台湾の若い作家の短篇集である。少し前に読んだ呉明益の『歩道橋の魔術師』もそうだが、近頃、現代台湾文学の紹介が相つぎ、それもどの作品も高水準を保つ。台湾は多言語社会でいくつもの言語が飛び交う。作中では多様な言語を駆使する甘耀明は、父が客家(はっか)で母はホーロー人。本人のアイデンティティーは客家だといい、翻訳では判りにくいが主に客家語で書いているという。
甘耀明の特長は、ストーリーテラーとしての才能にある。ひとりの語り手が語りだす物語のなかから、次から次へと語り手を繰り出しては新しい話を語り継ぐ、その様は台湾版小『千夜一夜物語』。ガルシア=マルケス『百年の孤独』以来、ちょっと風変わりな物語をみると、マジック・リアリズムの言葉を持ち出すのが流行りだが、規模は小さく、その意匠もアジア風に繊細ながら、この短篇集にはその言葉がそぐわないでもない。
表題作は深夜に家を抜け出した少年が夜行列車に乗って、勝興という山中の駅に向かう一夜の冒険を描く。少年には祖父と一緒に汽車に乗り、とある駅で降り、少しそのあたりを歩いては帰るという小旅行をたびたびした思い出がある。そんな折、祖父が昔勝興駅から乗り込んだ神秘列車の話を聞いた。いまやいっぱしの鉄道マニアとなった少年は、その誰も乗ったことのない神秘列車に乗ると思い定め、今夜決行したのである。乗り合わせた客や列車長の少年への思いがあたたかく、深夜の列車に独り乗る少年というテーマで思い出す『銀河鉄道の夜』とはまたちがった家族愛を感じさせる物語になっている。背景にさりげなく民族の歴史に残る悲劇を滲ませているあたり、ファンタジーで終わらせない一工夫がある。達者なものだ。
ややもすれば同工異曲のものが並びがちな短篇集が多いなかで甘耀明は一作一作ごとにまるでちがう作家であるかのようにその顔を変える。「伯公、妾を娶る」は、表題作とは趣きを一変するファルス。村長である主人公は「伯公」という神をずっと信じ、守ってきたが、息子はそれに理解を示さず大陸に行き、娘もまた白人の夫と結婚する。友人の政治家は参拝客獲得を目当てに神様を増やそうと伯公の妻や妾まで廟の中に入れる。グローバル化する社会の中でひとり旧弊な神信心に固執する主人公の苦衷を描く喜劇的な一篇。
「葬儀でのお話」は、話が好きで誰彼かまわず引きとめては話をするので素麺婆ちゃんとよばれていた祖母の葬式で、祖母の好きだった話を孫である語り手が語る。プロローグに続く第一話は「微笑む牛」。畑を耕すために買いに行った父が連れ帰ったのは雌の老水牛だった。ただ役立たずと思われた牛は微笑むことができた。闇夜でも霧の中でも道を失うことがなかった。語り手の少年の短慮から他の牛に傷つけられた牛はやがて…。七夕異聞ともいえる悲しくも美しいファンタジー。第二話「洗面器に素麺を盛る」は話好きの祖母と洗面器を背中に括りつけては宴会を訪れて振る舞い酒に酔うのが楽しみという祖父の出会いから別れまでを描いた夫婦の奇蹟の物語。まさに台湾版小『千夜一夜物語』。
台湾には同じ漢民族ながら戦前から住んでいた本省人と戦後移住してきた外省人の他に先住民がいる。山地で林業を営む人々は高砂族と呼ばれる。「鹿を殺す」に登場する二人の若い男女がそれだ。山を降りた二人が出会ったのは、獲物をさばいて売る猟師たちだった。仔を孕んだ水鹿が殺されるのを見ていられなかったパッシルは、買い戻そうとするが、値段が折り合わない。窮したパッシルは道具箱から仕事道具を出す。上手く口が使えぬパッシルに代わりゴアッハがその由来を語りだす。法螺話の面白さと山仕事に長けた少年のアクションが冴える痛快な一篇である。
いずれも読んだ後に台湾の歴史と風俗が醸し出す余韻が残る。後口のひときわ爽やかな短篇集。果たして台湾文学ブームは起きるか?