複数視点の名手という呼び名が献じられるほど、その構成が繰り返し使われる特捜部Qシリーズ。第四作にあたる本作も2010年11月(現在)と1987年8月(二十三年前)で、二つの視点を交互に使い分けている。現在時の方は、カールとアサド、それに今回は現場にも同行するローセたち特捜部Qの面々が、同時期に行方が分からなくなった複数人物の未解決事件の捜査を行う。過去の時点で描かれるのは、一人の女性の人生を崩壊させることに係わった五人の人物への復讐劇だ。
冒頭に置かれた屈辱的な情景が痛ましい。今は上流階級の一員に収まっているニーデが、パーティーの席上で偶然再会したクアト・ヴァズという産婦人科医に、淫売と罵倒された挙句、夫の目の前で知られたくない過去を洗いざらいぶちまけられる。ニーデは過去に複数の中絶経験があり、クアトに不妊手術を受けていた。帰りの車内、夫から別れ話を持ち出されたニーデは横から手を伸ばし、ハンドルを思いっきり切り、車は海に落ちる。
今回主題となるのは優生学思想。ナチスがユダヤ人を大量死させたのと同じ思想だ。ある特別な種に価値があり、他の劣等な種と交雑することによって、優等な種の価値が劣化すると考え、劣等と考えられる人種や知的その他の障碍を持つ人々の増加を阻止する目的で、中絶や不妊手術を行うことで知られる。本作において、その思想を体現する男がクアト・ヴァズ。ニーデの人生を狂わせたこの男は、今や<明確なる一線>という政党のリーダーとして議会に議席を獲得する勢いを持つ。
過去と現在に二つの視点を置き、一方では非情な経験によって人生を狂わせられた人物が、相手に対して行う復讐劇を犯人側の視点で語り、もう一方で、過去に行われた未解決事件の謎を解き、犯人逮捕を目指すカールたち特捜部Qの活躍を描く、というのがこの作家の常套手法。陰鬱で悲惨な過去に対し、カールを取り巻く仲間たちのドタバタ劇は笑劇タッチで描かれるのもお定まりの約束になっている。シリーズ物らしく、カールにつき纏う未解決事件の謎は少しずつ解き明かされるが、逆にその闇は深まるばかりだ。
警察小説としての特捜部Qは、家庭内にトラブルを抱えながらも、カウンセラーのモーナと良好な関係を築きかけているカール。いまだその正体は不明ながら、格闘にも捜査にも抜群の実力を持つシリア人のアサド。父親の死のトラウマのせいで、時に解離性同一性障害を引き起こし、妹ユアサの人格と入れ替わるローセが主要メンバー。それに、全身麻痺の身をカールの家で介護を受けるハーディや署内の食堂を経営する腕利きの元鑑識官ラウアスンらが力を貸す、といったチーム物の要素が強い。最後に命を脅かす危険な目に合うのもいつものことながら、シリーズ物の宿命として結果的に命は助かる。
それに対して、犯人側に視点を置いた犯罪小説としての要素は、これが北欧ミステリの特徴なのかどうか、他の作家の作品をあまり読んでいないのではっきり分からないのだが、正直いつも陰惨極まりない。今回の場合、ニーデはまともな教育を与えられず、性に対してあけすけな環境で育てられたことから、少女のうちに妊娠し、流産する。世間体を苦にして他家に預けられ、そこでもいじめられ続ける、という悲惨な経験を持つ。
理解のある夫婦によって識字教育を受け、立派に社会に出ることになるが、幸せな結婚生活は過去を知るヴァズによって壊される。夫の遺した遺産でひっそりと暮らしていたニーデを復讐にまで追い込むのはやはり過去の因果だ。正気を疑う復讐の方法は相変わらず猟奇的で正視し難いが、正直なところ、今回の犯人をあまり憎むことができない。殺害に至る計画はずさんだし、その方法もあまりにも素人臭く、到底うまくいくとは思えない。しかも、一人の相手に対しては殺害に及んだことを後悔すらしている。まあ、だからこそ赦してやりたくもなるのだが。
蛇足ながら、ニーデが送られたことになっているスプロー島の矯正施設はほんの五十年前まで実在していたという。福祉が充実し、女性の権利にも敏感な北欧の国デンマークでそんなことが行われていたとは。シリア人のアサドや心に傷を負うローセがいつになく真剣に怒っているのが作家の意識の有り様を物語っている。宗教や民族による差別に加え、人種や障碍の有無によって人の優劣を比べ、それを政治に持ち込むなど、あってはならないことだが、日本でもヘイト・デモを繰り返した集団が政党を立ち上げるなど、他人事ではない。
毎回ほぼ同じ構成を使いまわしながら、よく次々と書けるものだと感心する。同工異曲といわれることを知ってか、今回は最後にどんでん返しが用意されている。他の人気作家ではよく見かける、この手法、この作家にしては珍しい。伏線もあるので、注意深い読者なら見破れるのではないか。ミステリ読みとしては二流を自負する読み手としては、先を読みたくて急ぐあまり、つい読み飛ばしては後で臍を噛んでばかり。でも、考えようによっては、作家の仕掛けたトリックにうまくひっかかって悔しがるのは、この種の読み物の正統的な読み方ではないだろうか。そんな負け惜しみをつぶやきながら、次回作に手を伸ばすのである。