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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第二十五章(3)

《 私は言った。「その通りだ。最近よくない連中とばかりつきあってたんでね。無駄口はやめて本題に入ろう。何か金になるものを持ってるのか?」
「払ってくれるのか?」
「そいつが何をするかだな」
「そいつがラスティ・リーガンを見つける助けになるとしたら」
「私はラスティ・リーガンを探していない」
「さあどうかな。聞きたいのか、聞きたくないのか?」
「先を続けろよ。役に立つものなら払う。百ドル札二枚もあれば、山ほど情報が買えるのがこの業界だ」
「エディ・マーズがリーガンをばらしたんだ」彼は静かに言い、背を後ろにもたせかけた。たった今副大統領に任命されたとでもいうように。
 私は手を振ってドアの方を示した。「話し合いの余地はない」私は言った。「酸素をむだ遣いする気はない。お帰りはあちらだ、スモール・サイズ」
 彼は机に覆いかぶさり、口の両端に白い線が入った。目をやることもなく念入りに何度も何度も煙草を消した。待合室のドアの向こうからタイプライターの単調なベルの音が、一行また一行、シフトするたびチンと鳴った。
「俺はふざけちゃいない」彼は言った。
「出て行けよ。うんざりだ、仕事がある」
「そうは問屋がおろさない」ぴしゃりと彼は言った。「人を甘く見ちゃいけない。俺は考えがあってやって来た。今、そいつをしゃべってるんだ。俺はラスティを知っている。深い仲じゃない。元気にやってるかい、と言うと返事するくらいの仲さ、気のないときは返事しなかったが、いいやつだった。ずっと好きだった。モナ・グラントって名の歌手に惚れていてね。女はその後マーズと名を変えちまった。ラスティは胸を痛め、金持ち女と結婚した。家では眠れないとでもいうように賭博場に通い詰める女のことは知ってるだろう。長身、黒髪、ダービー優勝馬みたいに豪勢だが、神経過敏で、男に絶えず圧力をかけるタイプ。ラスティはあの女とはうまくやっていけなかっただろう。とはいえ、父親の金とはうまくやっていけたはずじゃないか?これがあんたの考えだ。リーガンてやつは禿鷹のように藪にらみでね。遠くを見通せる目をしていた。いつでも一つ先の谷を見渡していた。どこにいるのか見当もつかなかった。金のことは眼中になかっただろう。俺がそう言うということはだ、ブラザー、誉め言葉なんだ」
 要するに小男は思ったほど愚図ではなかったわけだ。ペテン師四人のうち三人は、こんなに筋道立てて考えられないし、それを分かりやすく話せるやつはもっと少ない。
 私は言った。「それで逃げたと」
「逃げようとしたんだろう。そのモナという女と。女はエディと別居中だった。彼の稼業を嫌ってたんだ。特に副業の恐喝とか車泥棒とか、東部から来たヤバい連中を匿うとか、あれこれさ。ある晩、リーガンはみんなのいる前でエディに言った。モナを何かの犯罪に巻き込むようなことがあったらただじゃ置かない、とな」
「ほとんどが公表予定の事実だ、ハリー」私は言った。「それでは金は払えないよ」
「これからが聞きどころさ。そういうわけでリーガンが息巻いた。毎日午後になるとヴァーディの店で壁を睨んでアイリッシュ・ウィスキーを飲んでるところをよく見かけた。あまりしゃべらなくなっていたが、時々俺を通して賭けをした。俺があそこにいたのはプス・ウォルグリーンのために賭け金を集めていたからだ」
「彼は保険屋だと思ってたが」
「ドアにはそうあるな。もしあんたが押しかけたら、いろいろ考えて保険も扱ってくれると思うよ。とにかく、九月の半ばを過ぎてからというもの、リーガンを見かけなくなった。すぐ気づいたわけじゃない。そういうものだろう。人とそこで会っていて、それから見かけなくなるが、そのことに気づくまでは考えもしない。俺がそれに気づいたのは誰かが笑いながら、エディー・マーズの女がラスティ・リーガンと逃げたが、マーズは花婿の付添人みたいに平静を装っている、と言ったのを聞いたからだ。そのことをジョー・ブロディに話した。ジョーは鼻が利くからな」
「とんでもないくらいな」私は言った。
「イヌ並みとはいわないが、それでも利いた。あいつは金が必要だった。どうにかして二人の行方を探りあてたら実入りは倍と見込んだのさ。一方はエディ・マーズから、もう一方はリーガン夫人から。ジョーはちっとばかし、あの家族を知ってたんだ」
「五千ドル分な」私は言った。「少し前にあの家を強請っている」
「そうなのか?」ハリー・ジョーンズはいささか驚いたようだった。「そんなことアグネスから聞いていない。どうしようもない女だ。いつでも隠す。まあいい、ジョーと俺は新聞に目を配ってたが何も見つからない。それでスターンウッドの爺さんがもみ消したと知った。そんなある日、ヴァーディの店でラッシュ・カニーノを見かけた。やつを知ってるかい?」
 私は首を振った。
「自分ではタフだと思ってるやつがいるだろう、そんな男だ。必要なときにエディー・マーズに代わって相手を殺す──トラブル処理さ。一杯やりながら人を殺す男だ。用がないときはマーズに近づかない。L.Aにも泊まらない。やつが一枚噛んでいるかもしれないし、ちがうかもしれない。やつらはリーガンの情報をつかんでいて、マーズは薄笑いを浮かべながら機会を窺っていたのかもしれない。あるいは、全くちがうかもしれない。とにかく、俺はジョーカニーノの話をし、ジョーカニーノの後をつけた。尾行がうまいんだ。俺はからっきしだめだ。黙ってやつに任せておくしかない。それでジョーカニーノの後をつけてスターンウッドの屋敷まで行った。カニーノが敷地の外に車を停めると、女の乗った車がやって来て横につけた。しばらく話してたが、ジョーは女が何か渡したように思った。たぶん金だ。女は行ってしまった。リーガンの女房だよ。オーケイ、女はカニーノを知ってるし、カニーノはマーズを知ってる。そこでジョーは考えた。カニーノはリーガンについて何か知っていて事のついでに金を搾り取ろうとしてる、とね。カニーノはそそくさと立ち去り、ジョーは見失う。第一幕の終わりだ」》

