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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第二十一章(3)

《私がそこに着いたのは九時ごろだった。高目の速球のように決まるはずの十月の月は海辺の霧の最上層で惚けていた。サイプレス・クラブは町外れにあった。だだっ広い木造の大邸宅でドゥ・カザンという名の金持ちが夏の別荘として建てたものだが、後にホテルになった。今では外見は大きくて暗いさびれた場所になっていた。風に捻じ曲げられたモントレー糸杉の鬱蒼とした木立に囲まれているのが名の由来だ。巨大な渦巻装飾付き張り出し屋根、至るところに突き出した小塔、ステンドグラスに縁どられた大きな窓、裏手にある大きな空っぽの厩舎、とすべてが滅びゆくものへの懐旧の念を感じさせた。エディ・マーズは、MGMのセットのような外観にする代わりに、見つけたときのままに残していた。パチパチ音を立てるアーク灯の点いた街路に車を残し、湿った砂利道に沿って正面玄関まで歩いた。 ダブルブレストのガーズマン・コートを着たドアマンが大きくて薄暗く静かなロビーに私を案内した。白いオーク材の階段が堂々たるカーブを描いて上階の暗闇まで伸びていた。 私は帽子とコートを預け、背後の重い両開き扉から漏れる音楽に混じった話し声を聞きながら待った。それは遠く離れたところでしているようで、建物自体と同じ世界のものとは思えなかった。やがて、ガイガーの家でエディ・マーズとボクサーくずれと一緒に鉢合わせた痩せた顔色の悪い金髪の男が階段下のドアから出てきて、寒々とした笑みを浮かべ、絨毯敷きの廊下を通って私をボスのオフィスに先導した。
 方形の部屋には奥行きのある古風な出窓と石造りの暖炉があり、杜松の丸太が気怠げに燃えていた。壁は胡桃材の腰板に覆われ、鏡板の上に色褪せたダマスク織の帯状装飾がついていた。天井は高くて遠かった。冷たい海の匂いがした。
 エディ・マーズの黒っぽい光沢消しの机は部屋に似つかわしくなかったが、何にしたところで、一九〇〇年以後に作られた物なら同じだったろう。絨毯はフロリダの陽に灼けたような色だった。大型ラジオが部屋の隅に置かれ、セーブル焼のティー・セットを載せた銅製のトレイがサモワールの横にあった。誰のための物かと思った。隅に時限錠がついた金庫室の扉があった。
 エディ・マーズは社交的な笑みを浮かべ、握手をし、金庫室の方へ顎を動かした。「これがないと簡単に強盗に入られてしまう」彼は愛想よく言った。「毎朝地元のやつらがやって来て俺がこいつを開けるのを見る。やつらとそう取り決めているんだ」「何か教えてくれることがあると言ってたな」私は言った。「どういうことだ?」
「急いでいるのか?座って一杯つきあえよ」
「別に急いではいない。商売以外に話すことなんかないだろう」
「まあそう言わずに一杯やれよ、きっと気に入る」彼は言った。彼は二杯の酒をつくり、赤い皮革の椅子の横に私のを置き、自分は足を組んで机に凭れた。片手をミッドナイト・ブルーディナージャケットのポケットに突っ込み、外に出した親指の爪が光っていた。ディナージャケットを着ていると、グレイ・フランネルの時よりは少しやり手っぽく見えたが、それでもまだ馬に乗る方が似合いそうだった。私たちは飲んで頷きあった。
「前に来たことがあったか?」彼は訊いた。
禁酒法時代に。賭け事にはのめりこめない質(たち)でね」
「金は賭けなくていい」彼は微笑んだ。「のぞいて見るべきだ。お友達の一人が向こうでルーレットをやっている。彼女は調子がよさそうだ。ヴィヴィアン・リーガンだ」
 私は酒をすすり、彼のモノグラムのある煙草に手を伸ばした。
「昨日のおまえのやり方が気に入った」彼は言った。「その時は腹が立ったが、結局はおまえの方が正しいと分かった。おまえと俺は仲良くやるべきだ。借りはいくらになる?」
「何の借りだ?」
「まだ警戒しているのか?俺は警察本部にパイプがある。でなきゃここにいられない。何があったかは知っている。新聞で読むのとはちがうのをな」彼は大きな白い歯を見せた。
「どれくらい持っているんだ?」私は訊いた。
「金の話をしているんじゃないよな?」
「情報のことだと思っていたんだが」
「何についての情報だ?」
「物忘れが過ぎるな。リーガンのことだ」
「そうだった」彼は天井で光を放つ青銅のランプの一つから来る穏やかな灯りによく光る爪を揺らした。「すでにその情報は得たそうじゃないか。手間を取らせた謝礼がいるな。俺は世話をかけたら金で礼をするのに慣れているんだが」
「金を借りにここまで車を転がしてきたわけじゃない。私はしていることに対して報酬を受け取る。君の基準からいえば多くはないが、なんとかうまくやっている。顧客は一度に一人というのは良いルールだ。リーガンを消したのは君じゃないんだろう?」
「ちがう。俺がやったと思ったのか?」
「君ならやりかねない」
彼は笑った。「ふざけてるのか」
 私も笑った。「ちょっとからかってみただけさ。私はリーガンに会ったことはないが写真は見た。君のところにこの仕事のできる者はいない。とはいえ、この件に関してこれ以上、銃を持ったチンピラをよこさないでくれ。頭にきて一人くらい撃ち殺すかもしれない」》

