アリス・マンローの短篇小説を読んでいると、小さい頃身近にいた、嫁の愚痴を聞かせるために早朝まだ鍵のかかっている我が家を訪れた祖母の念仏仲間や銭湯の床に長々と長躯を伸べて体操をする車引き上がりの隣家の隠居といった、いまだにくっきりとした映像として心に残る人々を思い出す。普段は忘れているのに、一度思い出すと、その声音から仕種まで鮮明によみがえる。子どもなりに、その思いつめた声や、緊張から解きほぐされた気の緩みのようなものを感じていたのだ。
市井の名もない人々にも、当人にとっては劇的な人生がある。星の数ほどあるそのドラマを神ならぬ一人の女性がどうしてこんなに知っているのだろうか。きっと、小さい頃から、道端ですれちがった子ども連れや電車で乗り合わせた若夫婦の何気ない表情や会話に耳目を働かせて日々を送ってきたのだろう。小説を書くとき、無意識に溜め込んだ深い層から掘り出してきたかけらに肉付けしてふくらませ、これらの人物を作り出すにちがいない。一つの短篇集に十篇ほどの短篇が収められている。そのなかには実に多彩な人物像が含まれている。
とても面白いのだが、といって読むのが簡単なわけではない。時系列は錯綜しているし、視点人物はころころと入れ替わるし。そもそも、人が気軽に口にした言葉がそれを聞いた相手にどう感じられたのか、正しい解釈というものが示されない。話者はいつも登場人物の一人だから、事態は当事者の一方の目から捉えられるわけで、つねに誤解と隣りあわせだ。しかもひどい場合、その誤解が親子三代にわたって語り伝えられていたりする。当人の死んだ後、孫の代になって、母の妹の口から全く異なる事実が明らかになるなんてこともある。表題作「愛の深まり」の場合がまさにそれだ。
離婚後、不動産会社に就職し、子ども二人を小学校に通わせている「私」のところに父から母マリエッタの死を知らせる電話がかかる。「私」の回想が始まる。信仰心に溢れた母に聞かされた祖母の逸話。だが、十二歳の時、母の妹ベリルに聞いた祖母の自殺未遂の経緯は、母から聞いたものとはちがっていた。真面目すぎる母の目には、自分の両親の真の姿が映っていなかった(のかもしれない)。妻に自殺を考えさせるほどの仕打ちをした父を憎んだ母は、その遺産を暖炉で燃やしてしまう。その金があれば、「私」は合格していた学校に進学もできたというのに。
何年ぶりかで実家を訪れた時の「私」、ベリルの話を聞く十二歳の私、母親が首を吊ろうとするところを目撃した子ども時代のマリエッタ、と三者の視点で描かれる、一家のメンタリティの系譜。かつて我が家に立ち寄った「私」はバカにされたように感じた。一時期ヒッピーたちのコミューンだったそれは壁一面にラブ&ピース風の虹やら鳩、男女の裸像が描かれ、ピューリタン的な父母の生き方に対する物言わぬ批評の働きをしていたのだ。「私」の目に映る頑ななまでに正しい道を行こうとする母は、もしかしたら、その信仰心故に不実な父を憎み、その犠牲者である母を憐れみ、金に価値を認めず、清貧に真の信仰を見ていただけではないのか。
自分が選んだはずの人生が、どれだけ他者の価値観によって左右されていたのか、あるとき人は気づく。当時感じられた苦味や荒々しさといったものは時が濾し、残ったものにはなんとも言いようのない味わいが醸されている。
どこにでもある人々の人生を鮮やかな切り口で切り取って見せてくれるアリス・マンローの短篇小説集である。風体の小ささに比べ、味わいの芳醇さが際立つ、上質の洋菓子を詰め合わせた小函のようなものだ。どこからでも、好きな順に読まれるといい。一つ一つ味わいは異なるが、どれも読み終えてしばらくは程好い残り香が感じられるはず。長いものには委曲をつくした構成の妙味があるし、短いものには切り口の切片が見せる鮮やかさがある。どれも心に残るが、個人的には、作者にはめずらしく視点人物を男性が受けもつ「ムッシュ・レ・ドゥ・シャポ」、「オレンジ・ストリート、スケートリンクの月」が印象に残った。年老いて初めて分かる、若さゆえの行動の切実さ、思い入れの愛しさがしみじみと伝わってくる。