marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『湖中の女を訳す』第十八章(2)

<touch>は、「殺し」の合言葉

【訳文】

 彼女は少しばかり考えていた。途中で一度ちらっと私の方を見て、また目をそらした。
「ミセス・アルモアに会ったのは二度だけ」彼女はゆっくり言った。「でも、あなたの質問には答えられると思う――すべてね。最後に会ったのは、さっきも言ったように、レイヴァリーの家、かなり大勢の人がいたわ。しこたまお酒を飲んで、大きな声で話をしていた。女たちは夫連れでなく、男たちも妻と一緒じゃなかった、たとえいたとしてもね。そのなかにひどく酔っぱらった男がいた。名前はブラウンウェル。聞いたところじゃ、今は海軍にいるそうよ。ミセス・アルモアをからかっていたの、連れ合いの仕事のことでね。何でも、地元のパーティー好きの仲間が、朝食にピンクの象を食べたりしないように、注射針を詰めた鞄を抱えて一晩中つきあってる医者の一人だ、といったような話だった。フローレンス・アルモアは言ったわ。夫がしっかり金を稼いで、自分はそれを使うことがさえできれば、金の稼ぎ方は気にしないって。彼女も酔ってたし、素面の時だって、とても感じのいい人だとは思えない。よくいるでしょう。体にぴったり合った服を着た、目もあやな女たち。あたりを憚らず大笑いして、椅子にしどけなく寝そべり、脚を見せびらかしている、そういう女のひとり。とっても明るいブロンドで血色もよく、淫らなくらい大きな薄い青い瞳をしてた。ブラウンウェルは言った。なるほど、それなら心配はいらない、なにしろ濡れ手に粟の商売だ。患者の家に十五分かそこら出入りして、一回の往診で十ドルから五十ドルの稼ぎになる。ただ、一つ気になることがある、と彼は言った。一介の医者が、裏社会のコネなしにどうやったらこれほど多くの麻薬を手に入れることができるんだ。彼はミセス・アルモアに訊いたの。あんたの家じゃ晩飯に行儀のいいギャング連中を招いているのかって。彼女はグラスの酒を彼の顔にかけた」
 私はにやりとしたが、ミス・フロムセットは笑わなかった。彼女はキングズリーの大きな銅とガラスでできた灰皿で煙草をもみ消し、まじめな顔で私を見た。
「わかるよ」私は言った。「誰だってそうするさ。でかくて硬い拳骨を持ってりゃ別だが」
「そうね。その数週間後、フローレンス・アルモアは死体で発見された。夜遅くガレージで。ガレージの扉は閉まっていて、車のエンジンはかかったままだった」彼女は言葉を切り、ちょっと唇を湿らせた。「彼女を見つけたのが、クリス・レイヴァリー。帰宅したのが朝の何時だったかは知らない。彼女はパジャマ姿でコンクリートの床に横たわり、毛布をかぶせた車のエグゾースト・パイプの下に頭を突っ込んでいた。アルモア医師は外出中。突然の死だったこと以外、新聞には何も載らなかった。上手にもみ消されてた」
 彼女は組んでいた両手を少し持ち上げ、それからまた膝の上にゆっくり下ろした。私は言った。
「それで、何か問題でもあったのか?」
「世間はそう考えた。でも、世間というのはいつだってそう。少したってから私は真相とされていることを聞かされた。ヴァイン・ストリートでブラウンウェルにばったり会ったら、どこかで一杯やらないかと誘われた。彼のことは好きじゃなかったけど、ちょうど半時間ばかり時間を潰さなきゃならなかった。で、レヴィ―のバーの奥の席に座った。そうしたら、俺の顔に酒をかけた女を覚えてるか、と訊くの。だから、覚えていると言った。その後会話はこう続いた。よく覚えてるの」
「ブラウンウェルはこう言った。『我らが仲間、クリス・レイヴァリーは安泰だ。ガールフレンドは切らしても、金づるは切らさない』」
「私は言った。『何のことだか、さっぱり分からない』」
「彼は言った。『知りたくないからだろう。アルモアの女は死んだ晩、ルウ・コンディの店のルーレットで身ぐるみ剥がされてしまったんだ。彼女は癇癪を起こし、イカサマだと言って大騒ぎした。コンディは彼女を自分のオフィスに引きずり込まなきゃならなかった。彼は医師専用の電話交換局を使ってアルモア医師と連絡を取り、しばらくして先生がやってきた。彼は例の多忙な注射を一本打つと、妻のことはコンディに任せて行ってしまった。急患か何かで急いでたんだ。コンディは彼女を家に連れていった。電話で呼ばれた先生の診療所の看護婦も顔を見せ、コンディが彼女を二階に運び上げ、看護婦がベッドに寝かせた。コンディは仕事に戻っていった。ところが、人の手を借りなきゃベッドにも行けなかった女が、その夜のうちに起き出して、ガレージに降りていって一酸化炭素中毒で自ら命を絶った。あんた、これについてどう思うね?』ブラウンウェルは私に訊いた」
「私は言った。『何のことだかさっぱりよ。あなたはどうなの?』」
「彼は言った。『三流紙の記者を知ってるんだ。一応あの辺りじゃ新聞と呼ばれてる。検死審問も解剖もなかったそうだ。何か検査があったとしても、一切発表されていない。ベイ・シティ署には正規の検死官がいない。葬儀屋が一週間交代で検死官の代わりを務めているような有様だ。連中は当然のことながら政治ゴロの言いなりだ。小さな町では、買収するのは簡単だ。コネを持った誰かがやろうと思えばな。そして、コンディはそのときかなりのコネを持っていた。彼は捜査が公開されることを望まなかった。それは医師も同じだ』」
 ミス・フロムセットはそこで話をやめ、私が何か言うのを待った。私が黙っていたので、そのまま話し続けた。「ブラウンウェルにとって、これがどういう意味を持つか、あなたなら分かるでしょう?」
「まあね。アルモアは彼女を殺し、それからコンディと二人で金を使ってもみ消した。ベイ・シティみたいに汚れていない、ちっぽけな町でもやられてきたことだ。だが、話はそれで終りじゃないんだろう?」
「その通り。ミセス・アルモアの両親が私立探偵を雇ったらしいの。ベイ・シティで夜警の会社をやってて、クリスの次に現場に現れた二人目の男。ブラウンウェルの話だと、その人は情報を握ってるにちがいないの。でも、それを活かすチャンスがなかった。飲酒運転で捕まって、実刑をくらったから」
 私は言った。「それだけ?」
 彼女はうなずいた。「もし、私の記憶がよすぎると思ったなら言うけど、会話を記憶することは、私の仕事の一部なの」
「私が考えていたのは、結局、その話は何の役にも立たないってことだ。レイヴァリーを殺す必要がどこにあったのかが分からない。たとえ彼が死体を見つけたのだとしてもだ。君の噂好きの友人ブラウンウェルは、この一件が誰かに医師を脅迫するチャンスを与えた、と考えたようだ。しかし何か証拠が必要だろう。特に、すでに法的に潔白が証明された人間を強請ろうとするなら」
 ミス・フロムセットは言った。「私もそう思う。それに、強請りのようなひどいことはクリス・レイヴァリーにはちょっとできそうにない、と思いたい。私がお話しできるのはそれだけ、ミスタ・マーロウ。それに、もうそろそろ出なきゃ」
 彼女は立ち上がろうとした。私は言った。「話はまだ終わっちゃいない。君に見せなきゃならないものがある」
 私は、レイヴァリーの枕の下から引っ張り出した香水の滲みた布切れをポケットから取り出し、机の上に身を乗り出して、彼女の前に落とした。

