サリンジャーのファンや愛読書の中に『キャッチャー・イン・ザ・ライ』その他を挙げている人は読まないほうがいいかもしれない。読めば、これまでと同じような気持ちで作品を読み返すことが難しくなるだろう。たしかに小説と作者は別物だ。「文は人なり」などというつもりはさらさらない。人間として問題がある人物が美しい小説を書くこともある。ただ、サリンジャーという作家は特別だ。特に若い読者、あるいは若い頃愛読して大事な愛読書となっている読者にとって、コーニッシュの森は、侵すべきではない聖域という意味で一種のサンクチュアリになっている。この最も新しい評伝は、その中に土足で入り込んでいる。
二人の著者名があるが、二百人を超える関係者へのインタビューや書簡からの引用をその人物名をいちいち挙げてから紹介するという形式で書かれている。著者自身の言葉もそれらの中に混じっている。実在の人物を描いた映画のなかに当時の関係者が実際に顔を出して語る形式があるが、ちょうどあれと同じと思ってもらえればいい。一見多くの関係者の証言をそのまま提出しているように見えるが、その見せ方は著者たちの判断により、時系列を無視して選択・配列されている。一見したところこれといった意図のないカタログのように見えるが、その実購買意欲をそそるように周到に手が入っている。見えざる手が無数のカードを最も見ばえのする形になるように整えているわけだ。全篇を通して読んだら、サリンジャーという人物は、自身がその最も有名な著書のなかで徹底的に叩いたインチキ(フォニー)ではなかったのか、という疑念に囚われること必至である。
前半は、サリンジャー自身が著作の中で何度も触れている第二次世界大戦末期、ノルマンディー上陸作戦を含む五つの作戦に防諜部隊として従軍し、戦争の惨状を直接その目で見たこと、また終戦直前にダッハウ強制収容所の外部施設に進駐し、黒焦げになった無数の死体や骨と皮だけになった生存者を目にしたことで、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を抱えるに至った事実を明らかにすることに多くの分量を割いている。
サリンジャーが体験することになった作戦の中には激戦として知られるノルマンディー、ヒュルトゲンの森、アルデンヌ(バルジの戦い)が含まれている。いずれもドイツ軍の攻撃によりアメリカ軍が多数の戦死者を出した戦場である。ただ、防諜部隊というのは一般の兵士とはちがい、ある意味恵まれた環境にあったのだろう。それほど激しい戦闘地帯にあっても、多くの証言のなかでサリンジャーは戦場のたこつぼの中でもタイプライターを離さず、ニューヨーカーに送る原稿を書いている。さらに驚いたことには、あのパパ(ヘミングウェイ)と戦地やパリで何度も会って原稿を読んでもらったりしているのだ。
この本が多くのページを割いているのがサリンジャーの女性関係である。長身でウィットに富み、洒落た会話ができたサリンジャーはニュー・ヨーク、パーク・アヴェニューに家を持つ裕福な家庭の生まれ。実業家の父とはあまりうまくいってなかったが、母には溺愛された。寒い戦地で葦を凍傷にやられなかったのは母が送ってくれた何枚もの靴下のおかげだったと言っている。1941年にサリンジャーが出遭ったのが、ウーナ・オニール。劇作家ユージン・オニールの娘である。十六歳にして、サリンジャーの他に、あのオーソン・ウェルズともデートしていたというから並大抵の少女ではない。戦地から大量の手紙を送るサリンジャーを振って、十八歳の誕生日になんと三十六歳も年上のあのチャーリー・チャップリンと結婚してしまう。これが終生サリンジャーにつきまとうトラウマとなる。
サリンジャーはそれ以後何度もティーンエイジャーの女性に接近し、気に入った娘には電話をかけて誘い、手紙を書き、最後には自分と暮らすことを認めさせている。「バナナフィッシュ」のシヴィルのモデルと思われる十四歳のジーン・ミラーとはフロリダ州デイトナ・ビーチで出会って以来、五年間交際を続けている。この無垢(イノセント)への固執はオブセッションとなり、才能ある美少女への執着、執拗な誘惑、魅力が開花するまでの助言、そして開花すると失望、落胆の果てに無視し廃棄する、この繰り返しである。『十八歳の自叙伝』の著者ジョイス・メイナードもその一人。大きな目が印象的な早熟の少女もサリンジャーの手に落ちる。その後の展開はすべて上に書いた通り。後にサリンジャーとの関係を暴露した『ライ麦畑の迷路を抜けて』を著し、マインド・コントロールから抜け出た経緯を記している。
著者は評伝を書いた目的を、サリンジャーが出版をやめたわけ、身を隠した理由、死ぬまで何を書いていたかについて答えることとしている。それらについては本の最後のほうに総括されている。興味のある向きはそこを読めば分かる。「第二次世界大戦はサリンジャーという人間を壊したが、かわりに彼を偉大な芸術家にした。宗教は彼が人間として欲していた心の慰みを与えてくれたが、かわりに彼の芸術を殺した」というのが著者の考えだが、そんな上手い具合に言い切れないのが人間というものではなかろうか。それは作家であれ、芸術家であれ、かわりはないだろうと思う。打たれ弱かったサリンジャーが、これを読まずにすんだのは幸いであった。