な態度に感激し、結婚を申し込んだのが転落の始まり。夫婦となるや、部屋は半分をよこせ、家具は新しく買い入れよ、と矢の催促。その挙句が、預金通帳や遺言書の要求。本以外の家具や他者の干渉に煩わしさを覚えるキーンは、目を閉じ、自分を木石と認識し、見えず、聞こえずという態度をとることで、自分が認められない環境に対処しようとするが、あえなく妻により家から放り出される。
知力は飛びぬけていても、それ以外のことについては全く何の力も経験ももたない学者が世間に投げ出されたらどういう目に遭うことになるか、お追従やらお為ごかしを真に受けては金を奪い取られ、身包み脱がされ、骨の髄まで徹底的に搾られつくす。人間というものを書物の上でしか知らず、生身の人間が何を考え、何を目的に生きているのか理解しようともせず、上から目線で見下ろすことしか知らない学者先生の無知無能を作者は完膚なきまでに侮蔑し尽くす。
行く先々で虚仮にされ、最後には官憲の手に落ち、殴られ、蹴られ、嘲られ、服を脱がされ痩せさらばえた体を曝したキーンは、自分を放り出した妻が、蔵書を質に入れた金で、玄関番の男と自分の部屋でよろしくやっていることも知らずに、自分が貯金通帳を持って出たため、家に残った妻は飢えのあまり、自分を食べつくし、骸骨になって葬られたと勝手に妄想し、偶然出会った妻を見ても、幻覚としか思えない。キーンにとって世界とは自分の頭脳の中にしかないのだ。
一方、キーンの頭脳の外にある世界では、男は女を買い、気に入らなければ容赦なく殴り殺す。女は男に色目を使い、隙あらば抱きつきたいと腰をくねらせ、亭主の留守には毎夜男をベッドに誘い込む。人の金はすべからく自分のものであり、どんな手を使ってでも奪わずにはおかない。小人でせむしのフィッシェルレは、チェスの名人戦が行われるアメリカ行きを果たすため、キーンの金を騙し取る。背中の瘤を隠す洋服を仕立て、洒落のめして我が家に帰還したところを姦夫の手で殺される。女は姦婦で淫売、男は盗人で人殺しという目を覆いたくなる生き馬の目を抜く地獄のような場所だ。
毎日、部屋にこもって本ばかり読んでいるような読者にとって、父親の遺産で暮らし、本は買いたい放題、食事や掃除は家政婦がやってきて世話を焼いてくれる生活というのは夢である。だからこそ、その夢が、崩壊してゆくのを見るのは実に辛いものがある。何はともあれ、一刻も早く、妻と別れて、もとの独り暮らしに戻れ、と願いながら読み進めるのだが、その祈りは虚しい。ミソジニスト、被虐趣味のある読書人には何を措いてもお勧めしたい書物である。
小人でせむしのフィッシェルレをはじめ、十五も年上で元家政婦の妻のテレーゼ、何かというと拳骨を振るういかつい玄関番と、キーン以外の人物は、口八丁手八丁で一癖も二癖もある人物ばかり。長台詞がつづくモノローグもものとはせず、虐げられている者の日ごろの鬱憤をここぞとばかりにしゃべりまくる。物言わぬ丸太ん棒のようなキーンのことなんかそっちのけで逸脱につぐ逸脱を繰り返し、町に繰り出した群衆で街路は溢れ、乱痴気騒ぎ。電報で呼び出された弟の登場でようやく事態は収拾し、元の状態に戻るかと思われたのだが…。
これは、ひとりの孤独な中国学者が本来拘るべきでなかった群衆と過って拘ったがために陥った悲惨な境遇を、奔騰する妄想と哄笑する世間知が織り成す悲喜劇を残酷かつ滑稽極まりない筆致で描ききった小説である。『群衆と権力』の著者で、文化哲学者という肩書きを持つエリアス・カネッティが二十六歳のときに書いた処女長篇。出版時には無視されたが、その後、ブロッホ、ムージルと並ぶ二十世紀ドイツ文学の代表作という評価を受け、ノーベル文学賞を受賞する。初版は1972年。池内紀の訳は、当時としては出色の出来映え。2014年現在、読み通すに、いささかも遜色ない。