「さあどうかな」は<Says you.>。双葉氏は「おっしゃいましたね」。村上氏は「とあんたは言う」だ。直訳すれば、その通りだが、ここは「そんなことを言うのはお前だけだ」という原文の意味から、あなたの言葉をそのまま信じるわけにはいかない、つまり、「さあどうかな、ばかを言え、本当かな」というふうに言外にほのめかされている裏の意味を採って訳に生かす必要がある。

「目をやることもなく念入りに何度も何度も煙草を消した。待合室のドアの向こうからタイプライターの単調なベルの音が、一行また一行、シフトするたびチンと鳴った」という二人が黙ったまま向い合う緊張感あふれる重要なシーンを双葉氏はあっさりカットしている。

「リーガンてやつは禿鷹のように藪にらみでね」は<This Regan was a cockeyed sort of buzzard.>。双葉氏は「とにかく、このリーガンってやつはとんだ藪にらみで」と<buzzard>を訳さずに<cockeyed >「藪にらみ」だけ訳している。それは村上氏の場合も同じで「ところがこのリーガンはいささかへそ曲がりでね、一筋縄ではいかない」と、完全に意訳している。

次の「遠くを見通せる目をしていた。いつでも一つ先の谷を見渡していた」は<He had long-range eyes.He was looking over into the next valley all the time.>。ここは、高い空から獲物を狙う猛禽類の習性をリーガンに喩えているのだが、ハリーのようなチンピラとはちがった視野や視点を持つリーガンに対する憧れめいた感情を感じさせる。この文につなぐためにも<buzzard>(ノスリのことだが、アメリカでは禿鷹、鷲の意)を訳出する必要がある。そうでなければ、なぜ「一つ先の谷を見渡」すという言葉が使われているのか読者には分らないだろう。

「どこにいるのか見当もつかなかった」は<He wasn't scarcely around where he was.>。双葉氏は「古巣へも遊びに来なくなった」と訳してその後の「金のことは〜誉め言葉なんだ」のところはカットしている。村上氏はこの部分を「ひとところにぐずぐず腰を据えるってのができない性格だ」と訳している。原文にそんなことは書かれていないから、思い切った意訳だ。本当に原文はそんなことを言っているのだろうか。

