marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』第五章(1)

《大通りに戻った私は、ドラッグストアの電話ブースに入り、アーサー・グウィン・ガイガー氏の住所を探した。彼が住んでいたのはラヴァーン・テラス。ローレル・キャニオン・ブールバードから分かれた丘の中腹にある通りだ。物は試し、5セント硬貨を入れて番号を回した。誰も出なかった。職業別電話帳を開いて、今いるブロックにある本屋を何軒か書きとめた。/最初の本屋は通りの北側にあった。広い一階は文房具や事務用品に充てられていて、山のような本が中二階に並んでいた。いい場所には見えなかった。私は通りを横切って二ブロック東にある別の店まで歩いた。こちらの方が気に入った。狭くてごちゃごちゃした小さな店で床から天井まで本が積まれ、四、五人の立ち読み客が新刊書のカバーに指紋をつけて時間をつぶしていた。彼らに注意を払う者は誰もいなかった。押しのけるように店に入り、仕切りを通り抜けると、小柄な黒髪の女が机に向かって法律書を読んでいた。》


村上訳は「ローレル・キャニオン大通りを外れて山に向かう、ラヴァーン・テラスという通りに彼は住んでいた」。双葉訳では「ローレル・キャニオン通りのはずれの、丘側の通りにあるラヴァーン・テラスだった」である。どちらも、住所の説明のために使われている大通りの名前の方が先に来ていて、本来の住所の印象が薄い。


村上訳は「今いる場所の近辺にある何軒かの書店の電話番号を調べた」。双葉訳は「この近所の本屋を二、三軒メモした」。村上訳だが、電話番号を調べる必要が果たしてあるのだろうか。マーロウはこの後、ドラッグストアを出て、実際に本屋を回りはじめる。むしろ知りたいのは住所だろう。


双葉氏は「階下は文房具の売り場と事務所で」と、を「事務所」にしてしまっている。「サプライ」が、そのまま外来語として通用するようになったのは近年のこと。時代を感じる。


二つ目の文。村上氏は「誰も彼らに注意を払わなかった」と字句通りに訳すが、双葉氏は「誰も私を気にしなかった」とやってしまっている。凡ミスだろう。それよりも、ブラウザが出てきたのには驚いた。辞書によると「(本などを)拾い読みする人」の意だそうな。ふだん何気なく使っている言葉の原義を知ると、なんだか楽しくなる。


村上訳は「私はかき分けるようにして店の奥に進み、仕切り壁を抜けて中に入った。そこでは黒髪の小柄な女が一人、デスクに向かって法律書を読んでいた」。双葉訳は「私は仕切をぬけて、店の奥にはいりこみ、机に向かって法律書を読んでいる小柄な黒い女をみつけた」だ。狭い店に、四、五人の立ち読み客がいるのだ。を抜かすのは、まずかろう。その前の文を読み違えたのが響いている。透明人間にでもなったつもりなのか。

村上氏の「誰も彼らに注意を払わなかった」という場合の「誰も」は誰を指すのだろう。店の中にいるのは、四、五人の立ち読み客とマーロウだけだ。自分のことをわざわざ「誰も」とは言わない。それでは、本に夢中になっている客同士だろうか。それはない。つまり、ここで「私」が言いたいのは、客に注意を払うべき者の不在だ。だから、パーティションを通り抜けてその「誰」かを探しに行くのである。

双葉氏の「黒い女」は、いただけない。これでは黒人になってしまう。このあたり、急いだのだろうか双葉氏の訳が粗雑になっている。