marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第四章(1)


《<フロリアンズ>は当然、閉まっていた。一眼で私服刑事と分かる男が、店の前に駐めた車の中で、片眼で新聞を読んでいた。私には警察がどうしてそんな手間をかけるのが分からなかった。ムース・マロイのことを知る者はこの辺には誰もいない。用心棒もバーテンダーもまだ見つかっていない。この界隈に何か話せるほど彼らを知る者はいないのだ。私は前をゆっくり通り過ぎ、角を曲がったところに車を停め、<フロリアンズ>のあるブロックの筋向い、一番近くの交差点の向こうに建つ、黒人専用ホテルを眺めた。名前は<ホテル・サンスーシ>。私は車を降りて引き返し、交差点を渡って中に入った。硬い空っぽの椅子が二列、細長い褐色の繊維カーペットをはさんで向い合っていた。暗がりの奥に机があり、その向こうで禿げ頭の男が眼を閉じ、柔らかな褐色の両手を机の上で安らかに組み合わせていた。居眠りをしていたか、しているように見えた。首のアスコット・タイは一八八〇年に結んだきりのように見えた。スティックピンについている碧玉は林檎より大きくはなかった。たるんだ大きな顎はアスコット・タイに優しく包まれ、組み合わせた両手は安らかで清潔だった。紫色のマニキュアを施された爪に灰色の半月が浮き出ていた。
 肘の脇にエンボス加工された金属札があり、「当ホテルはインターナショナル・コンソリディティッド・エージェンシー社により保護されています」と記されている。
 安らかな褐色の男が思案気に片眼を開けたとき私はその表示を指さした。
「HPDの調査員だ。何か問題はあるかね?」
 HPDは、大手エージェンシーの中でホテルの保護を担当する部門のことで、不渡り小切手を切ったり、未払いの請求書と煉瓦を詰めた中古のスーツケースを残して裏階段から逃げ出したりする客の面倒を見るところだ。
「問題かね、ブラザー?」受付係は高く朗々と響く声で言った。「それならたった今売り切れたところだ」そして、少しばかり声を落としてつけ足した。「名前は何て言ったかな?」
「マーロウ、フィリップ・マーロウだ」
「いい名前だ、ブラザー。きれいで、愉しげだ。今日はご機嫌なようだね」再び声を低くして「しかし、あんたはHPDの人じゃない。そんなもの、もう何年も見たことがない」組んでいた腕をほどいて物憂げに表示を指し「中古品だよ、ブラザー。効果を狙ってのことさ」
「なるほど」私は言った。そして、カウンターに身をもたせて、がらんとした疵だらけの天板の上で五十セント銀貨を回し始めた。
「今朝、<フロリアンズ>で何が起きたか聞いただろう?」
「覚えちゃいないね、ブラザー」今や彼の両眼はしっかり開かれ、くるくる回る銀貨から生じる、とらえどころのない光を見つめていた。
「ボスが殺されたんだ」私は言った。「モンゴメリという男だ。誰かがそいつの頸をへし折った」
「彼の魂が主の御許に召されんことを、ブラザー」また声を低くした。「警察か?」
「私立探偵だ。信用を守るのが信条だ。そして、信用が置ける人物かどうかは一目見たら分かる」
 彼は私をじっくり見、それから眼を閉じて考えこんだ。用心深げに再び眼を開けると、回旋する銀貨を見つめた。彼はそれから眼を離すことができなかった。
「誰がやった?」彼は静かに訊いた。「誰がサムを殺したんだ?」
「刑務所帰りのタフガイが腹を立てたんだ。店が白人専用でなくなったってな。昔はそうだったらしい。あんた覚えてないか?」
彼は何も言わなかった。銀貨が微かな音を立てながら倒れ、じっと横たわった。
「決めてくれ」私は言った。「聖書を一章読んで聞かせるか、それとも酒をおごろうか? どっちにするね」
「ブラザー、聖書は家の者といるときに読むものだ」両眼は明るく輝き、蟇蛙のようにじっと動かなかった。
「昼食は済ませたんだろう」私は言った。
「昼食は」彼は言った。「私のような体形や気質の者は抜くことにしている」声をひそめ「机のこっち側に来ないか」
 私はそちら側に行き、平たいパイント瓶入りの保税品のバーボンをポケットから出して棚の上に置いた。それから机のこちら側に戻った。彼は吟味するため前にかがんだ。気に入ったようだ。
「ブラザー、これでは何も買えないよ」彼は言った。「でも、まあ、あんたと一緒に軽く一杯やるのは悪くない」
 彼は瓶の蓋を開け、小さなグラスを二つ机の上に置き、グラスの縁のぎりぎりまでそっと酒を注いだ。それから一つを持ち上げ、注意深く香りを嗅ぎ、小指を立てて喉に流し込んだ。
 彼は味わい、考慮し、うなずき、そして言った。
「こいつは本物の酒だよ、ブラザー。さて、何の役に立てばいいのかな? この辺りのことなら、舗道のひび割れひとつに至るまで、私は下の名前で知っている。任せてくれ、これは気のおけない連中と飲む酒だ」彼は再びグラスを満たした。》 

「私には警察がどうしてそんな手間をかけるのが分からなかった」は<I didn't know why they bothered.>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「どうしてわざわざ見張りなんか立てるのか、理由がわからなかった」と、読みほどいている。

「この界隈に何か話せるほど彼らを知る者はいないのだ」は<Nobody on the block knew anything about them, for talking purposes.>。清水氏は「町内の人間の誰に聞いても知らなかった」と訳している。村上氏は「このあたりの誰も二人のことは知らない。少なくとも知っていると申し出るような人間はいない」と訳している。

ムース・マロイはよそ者だ。用心棒とバーテンダーは姿をくらましてしまった。この界隈の誰も彼らの居場所は知らない。それなのに警察は何のために見張りを立てているのか、というのがマーロウの考えだ。マーロウは清水氏が言うようには誰にも聞いていない。それに、村上氏は<them>を「二人」と決めつけているが、警察が一番知りたいのはムース・マロイについての情報だろう。人数で書くなら「三人」ではないのか?

