《「厄日かもしれないな。知ってるんだよ、あんたのこと、ミスター・マーズ。ラス・オリンダスのサイプレス・クラブ。華麗なる人々のための華麗なる賭博場。地方警察はあんたの意のままだし、ロサンジェルスのその筋にもたんまりと握らせている。言い変えれば、保護下にあるってやつさ。ガイガーは稼業がら保護を必要としていた。あんたの店子というのなら、ちょくちょく口を利いてやっていたにちがいない」
彼の口は青ざめてこわばった。「ガイガーの稼業っていうのは何だ?」
「猥本稼業さ」
彼は長い間私をじっと見つめていた。「誰かの手があいつに伸びた」彼はそっと言った。「お前はそれについて何か知っている。あいつは今日店に顔を出さなかった。どこにいるのか誰も知らん。ここの電話にも出なかった。だから、調べにやってきたんだ。床の上に血溜まりが見つかった。敷物の下にだ。それにおまえと娘がここにいた」
「もの足りない」私は言った。「けど、買い手がその気なら売れるストーリーかもしれん。もっとも、少し見落としている点がある。今日、誰かが彼の本をごっそり店から運び出した。――彼が貸し出していた上品な書物だ」
彼は指をぱちんと鳴らして言った。「俺もそのことを考えるべきだったよ。ソルジャー。お前は事情通のようだ。どんな絵を描いている?」
「ガイガーは消されたんだろう。それは彼の血だ。本の移動は、当面の間死体を隠す動機を教えてくれる。乗っ取った仕事の目鼻がつくまで、誰かが時間を欲しがったのさ」
「そうは問屋がおろさない」と、エディ・マーズは険しい顔で言った。
「誰がそう決めたんだ?あんたと外の車にいる二人のガンマンか?ここは今や大都会だ、エディ。最近この界隈はタフなお歴々が続々参入中ときている。成長の代償ってやつさ」
「おまえは無駄口が多すぎる」エディ・マーズは言った。彼は歯を剥き出し、鋭く二度口笛を吹いた。車のドアがばたんと閉まる音に続いて、垣根の間を抜けてくる足音がした。マーズはルガーをまたもやさっと取り出すと、それ私の胸に向けた。「ドアを開けるんだ」
ドア・ノブががちゃがちゃ鳴り、呼び声が聞こえた。私は動かなかった。ルガーの銃口がまるで二番街のトンネルのように見えたが、私は動かなかった。自分の体が防弾ではないという考えにそろそろ慣れてもいい頃だった。
「自分で開けるんだな、エディ。私に指図するなんて一体何様のつもりだ?行儀よくすれば手伝ってやらんでもないが」
彼は勿体ぶって立ち上がると、机を回り込んでドアのところまで行った。彼は私から目をそらすことなく、黙ってドアを開けた。二人の男が部屋の中に転がり込んでくるなり、あわてて脇の下に手を入れた。一人はまちがいなくボクサー崩れだ。色白のハンサムな顔だが鼻の形がいけない。片方の耳なんか小さなステーキのようだ。もう一人の方は痩せた金髪で無表情。間の詰まった両の眼には何の色も浮かんでいなかった。》
「厄日かもしれないな」は<Maybe it just isn’t your day.>。<is not your day>は「ついてない日」という意味で使われる。双葉氏は「君の悪日になるかもしれないということさ」。村上氏は「今日はきっと日が悪いんだよ」と、訳している。「悪日」という日本語もあるが、あまり見たことがない。それで村上氏は、「日が悪い」とほどいてみたのだろう。「厄日」の方が通りがよさそうな気がする。
「華麗なる人々のための華麗なる賭博場」としたところは<Flash gambling for flash people.>。チャンドラーお得意の繰り返しだ。双葉氏は、こちらも同じ言葉を繰り返して、「いんちき連中向きのいんちき賭博だ」。村上氏は前にバーニー・オールズに言った時と同じ訳語を使って「金持ち相手の高級賭博場だ」と訳している。
<flash>には「一瞬の、これ見よがしの、いんちきな、見た目が高級そうな」などの意味がある。二度も繰り返しているところから考えれば、ただの「金持ち相手の高級賭博場」ではなさそうな気がする。チャンドラーのことだから、一語に二重の意味を持たせているのだろう。意味の上からは双葉氏の訳の方が合っていると思うが、「いんちき賭博」というのは分かるが、「いんちき連中」というのは、どういう人々を指すのかよく分からない。当の賭博場の持ち主に言うのだから、そのものずばりではなく、もう少し皮肉を効かせたいと思い、このように訳してみた。
