marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『わかっていただけますかねえ』 ジム・シェパード

わかっていただけますかねえ (エクス・リブリス)
このタイトルはどうだろう?謙遜しているようでいて、とにかく自分はこう書いた、あとは貴方が理解できるかどうかだ、と言われているみたいで、ちょっと書き手である自分の責任を丸投げされたような気がする。表紙はテレシコワその人と思える微妙な笑顔を浮かべたソ連の女性宇宙飛行士のアップ写真。その上にこのタイトルをのっけると、シニカルなジョークが売りの短篇集の趣きだ。ところがどっこい。読んだ印象は全くちがう。まるで、ノンフィクション。秘境探検の過酷な毎日を日記の体裁で記録した「最初のオーストラリア中南部探検隊」の圧倒的な迫力はどうだ。羊頭狗肉ならぬ狗頭羊肉。まずは、その違和感に頭をガツンとやられる。

「事実は小説より奇なり」というのは、『ドン・ジュアン』のなかにある<Fact is stranger than fiction>からきているらしいが、へたな小説家がない知恵をひねり出した凡百の奇想より、世界のどこかに埋もれている生の史実のほうが、よっぽどおもしろい、というような意味でもあろうか。いくら珍しくても多くの人が目にした事実は既知なわけで、あまり奇とは思ってもらえない。その意味では、埋もれた事実を拾い上げる眼力と、それを読物に仕上げる筆力が必要となる。

<Like You’d Understand, Anyway>という原題には、「とにかく(私は)材料を見つけて、ここまで加工してみました。あとは、貴方流に理解してください」というようなニュアンスが感じられる。「述べて作らず」というほどではないが(というより多分に作っている)それをそれと感じさせないところに、この作家の力量があるのではないか。ノンフィクションに似ていると感じるのは、そのせいだ。

「ヤー・チャイカ」は、当時「私はカモメ」と訳された。ロシア人が「かもめ」といえば、チェーホフを思い出すのはロシア文学好きの日本人の悪弊で、実はテレシコワが無線を使うときのコールサインが「カモメ」だったというだけのこと。ちなみにランデヴー相手のボストーク5号に搭乗していた飛行士のほうは「タカ」だったという。このタカとカモメ、文字通り宇宙空間でのランデヴーを楽しみにしていたという暴露風味の短篇が「エロス7」。

女性初の宇宙飛行士、テレシコワはソ連だけでなく世界中で人気者となったが、その爽やかな笑顔とは裏腹になかなかしたたかな女性であった、というのがジム・シェパードの見立てらしい。おそらく残された記録から組み立てられたのだろうが、選ばれるまでは優等生的発言で競争相手を出し抜き、大気圏を抜け出して宇宙に飛び出してしまった後は、あらかじめ決められていたミッションは無視して、その体験を満喫していたという、ロシアの田舎娘らしいふてぶてしいまでの人物像の造形が見事である(事実は、一種の宇宙酔いでパニック症状を起こしていたらしい)。

巻頭に置かれた「ゼロメートル・ダイビングチーム」は、チェルノブイリ原発事故を扱う。主人公は、原子力エネルギー局の技術主任で、弟はチェルノブイリ原子力発電所四号炉を担当するタービン上級技術者。1986年4月26日の夜は勤務中だった。兄弟のもう一人の弟はその近くの川で釣りをしていたところを事故に巻き込まれる。作家が固執する兄弟という主題と原発事故をからませ、ノンフィクション風に仕上げた一篇。制御できない力を前にした人間の無力さを描いて秀逸。

ミハイルが死んだ一週間後、僕は父に対して、手紙を書いた。僕は父に対して、他人の人道的怒りを引き合いに出してみせた。あの大惨事を引き起こした底知れない自己満足と自賛を、腐敗と保護主義を、頑迷さと私利的な特権を非難する切り抜きを、父にタイプした。置き去りになっているバックホーの側面に書かれているのを見た落書きを、父にタイプした。一部の者たちの怠惰と無能を他の者たちの愛国心で隠すべきではない、と。僕はそれをもう一度タイプした。「一部の者たちの怠惰と無能を他の者たちの愛国心で隠すべきではない」誰が書いたのであれ、僕など及びもつかないほど雄弁だった。僕は自分に宛てて書いていた。父からは、自分自身から貰ったほどの返信は貰わなかった。

津波の凄さを、これでもかといった筆致で描き切り、まるで大画面でハリウッドの特撮映画を見せられているような気にさせられる「リツヤ湾のレジャーボート・クルージング」も鮮烈だ。しかし、この小説の凄さはそこだけにあるのではない。一度その洗礼を浴びた人間を一生捉えて離さないトラウマの深さを描いている点こそが賞賛に値する。心身ともに激しく愛している妻の、もう一人子どもが欲しいという希望を理解しながら、独断でパイプカット手術の日付を決めてくる主人公の孤独の深さが読む者の心をつかまえて離さない。

実体験を踏まえているのだろう、男兄弟の関係を主題に置くことが多いジム・シェパードだが、時代や地理を遠く離れた地点にとった作品が多い中、まるで等身大の少年時代を描いたのではないかと思わせる「初心者のための礼儀作法」が読ませる。アメリカの小説や映画によく出てくる、子どもたちだけが参加するサマー・キャンプの今まで書かれたことのない実態を克明に描き出している。

大人ではなく年上の少年が指導者となるため、目も当てられないような陰惨ないじめが横行するサマー・キャンプの実態を、自身も経験者であったはずの父親が知らぬわけもなかろうに、毎年子どもを預け、自分たちはヨーロッパに出かけてしまう。教育的配慮の美名のもとに、いじめ体験が成長のためのステップとして黙認されてるマッチョなアメリカ白人社会の闇を白日の下に引きずり出し、その闇に放り込まれた主人公と障碍のある弟の美談ではない心の交流を描く。施設に送られてしまう弟に、適切な言葉をかけてやれなかったことを悔いる兄の心情が胸に迫る。

膨大な資料の山を博捜したのであろう緻密な作業の上に、いきいきとした想像力が生身の人間を生み出す。「俺のアイスキュロス」や「ハドリアヌス帝の長城」は、ギリシア・ローマの時代をまるで直接生きているかのような気にさせる。あたかもその時代の人物が憑依したかのような迫真の記述に尋常ならざる作家の筆力を見せつけれる。「作家のための作家」と称されるジム・シェパードの実力が遺憾なく発揮された短篇集である。