「名前は<ホテル・サンスーシ>」は<It was called the Hotel Sans Souci.>。清水氏はここを「ホテル・サンズ・スーシという名前だった」と訳している。これは致命的な誤訳だ。<Sans Souci>は「サンスーシ」。もともとはフランス語で「憂いなし」という意味。ドイツにあるロココ式の宮殿のことで、日本や中国では「無憂宮」とも呼んでいる。

「細長い褐色の繊維カーペット」は<a strip of tan fiber carpet>。清水氏は「焦茶色のファイバーの絨毯」、村上氏は「タン色のちっぽけなカーペットをひとつ」と訳している。「タン」はどちらかと言えば淡い茶色で、「焦げ茶」というのは無理がある。村上氏の「ちっぽけな」は<strip>の意訳だろうが、<fiber>はどこへ行ってしまったのだろうか?

「たるんだ大きな顎はアスコット・タイに優しく包まれ」は<His large loose chin was folded down gently on the tie>。清水氏は「しまりのない大きな顎が、なかばネクタイに隠れ」と訳している。ネクタイに隠れる顎というのがわからなかったが、村上訳の「大きなたるんだ顎は、そのアスコット・タイの上に穏やかに垂れかかっていた」を読んで訳が分かった。しかし、そうなると分からないのは、大きな顎はタイの中にあるのかタイの外に出ているのか、どっちだろう。原文を読めば<be動詞+過去分詞>になっているので受動態、というわけで旧訳が正しい。

「それならたった今売り切れたところだ」は<is something we is fresh out of>。清水氏はここをカットして「別に変ったことはないよ」と訳している。この受付係の当意即妙の受け答えをチャンドラーが楽しそうに書いているので、カットするのは惜しい気がする。<fresh out of>は「品物がなくなったばかり」という意味の米語表現。村上氏は「そいつは今ちょうど切らしていてね」と訳している。

「がらんとした疵だらけの天板の上で」は<on the bare, scarred wood of the counter.>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「そのむき出しの疵だらけの表面で」と訳している。<bare>にはたしかに「むき出し」の意味があるが、カウンターといえばふつう「むき出し」になっているものだ。ここは、何も物が置かれていない、という意味にとった方がいいのではないか。

「くるくる回る銀貨から生じる、とらえどころのない光を見つめていた」は<he was watching the blur of light made by the spinning coin.>。清水氏は「カウンターの上で廻っている銀貨をじっと眺めていた」と訳しているが、厳密にいえばちがう。村上氏は「回転する硬貨の作り出すちらちらする光をじっと見つめていた」と訳している。<blur>は「おぼろげに見えるもの、なんともとらえどころのないもの」という意味で、「ちらちらする」というのとはちがう。回転する硬貨という、とらえどころのない形態を表していると見るべきだろう。

「そして、信用が置ける人物かどうかは一目見たら分かる」は<And I know a man who can keep things confidential when I see one.>。清水氏はここをカットして「私立探偵だよ。迷惑はかけない」と短く訳している。村上氏は「そして口の堅そうな人間は、一目見ればわかる」と訳している。

「蟇蛙のようにじっと動かなかった」は<toadlike, steady.>。清水氏は「亀の眼のようにじっと光っていた」と訳している。<toad>は「蟇蛙、蝦蟇」のほかに「いやなやつ」の意味があるが、「亀」はない。<turtle>か<tortoise>と読み間違えたのかも知れない。村上氏は「ひきがえる」と訳している。

「この辺りのことなら、舗道のひび割れひとつに至るまで、私は下の名前で知っている。任せてくれ、これは気の合う仲間と飲む酒だ」は<There ain't a crack in the sidewalk 'round here I don't know by its first name. Yessuh, this liquor has been keepin' the right company.>。清水氏は「このへんのことなら、舗道の割れ目一つまで、知らないことはないんだから……。嘘じゃない、この酒は本物だ」と後半を略している。

村上氏は「このあたりのことなら、歩道の割れ目ひとつに至るまで、私はファースト・ネームで知っている。イエッサー、こいつは正しきものの手を渡ってきた酒だ」と訳す。<Yessuh>は<yes sir>からきているから「イエッサー」もありだが、これは訳ではない。<the right company>を「正しきもの」と訳すのはどうか?「気の合う仲間」程度の意味だと思う。

それより何より、この台詞の後にある「彼は再びグラスを満たした」<He refilled his glass.>という一文を、村上氏は訳し忘れている。清水氏の旧訳には「彼はグラスに改めて酒を注いだ」という文が、ちゃんとあるのに。この一杯分は後で利いてくることになる。私が参照しているのは初版だが、今は文庫も出ているはず。そちらでは訂正されているのだろうか?