marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『教皇ヒュアキントス』ヴァーノン・リー

教皇ヒュアキントス ヴァーノン・リー幻想小説集
またしてもブロンツィーノ描くところの「ルクレッツィア・パンチャティキの肖像」の登場である。ヘンリー・ジェイムズ著『鳩の翼』のヒロインのモデルにもなった緋色のドレスに身を包んだ女性像は、余程当時の男性の心を虜にしたにちがいない。筆名は男性名だが、ヴァーノン・リーは女性。ヘンリー・ジェイムズとは親しい仲だったから或は会話の中に登場したことがあったのかもしれない。たしかに、美しい女性像であるが、それにもまして怜悧さや容易に人を寄せ付けない威厳のようなものが伝わってくる。こういう女性に惹かれる人はどこか被虐趣味的な性行を持つのではないだろうか。そんな気がする。

伝説的な悪女に魅入られて、不審死を遂げる男の姿を描いた「永遠の愛」は、ヴァーノン・リーの特徴を知るに最適な一篇である。イタリアはウンブリアを訪問中のドイツ帝国教授シュピリディオン・トレプカは歴史文書中の女性の事跡に何故か心魅かれ、寝ても覚めても、その姿が心から去りやまず、ついには幻を見るようになる。その女メデアは、悪行の果てに何人もの男の命を奪ったが、一人の魂だけが騎馬像の中に封じ込められていた。女は男の手を借り、騎馬像を破ろうとする、という話だ。

レプカの肩越しに姿を現すメデアの姿が「ルクレッツィア・パンチャティキの肖像」そのままである。幻想小説の書き手である以前に、18世紀イタリア文化、イタリア・ルネッサンスの美術、音楽、演劇の研究者であったヴァーノン・リーである。ウフッツィ美術館所蔵の有名な肖像画を目にし、そこに自分の創作に置ける主題であるファム・ファタルの典型を見たにちがいない。闇に埋もれた過去の中から立ち現われる美女が現代に生きる男に手を伸ばし、その魂は愚か命まで奪ってしまうというのは、本書にもくりかえし登場する作家偏愛の主題である。他に「ディオネア」「幻影の恋人」が男を狂わす悪女を描いている。

表題作は神の思し召しにより悪魔が聖人を試すというよくある逸話。「聖エウダイモンとオレンジの樹」とともに掌編ともいうべき短さの中に、権威から距離を置き、身を低くし、他の恵まれぬ人々や地上の弱い生き物を思う、謙譲の美徳の尊さを語りつくす。体が石になり、心臓が金剛石になるところなど、ワイルドの『幸福な王子』を思い出すが、寓話につきものの教訓臭がなく、花実をつける植物の奇蹟で幕を閉じるところに、キリスト教をモチーフにしながら、それに縛られず、生命力を謳歌する息吹がみなぎり、爽やかな後味が残るところを愛でたい。

怪異譚、奇談には同工異曲と見られるものが少なくない。まして、異国を舞台に過去の因縁を語る話を得意とすれば、それぞれが似てくるのは仕方のないことである。日記、手紙、回想と、叙述形式に意を凝らし、単調にならぬよう配慮しているところはさすが。ただ、どれも水準以上の出来であるとは思うものの、物語としての完成度の点で画竜点睛を欠く感じが残る。美学者、研究者としての教養が邪魔をするのか、恣な想像力の飛翔や、猥雑さや卑俗さを怖れない破天荒な展開といった物語ならではの面白さが充分でなく、結末がいささか力強さに欠け、カタルシス不足に感じられてならない。いちばん物足りないのは人物の魅力である。美しく悪い女は登場するが、当方に被虐趣味が足りないのか作中の男たちのようには夢中になれない。

そんななか個人的な好みでいえば、「七懐剣の聖母」が、主人公の矛盾した人間像の描出において他の作品を凌駕するものと思える。自分のものにしたいと思ったら、相手の親でも亭主でもさっさと殺して、女を手に入れる、その天をも怖れぬ所業をいとも簡単にしてのける男が、信仰の対象である七懐剣の聖母だけは裏切れない、そのために自分の命さえ犠牲にしてしまうほどに。この悪逆非道の美丈夫にして、思い姫に忠誠を尽くす天晴れな騎士道精神の持ち主、ミラモール伯爵、ドン・ファン・デル・プルガルだけは、たしかに力強く生きている。

堅牢な造本、余白を取ったレイアウトで読む幻想小説の味は格別である。以前にも読んだ「聖エウダイモンとオレンジの樹」一篇は、同じ訳者の手になる作品でありながら、文庫で読むのとは一味も二味もちがった。持ち重りする大冊であるので、長時間の読書中、最後は書見台の世話になったが、久し振りに本を読む愉しみを味わった心地がした。