「地方警察はあんたの意のままだし、ロサンジェルスのその筋にもたんまりと握らせている」は<The local law in your pocket and a well-greased line into L.A.>。双葉氏は前半をカットして「ロス・アンジェルス界隈で、その筋にゃ鼻薬がきかしてあるだろうが」と訳している。村上氏は「地元の警察はすっぽり手中に収めているし、ロサンジェルスの上の方まで十分鼻薬は効かせてある」だ。
<in one’s pocket>を「手中に収める」は上手い訳だと思うが、「鼻薬」は少額の賄賂を意味する言葉で、ロサンジェルスの上の方に贈るにしては、ちょっと少なすぎる気がする。さらに失礼を顧みないで言わせてもらうと、「鼻薬を嗅がせる」の方が本義に近い。<grease>は「グリース」で油を塗る意味だが、俗語で「賄賂、贈賄」の意味で使われる。ロス市警の上層部によく油を塗った釣り糸を入れるのだ。かなりの高額でないと大物はひっかかったりしないだろう。
「彼はちょうど一分間、私をじっと見つめていた」は<He stared at me for a long level minute.>。ここを双葉氏は「彼はしばらくの間、私をじっと見ていたが」と訳すが、村上氏は「彼は長い間、むら(傍点二字)のない視線で私を睨んでいた」とやっている。<level>を「むらのない」と解釈してのことだろうが、この語は何にかかっているだろうか。「睨んでいる」<He stared at me>の後に来る<for a long(time)>は「長い間」という成句だ。そこを抽象的な<time>ではなく、「すりきり一杯」<level>の「一分」<minuite>と時間を区切ったのではないだろうか。
「もの足りない」としたところは<A little weak.>。直訳して「少し弱い」でもいいと思う。双葉氏もそうで「話としちゃすこし弱いが」としている。ところが、村上氏はちがう。「いささか強引な節があるが」だ。<a little weak>も、よく使われる言葉で、後ろに頭をくっつければ、「頭が少し足りない」となる。料理などの場合は「味が薄い」と、何かが少し不足がちであることを表現する言葉だ。「強引」という意味で使うのはいささか強引に過ぎはしまいか。
「本の移動は、当面の間死体を隠す動機を教えてくれる。乗っ取った仕事の目鼻がつくまで、誰かが時間を欲しがったのさ」の原文は<And the books being moved out gives a motive for hiding the body for a while. Somebody is taking over the racket and wants a little time to organize.>。双葉氏は「一時死体を隠したのは本を運び出すためだ。誰かが商売を肩代わりして建て直す時間を稼ごうとしたんだ」。村上氏も「本の運び出しが終わるまで、死体を隠しておく必要があった。彼の稼業を乗っ取ろうとしているやつがいて、その段取りをつけるのに少し時間がかかる」と、双葉訳を踏襲している。
これは訳の仕方というより読解の問題だろう。まず、エディのストーリーには本の移動が抜け落ちていることをマーロウは指摘している。ここは、死体の隠蔽よりも、本の移動ということを追うべきだ。何故、誰によって本は運び出されたのか?マーロウによれば、それはガイガーに代わって仕事をやっていくつもりの誰かが、新たな仕組みを立ち上げるための時間を欲しがったからだ。死体をしばらく隠しておくのもそのためだ。つまり、双葉氏のように「死体を隠したのは本を運び出すため」でもなければ、村上氏のように「本の運び出しが終わるまで、死体を隠しておく必要があった」わけでもない。両氏とも、後半の文ではそのことを書いていながら、前半部分では、短絡的な理由にしてしまっている。