「高目の速球のように決まるはずの十月の月は海辺の霧の最上層で惚けていた」は<under a hard high October moon that lost itself in the top of layers of a beach fog.>。双葉氏は「鋭くさえているはずの十月の月は、海辺の霧にかくれていた」。村上氏は「高く硬質な十月の月は、海岸の霧のいちばん上の層に仄(ほの)かに霞んでいた」。<a hard high one>にはいろんな意味があるが、打者を威嚇する「高めの速球」が、満月との類比で浮かんだと考えるのが妥当ではないか。

双葉氏の訳はそれを踏まえたものと考えられるが、村上氏の直訳はいただけない。「硬質な」月というのは月の属性の何を指していうのだろう。光なら霧に霞んでいるではないか。<lose oneself>は「迷子になる、呆ける、埋没する」などの意味。<lost ball>を連想したものでもあろうか。地上を照らすはずの月あかりが海辺の霧で隠されているのは、何かの暗喩のようでもあるし、サイプレス・クラブの裏寂れた外見を陰鬱に描写する効果を考えてのことかもしれない。

「ドゥ・カザン」は<de Cazens>。双葉氏は「デ・カゼンス」。村上氏は「デ・ケイズンズ」と訳している。ラテン語由来の冠詞がついているのだから、フランス語風の読みにしてみた。フランスには地名としてあるらしい。アメリカ人がどう読むかはつまびらかではないが、西海岸にはスペイン語由来の地名は数多くある。わざわざ英語風の読みにして「デ・ケイズンズ」と読むとは考えにくいのだが。

「パチパチ音を立てるアーク灯」は<sputtering arc lights>。これを双葉氏は「アーク灯が輝いている」と訳し、村上氏は「まばらなアーク灯」と訳している。<sputter>は「パチパチ音を立てる、唾をぺっぺと吐く」等の意味。村上氏は<scattering>(散乱、ばらばらの)と読み違えたか。双葉氏の方は「輝いている」だから<sparkling>だろうか?いずれにせよ、こういう細かな読み違えは起きるものだ。他者の目で確かめる必要がそこにある。

「ダブルブレストのガーズマン・コートを着たドアマン」は<A doorman in a double-breasted guard’s coat>。双葉氏は「ダブル・ボタンの守衛服を着たドアマン」。村上氏は「お仕着せのダブルのコートを着たドアマン」だ。<guard’s coat>とは、背にベルトを配したアルスター・コートに似たダブルのコートだが、袖の折り返しのないことやラペルの形状のちがいから見分けられる。フォーマルなコートで、「守衛服」というのはどうか。たしかに「お仕着せ」かもしれないが、決まった呼び名のあるコートを訳さない手はない。こういったアイテムに対する独特のこだわりはハードボイルド小説固有の持ち味というものである。

「色褪せたダマスク織の帯状装飾」は<a frieze of faded damask>。双葉氏は「色あせた石竹色の飾壁」としている。たしかに<damask>には「淡紅色」の意味もあるので一概にまちがいとはいえないが、室内装飾を描写しているので、ここは「ダマスク織」だろう。村上氏も「色褪せたダマスク織りの装飾帯」としている。

「地元のやつら」と訳した箇所は<The local johns>。双葉氏は「この辺の仲間」と訳しているが、村上氏は「土地の警官たち」と一歩踏み込んだ訳になっている。複数の辞書に当たっても例が見当たらなかった。スラングにそういう意味があるのかもしれないが、よくわからない。曖昧な訳になるのは好むところではないが、断定できないものはどちらとも取れる訳語にするしかない。

ディナージャケットを着ていると、グレイ・フランネルの時よりは少しやり手っぽく見えたが、それでもまだ馬に乗る方が似合いそうだった」は<In dinner clothes he looked a little harder than in gray flannel, but he still looked like a horseman.>。また<horseman>が出てきた。これを双葉氏のように「馬術家」と決めつけるのはためらわれるし、村上氏のように「乗馬をする人」と噛みくだくのもハードボイルドさに欠ける。そこで、こういう訳になった。自分の中のイメージでは<horseman>とは、カウボーイの格好で馬に乗るので、馬術家や乗馬というのとは少しちがうのだ。

「天井で光を放つ青銅のランプ」は<bronze lamps that shoot a beam at the ceiling>。双葉氏はあっさり「青銅のランプ」と訳しているが、村上氏は「天井の梁に向けて光線を送っているブロンズのランプ」と、<beam>を「光線」と「梁」と二重に使っている。これはケアレスミスではないだろうか?もし<beam>を「梁」の意味にとるなら、ブロンズのランプは何を<shoot>するんだろう。まさか弾丸ではないだろう。