セーヌ・エ・マルヌ県にあるホテルのバーで四人の男女が酒を飲んでる。痩せて背の高い男がミュラーユ、そのそばにいる逞しい身体の男がマルシュレ、奥の方に立つ女が支配人のモー・ガラ。肘掛け椅子に座っているのが「私」の父だ。引出しから出てきた一枚の古い写真に見入るうちに「私」は、はるかな過去にすべりこんでゆく。
幼少時に他人の家に預けられ、大学入学資格も取得した頃、突然父が現われた。トランク一つに荷物をつめて家を出た「私」はその日から父のあやしげな仕事を手伝う羽目になる。古書店で見つけた初版本に作者の献辞を偽装して高値で売り払う商売に「私」は次第に夢中になっていった。そんなある日、あの事件が起こったのだ。ジョルジュ・サンク駅で線路に突き落とされた「私」は危うく死にかけた。背中を突いたのは父だ。それ以来父は「私」の前から姿を消したのだった。
十年ほどして、「私」は父を見つける。父は悪い仲間と商売をしていて、助けを必要としているように思えた。外人部隊にいた昔を懐かしがるマルシュレや、ゴシップや中傷記事専門の新聞を発行するミュラーユのカバン持ちとなった父は「私」を覚えていなかった。混迷の時代。身分証明書を持たないユダヤ人の父はベルギーへの脱出を計画していた。「私」は彼らの仲間入りをし、父を助けようとする。
語り手の「私」は、モディアノの小説ではお馴染みのアイデンティティを捜し求める青年。自分を捨てた父を見つけ、親子の関係を回復することが急務だ。しかし、冒頭からその語りは曖昧にぼかされている。父が怪しげな連中とつるんでいたのは占領下のパリ。古い写真に写る父やその仲間と作家を名乗る「私」が同じ時間を共有することはありえない。ところが、父を蔑ろにする仲間のもとを抜け出し、二人は中古のタルボを駆って夜のパリ環状通りを流してゆく。
占領下のパリといえば、レジスタンスが通り相場だが、闘士ばかりいたはずがない。フランス人には思い出したくもないことだろうが、不穏な時勢を逆手にとって、闇物資を売買したり、ユダヤ人を密告、脅迫する人間もたくさんいた。作家の父もその一人であった可能性は拭いきれない。戦後生まれの作家は、当然その時代を知らない。自分というものの成り立ちを知ろうとすればするほど、その時代と父の姿が気になる。作家は書くことを通して父を手に入れようとする。当時の出来事や事件の顛末、人物の来歴、記憶の向こうに追いやられてしまった事実を再現し、歴史の陰の部分を明るみに引きずり出す。多くの人名の中には実名も混じっていよう。薄闇の世界の中で出自をひたすら隠しながら生きのびようとあがく父を発見して作家は何を思ったのだろう。
捨てられたはずの父に呼びかける「私」の声が何度も書きつけられる。モディアノ作品の中で、これほど父に寄り添い、共に行動する主人公は今まで読んだことがない。虚構であるからこそ、今の自分が当時の父と同じ風景を見て言葉を交わすことができる。常にびくびくし、同じ落伍者仲間に追従する下卑た父の姿を目にしながら、「私」は、父を裁かない。むしろ、自分を汚すこともいとわず、父の近くにとどまろうとする。
『パリ環状通り』は、「根無し草」(デラシネ)が失われた根を求めて現実とも夢想ともつかぬ世界を彷徨する話である。根無し草は根がなくとも生きていられる。人間も同じだ。苦い過去など忘れた方が生きやすいに決まっている。しかし、そうやって生きている今の自分とは何なのだ。最後の場面、父の顔見知りだった給仕が、「あんたは若いんだから将来のことを考えた方がいいよ」と諭す。「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」といったヴァイツゼッカーの言葉が耳によみがえる。自分も知らない過去に、いつまでも拘泥するパトリック・モディアノは、それをいちばんよく分かっているのかもしれない。