marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『堀辰雄 福永武彦 中村真一郎』

堀辰雄/福永武彦/中村真一郎 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集17)
同名のアニメですっかり有名になってしまった『風立ちぬ』でなく、「かげろうの日記」とその続篇「ほととぎす」を採ったのは、大胆な新訳が売りの日本文学全集という編者の意図するところだろう。解説で全集を編む方針を丸谷才一の提唱するモダニズムの原理に負うていることを明かしている。丸谷のいうモダニズム文学とは、
1 伝統を重視しながらも
2 大胆な実験を試み
3 都会的でしゃれている
ということだが、堀辰雄の「かげろうの日記」は、「蜻蛉日記」の現代語訳ではなく歴とした小説である。言葉遣いこそ王朝物語にふさわしい雅やかな雅文体をなぞっているが、主人公の女性心理はまぎれもなく近代人のそれであり、自意識が強く、内向的で、引っ込み思案なところのある女のエゴが一人称の語りの中にまるごと投げ出されている。色好みの貴公子に愛されながら、相手の不人情な仕打ちにプライドを傷つけられ、すねてみたり、逃げ出してみたりせずにはいられない女心が十二単を着せられ、堀辰雄好みのもの寂びた曠野の風景の中にたたずんでいる。まさに、丸谷流のモダニズム文学ではないか。

「深淵」「世界の終り」「廃市」の三篇のなかでは、やはり「廃市」をとりたい。いかにも福永武彦らしい、透明な叙情性に溢れた佳篇である。白秋の故郷、筑後柳川を思わせる掘割に区切られた水都は、水によって外部と切り離されることで、他の町とだけでなく、時の流れからも切り離され、端唄、小唄、義太夫といった芸ごとに堪能な町の名士たちによっていまだに華やかなりし頃の名残りをとどめている。水路を行く船に舞台を組み、囃子方を乗せ、歌舞伎の一場面を演じてみせる祭りの場面など、ヴェネティアのカルナバルの夢幻的な宴を髣髴させる。

眠りの中に閉じ込められたような街に主人公はすっかり魅了されてしまうが、時空から隔絶した人工的な水上都市は、周囲の都市ではすっかり失われてしまった文化にどっぷり浸かっていることを羞じも嘆きもしない点で頽廃のきわみにあるのかもしれない。仮寓先の旧家の当主とその妻、妻の妹の間にある公然の秘密が、無邪気な仮寓者の振舞いによって明らかにされてゆく。互いを思いやる愛情が、かえってことをややこしくし、もつれあった愛情は悲劇的な結末を迎えることに。ヨーロッパ世紀末的な頽廃を日本の地方都市に移植し、ウォーター・ヒヤシンスのごとき儚げな花を咲かせた「廃市」は、私小説好きな日本の土壌の中では稀な西欧的なロマネスクと成り果せている。

中村真一郎からは「雲のゆき来」一篇だが、これがすごい。江戸時代の名僧で漢詩や和歌に秀でた元政上人に始まる該博な知識を披瀝した随筆風の小説は、友人からかかってきた一本の電話で様相が一変する。友人が引き合わせたのは、ドイツ系ユダヤ人の父と中国人の母を持つ新進女優の楊嬢だった。母を捨てた父を憎む女優は、「舞踏会の手帖」よろしく父の愛した五人の女性に会うために京都を訪れる。止むを得ず同道することになった「私」は、ドン・ジュアニスムを嫌悪する女優と行く先々で議論する羽目になる。リルケフロイトを引き合いに出し、父を憎む心理の虚妄を突く「私」の前に遂に女優は号泣する。ヨーロッパでの再会を期して分かれた二人だったが、待っていたのは女優から「私」にあてた手紙だった。

博引傍証とペダントリーに満ち満ちた衒学的小説とも見える「雲のゆき来」だが、作家に言わせれば、こんなものはペダントリーの裡には入らない、と馬鹿にされるのがオチだろう。まず、元政と彼が影響を受けた詩人の漢詩が白文で何篇も引用されるので、漢詩漢文の素養がなければ端から相手にされない。そこへ持ってきて、文学から文学を作るブッキッシュな作家を認めようせず、作家の個人的体験の露骨な告白とやらを後生大事に下僕的リアリズムを信奉する批評家たちに対する鬱憤が炸裂する。私小説に慣れた日本の文壇から見たら、なんという形式的な小説作法か、と呆れられるような作為的な構造を持つ小説。おまけに、作者を思わせる男と若い女が、ひとつベッドに腰をかけ酒を飲みながら、恋に落ちたり、寝たりすることなく、リルケの女性遍歴と元政の遊女との恋愛事情を女優の父の女出入りの多さに絡めて論じ、男と女の愛について延々と夜を徹して語り合わせるなど、読み手の下意識を徹底的に愚弄してみせる。

分かり合うことの難しい人間関係のなかで、どのように相手を理解し、関係を構築してゆくか、というのが主題だとすれば、それを語るのになんという手間の掛け方よ、と嘆じたくなるが、その手間隙をかけるところにこそ、文学や芸術の持つ面白みがある、というのが作家の信じていることなのであって、豪徳寺の桜見物にはじまり、京都は深草詣で、果てはヴェネチア映画祭に至るまで足を運ばせるのもそこにこそ分かり合える者同士の愉しみがあるからなのだ。言い換えるなら、こんなまわりくどい小悦は御免だという読者には無縁の小説である。そういう意味で、新しく編まれた日本文学全集の前途を占う試金石のような巻といえる。評者のように懐かしい思いで読む読者は別として、日本文学ってこんなに面白かったのかと目を輝かせる新しい読者が得られるように偏に願うものである。