のっけから加藤保憲登場ということは『帝都物語』、もしくは『妖怪大戦争』だろう、と見当はつけたものの、このノリの軽さは何だ?まあ、連載されていた雑誌『怪』については全くの無知なので、そこではこういうノリだったのだろうなあ、と推測するしかない。「序」、「破」、「急」の三冊セットで計1900枚ということだが、京極史上最大と銘打っては見ても、句点を打つたびに改行するスカスカの文体では、「百鬼夜行シリーズ」のような読みではない。もともと、そういう読み手を想定していないだろう。
ファンジンのような特定の読者層を意識して書かれたもののように見える。というのも、妖怪、怪談、怪談実話関係のライター、研究者、編集者といった業界人が大挙登場するからだ。京極夏彦がらみでよく登場する水木御大や荒俣宏氏のような超がつく有名人はともかく、ほぼ実名で登場する有名無名の作家、ライターについてはほとんど名前を知らないので、その方面に不案内な読者には面白がりようがない。とはいえ、こうして単行本として出す以上、そういう読者も想定しているのだろう。
そこで、「百鬼夜行シリーズ」など京極作品でおなじみの、想定される読者よりレベルが劣る狂言回し役が必要になる。この作品では妖怪専門誌『怪』のバイトで、あの榎木津を大伯父に持つらしい榎木津平太郎や、逆さに読めば、「バカハオレ」となる、駆け出しライターレオ☆若葉といったいじられキャラがその役目をよく務めている。特にレオのダジャレ尽くしの突っこまれ芸は堂に入ったもので、馬鹿らしいとは思いながらも、ついつい爆笑させられた。
ストーリーは、『妖怪大戦争』のそれで、まずシリア砂漠に加藤保憲らしき人物が目撃されたことを前フリしておき、すぐに話題は現在の日本に移る。水木邸を訪れた平太郎が目にしたのは「妖怪や目に見えないものがニッポンから消えている」と、憤りテーブルを叩く水木しげるの姿だ。妖怪は目に見えない。が、それは確かにいるので、水木のように感度の良い人間には感じられるのだが、それが全然感じられなくなった、というのだ。
しかし、その言葉とは裏腹に、その後、妖怪の可視化がはじまる。まずは、村上健司の取材旅行に同行したレオが信州の廃村で遭遇したのが「呼ぶ子」。山中にいる絣の着物を着た童子で、口真似をする妖怪だ。水木マンガでもおなじみのキャラクターのひとりだがその名前と姿格好には要注意だ。なぜなら、妖怪というのは目には見えないもののはずで、我々が思い込んでいる妖怪の姿は、鳥山石燕や水木しげるの描いた絵によって名前とともに記憶されているからだ。
その後、浅草に「一つ目小僧」が現れたり、小説家黒史郎の目の前にあるファミレスの窓ガラスに張り付いた「しょうけら」が見えたり、と妖怪を目撃した話が続出する。新幹線の線路上に「朧(おぼろ)車」が出現したり、会場に海坊主が現れたりすると世情は騒然とし、妖怪関係者は白い目で見られるようになる。もともと、好きな者は別として、妖怪は世の中に必要なものではなかった。人の心に余裕があるうちは、妖怪も大目に見てもらえていたのだが、この頃のように世間が何かといえばギスギスしはじめると、妖怪に目くじらを立てる連中が跋扈しはじめる。妖怪苦難時代の幕開けである。
三冊揃いで完本となる小説の「序」だけ読んで、何かを書くというのも難しいものだ。とはいえ、これであたりをつけて、この後読むかどうか決めようと考える読者もいるだろうから、何とか評の一つも書かねばと考えたのだが、話ははじまったばかりで、これからどうなるか全く見当がつかない。まあ、大騒ぎになるのだろうということ、と妖怪好きには住みにくい世の中になるのだろうということくらいは分かる。というのも、水木大先生のご託宣にある通り、これは、『妖怪大戦争』の姿を借りた世相批判の書らしいからだ。
全部読んだら全然ちがっていたということになるかもしれないが、今のところ、近頃の世の中はどうも変だ、いや、絶対におかしい、このまま黙っていたら大変なことになる、というよりもうかなりヤバいところに来ている、といった危機感が、文章の端々に現れているからだ。同様の危惧は多くの人に共通するものではないだろうか。妖怪でも何でもいい、というと妖怪好きに怒られるかもしれないが、この見えないところで起きている事変に立ち向かえる力が欲しい、というのはこちらも強く願っていることである。「序」は、大勢の登場人物紹介が少々まだるっこしいけれども、これから先の展開に目が離せなくなるだけのインパクトはある。