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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年』J ・D・サリンジャー

このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年 (新潮モダン・クラシックス)
J・D・サリンジャーが雑誌に発表したままで、単行本化されていない九篇を一冊にまとめた中短篇集である。下に作品名を挙げる。

「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」
「ぼくはちょっとおかしい」
「最後の休暇の最後の日」
「フランスにて」
「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」
「他人」
「若者たち」
「ロイス・タゲットのロングデビュー」
「ハプワース16、1924年」

「他人」までの六篇が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に関連する短篇。中篇「ハプワース16、1924年」は「バナナフィッシュにうってつけの日」の主人公で、グラース家兄弟の長男にあたるシーモアが七歳の時にキャンプ地で足を怪我して動けない時に家族に書いた手紙の体裁をとっている。「若者たち」と「ロイス・タゲットのロングデビュー」は単独の話である。

「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公ホールデン・コールフィールドが主人公。クリスマス休暇で家に帰ってきたホールデンはサリーとデートするが、ささいなことで諍いになる。「ぼくはちょっとおかしい」は学校を追われたホールデンが歴史教師の家を訪ねるごく短い話。二篇とも『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に同様の挿話が入っているが、別の短篇として読んでもおかしくない。もっと読みたいと感じたら『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでみるといい。

ジョン・F・グラッドウォラー二等軍曹、愛称ベイブは家に帰ってきている。その家を訪れるのが軍隊仲間のヴィンセント・コールフィールド。ヴィンセントは陸軍に入る前は小説家でラジオもやっていた。この日は、二人にとって出征前の「最後の休暇の最後の日」なのだ。ヴィンセントの弟のホールデンは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』以降に学校を退学して、陸軍に入ったものの、今は行方が分からなくなっているようだ。

第二次世界大戦中のアメリカの若者の戦争に対するナイーブな気持ちがストレートにぶつけられている。ベイブが父に話すことはホールデンに似てイノセントなものだが、自分の中にあるイノセンスをどう扱っていいか分からないホールデンとちがって、ベイブはそれを少し恥ずかしく感じながら、自分の意見として人に話すことができる。自分は戦争に行くが、それを全的に肯定しないし、帰還したら口を閉ざす。父親のように戦争で地獄を見て来たくせに「先の大戦では」などとは決して口にしない、と。

そのベイブは「フランスにて」で、ドイツ兵と戦っている。くたくたに疲れた今夜は塹壕を掘る力が出ない。死んだドイツ兵が使っていた塹壕は狭くて血で汚れていたが、毛布を敷いてそこで寝ることにする。その前に妹のマティルダからの手紙を読む。国に残したてきた恋人の様子や町の人々のあれこれが書かれている。「お願い、早く帰ってきて」と口に出し、そのまま眠りに落ちる。短いスケッチだが、戦場の夜を必要十分に描いている。

「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」の主人公はヴィンセント。ジョージアの雨の中、トラックに兵隊を三十三人のせて、ダンスに向かうところ。ホールデンはヨーロッパ戦線から無事帰国した後、今度は太平洋で戦闘中行方不明になっている。ビンセントはダンスの相手をする女性が四人分足りないことを気にしている。誰を下ろすか、どうやって決める?命のやり取りはないが、滅多にない楽しみの機会を奪うのは上官である自分だ。命令を下す者の孤独が胸に迫る。兵たちとの会話の間もホールデンのことが頭から離れない。タイトルは除隊したら書こうと考えている作品名のリストの一つ。

「他人」は除隊したベイブが妹を連れてランチをとりマチネを見るつもりで街に出たのに、ヴィンセントの恋人の家を訪ねる話。ヴィンセントはヒュルトゲンの森で戦死していた。ベイブは友人の恋人にその最期を、嘘偽りなく語る責任があった。迫撃砲にやられる死とはどういうものか。迫撃砲は音がしない。突然落ちる。最期の一言などない。サリンジャー自身がヒュルトゲンの森で実際に目にした事実だ。酷い死を語るベイブに花粉症のくしゃみをさせ、マティにヴィンセントの思い出を語らせることで、明暗のバランスをとっている。

「ハプワース16、1924年」はサリンジャーにとって最後の作品。雑誌発表時に酷評され、それ以降筆を執っていない。しかし、ある出版社からオファーを受けて単行本化寸前まで行ったというから、結局実現することはなかったが、作家自身は愛着を持っていたのだろう。訳者あとがきによれば「難解」な作品だそうだが、そうは思えなかった。七歳の子どもが書く手紙か、という批判は当たらない。グラース家の子どもはみな「神童」と呼ばれたのだから。なかでもシーモアは特別だ。

キャンプの中で浮いている自分とバディが、どれだけ不快な目にあっているかを訴える手紙なのだから、内容的に楽しいものではない。ユーモアは塗されているが、かなり苦味がある。性的関心の芽生えについてもけっこう触れているので、こういうところがお気に召さなかった人がいるのではないだろうか。ヴェーダンタ哲学が作家を壊したなどというのはいちゃもんのようなものだ。『ナイン・ストーリーズ』の「テディ」はシーモアの前身と考えられているが、そのテディの方が余程ヴェーダンタ哲学について詳しく語っている。

兄弟たちによって、伝説的存在にまで高められてしまっているシーモア。その神童のありのままの姿を見せたい、と考えたのは兄の手紙をタイプ原稿に打った次兄のバディだ。作家であることからバディはサリンジャー自身と重ねられることが多いが、おそらく作家自身も、複雑にして猥雑なシーモア像を描きたかったのだろう。家族に対する愛にあふれ、自分の好きな作家、作品について誰はばかることなく目いっぱい書きまくっている。それまでの作品にあった抑制を欠いていることが批評家たちの受けを悪くしてしまったのだろう。しかし、これも間違いなくサリンジャーだ。読めてよかった。

後の二篇にふれる余裕がなくなってしまったが、どちらも短篇として他の作品に引けを取らない。最後に訳だが、みずみずしい文章で、サリンジャーの訳として申し分ない。ただ、一つだけ注文をつけたいのが、原文で「ベシー」と「レス」とされている二人の呼称を「母さん」と「父さん」に変えてしまっていることだ。グラース家の兄妹は母親をベシーと呼ぶ。それは前からそうだったし、別にいけないわけでもない。訳者が気になって仕方がないからと言って勝手に変えるのはどうかと思う。訳自体はとてもいいので残念だ。