リーガンが本当に藪にらみだったかどうかは別にして、藪にらみの人の目はどこを見ているのか分かりにくい。ハリーが言いたいのは、それと同じようにリーガンが何を考えているのか傍目には分からなかった、ということだろう。リーガンの姿が見えなくなったことについて、顔見知り程度でも付き合いのあったハリーでさえ、見当がつきかねている。ましてや付き合ったことのないあんたに何が分かる、とマーロウに言っているのだ。

それを村上氏のように「ところがこのリーガンはいささかへそ曲がりでね、一筋縄ではいかない。そしてやつは長い目でものを見る男だった。常に次に行く谷間に目をやっているんだ。ひとところにぐずぐず腰を据えるってのができない性格だ」と、さもリーガンの意図を読み取っているように解釈してしまうのはいささか早計のそしりを免れないのではないか。ウィトゲンシュタインも「語りえざるものについては沈黙せねばならぬ」と書いている。双葉氏のカットは、それを実践しているのかもしれない。

「ドアにはそうあるな。もしあんたが押しかけたら、いろいろ考えて保険も扱ってくれると思うよ」のところ、双葉氏は「表向だけのことさ」の一言で後はばっさりカット。「もしあんたが押しかけたら」は<if you tramped on him,>。村上氏は「もし彼にねじ込んだら」と訳している。<tramp>は「どしんどしん歩く、徒歩で行く」のような意味。

「マーズは花婿の付添人みたいに平静を装っている」は<Mars is acting like he was best man, instead of being sore.>。双葉氏は「マースの方は、くさりもしないで、男を上げてたってことだった」と訳している。ここはご愛敬。< best man>は「花婿の付添人」のことで、最上級の男という意味ではない。村上氏は「それなのにマーズは怒りもせず、結婚式の花婿付添人みたいに涼しい顔をしてるって」と訳している。

ジョーは鼻が利くからな」は<Joe was smart.>。いつものように、ここでは<smart>が繰り返し使われている。それをどう訳すか。双葉氏は「ジョーは頭がよかったからな」、「筋金いりじゃないが、とにかくちゃっかりしてたよ」。村上氏は「ジョーはどっこい目端がきいた」、「切れ者というんじゃないが、それなりに頭の働く男ではあったよ」だ。二つ目の文は<Not copper smart, but still smart.>で、これが曲者。

この三つの<smart>を使った文の間にマーロウの吐く台詞<Like hell he was>がはさまっている。双葉氏は「すごくよかったな」。村上氏は「たいした目端のききようだ」だ。<like hell>は程度の猛烈さをいうときに使うが、文頭にくると「まったく〜でない」という意味を表す。つまり、マーロウの言葉には裏の意味が含まれていると考えられる。両氏とも、それを匂わせているのだろう。「とんでもない」という言葉を使って、否定の意味を強めてみた。

問題の<copper>だが、「銅」という通常の意味のほかに<cop>同様「警官」の意味がある。ここは、「警官並みに<smart>というほどではないが」という意味なのだろう、と考えて<smart>に「鼻が利く」という訳語を使った。もちろん警察官のことを「犬」呼ばわりする俗習を踏まえてのことだ。

「それでスターンウッドの爺さんがもみ消したと知った」は<So we know old Sterwood has a blanket on it.>。双葉氏は「さてはスターンウッドの老ぼれ爺さんが毛布をかぶせちまったんだなと思った」とそのまま訳している。<blanket>には「覆い隠す、もみ消す」の意味がある。村上氏は「これはスターンウッドのじいさんが口封じをしたんだなと思った」と訳している。

「必要なときにエディー・マーズに代わって相手を殺す」は<He does a job for Eddie Mars when Mars needs him>。双葉氏は「エディ・マーズは何かごたごたがおこると奴に仕事をやらせた」。村上氏は「エディー・マーズが必要とするとき、彼はエディーのために仕事をする」と両氏ともほぼ直訳だ。<do (a) job for>はそれだけで「やっつける、殺す」の意味がある。ハリーが使う言葉として、もっとストレートに訳す必要があるのではないか。