「本の移動」は、「死体の隠蔽」の要因ではない。「本の移動」は、なぜ死体の隠蔽が行われたかということの動機を示唆するのである。ここをしっかり読み取らないから、短絡的な訳になる。ハード・ボイルド小説の流儀で、マーロウはあまり読者に説明しないが、頭はしっかり働かせている。いちいち口に出していれば名探偵と言ってもいいほど優れた推理力を持っているのだ。訳者もそれに負けないくらい頭を働かせて読んでいく必要がある。というよりも、翻訳の作業というものは訳文をではなく、原文の精読を要求しているのだ。ちゃんと読めば、訳はもうできたようなものだ。
「誰がそう決めたんだ?あんたと外の車にいる二人のガンマンか?」は<Who says so? You and a couple of gunmen in your car outside?>。双葉氏は「なぜだ。君や戸外(そと)の車にいる用心棒がそう言うだけのことだろう?」と、ちょっと言い方を変えて訳している。村上氏は「誰がそういうんだ。君と、表の車の中で待機している拳銃使いか?」と、「待機している」を除けばほぼ直訳だ。<say so>は「(独断的な)主張、(根拠のない)発言」の意味を持つ。双葉氏の訳は、その意味である。
それに対して、村上氏は文字通りに訳している。その前のエディの言葉<They can’t get away with it>を双葉氏は「そうは問屋がおろすまい」としているが、村上氏は「そうはさせんぞ」と訳している。<get away with >は「犯罪を犯してそのままうまく通す」という意味のイディオムである。否定形になることで「そうは問屋がおろさない」という日本語の文句がうまくあてはまる。直訳すれば「彼らは逃げおおせることはできない」という発言を、「そうはさせんぞ」という発話者の意志を感じさせる発言に変えることで、後に続く「誰がそう言うんだ」の問いが無意味になっている。エディが言っていることは自明だからだ。修辞疑問文で、答えは期待されていないとしても、あまりいい訳とは思えない。
「自分の体が防弾ではないという考えにそろそろ慣れてもいい頃だった」は<Not being bullet proof is an idea I had to get used to.>。双葉氏は「こんな場面は馴れっこだ」といきがってみせるが、ちょっとちがう。<Not being bullet proof>は「防弾ではあらない」だし、<I had to get used to>は「馴れなくてはいけない」という意味だ。マーロウは虚勢を張っているだけであって「馴れっこ」になってなどいない。村上氏は「自分が不死身ではないという考えにそろそろ馴染まなくてはいけないのだが」と丁寧に訳している。
「私に指図するなんて一体何様のつもりだ?」は<Who the hell are you to give me orders?>。<Who the hell are you>で「お前は何者だ」の意味。双葉氏は「僕に命令する権利はないはずだ」と、割とおとなしい口調に訳している。村上氏は「世の中、命令されればその通りに動くという人間ばかりじゃない」と、大胆に意訳している。いずれにせよ、ルガーの銃口を突き付けられながら言うのだからいい度胸である。
「片方の耳なんか小さなステーキのようだ」は<one ear like a club steak>。「クラブ・ステーキ」というのは、「ショート・ロインの部位のうち、あばら骨のすぐ後ろの、テンダーロインが全く含まれていない部位から取った肉。普段あまり使わない筋肉のため、テンダーロインに次いで柔らかい」らしい。テンダーロインの部位を含まないので、小さくなる。「クラブ・ステーキ」とそのまま訳しても食通でもなければ意味が分からない。双葉氏は「片耳はビフテキみたいだった」と懐かしい言葉を使っているが、普通のステーキを思い浮かべると、ちょっと大きすぎる。村上氏は「片方の耳は安物の小型ステーキみたいになっている」と、小型を強調するが、安物は余計だろう。