【解説】

「何でも、地元のパーティー好きの仲間が、朝食にピンクの象を食べたりしないように、注射針を詰めた鞄を抱えて一晩中つきあってる医者の一人だ、といったような話だった」は<The idea seemed to be that he was one of those doctors who run around all night with a case of loaded hypodermic needles, keeping the local fast set from having pink elephants for breakfast.>。

清水訳は「社交界を遊びまわってる連中をおとくい(傍点四字)にしていて、一晩中いかがわしい皮下注射をしてまわってる医師の一人だというようなことだったわ」。田中訳は「ドクター・アルモアはベイ・シティの社交界の連中の家に出入りして、二日酔いや神経過敏をなおすためかなにかしらないが、チョコチョコ注射をうつて一晩中はしりまわつてるというのよ」。村上訳は「アルモア医師が鞄に注射針をいっぱい詰めて、近隣の遊び好きの人々が朝食の席でピンク色の象を見たりしなくていいように、一晩中あちこち駆け回っているような類いの医者であることを、ブラウンウェルは匂わせているらしかった」。

<run around with>は、「(好ましくない人物と)つき合う、(異性と)浮気する」という意味のイディオム。「一晩中走り回っている」わけではない。<fast set>だが、「社交界の連中」という意味ではなく、トラブルを起こしがちなほど「激しいパーティーをすることが好きな人々」を表す口語英語。おそらく、酒だけでなくドラッグも頻繁にやりとりされるのだろう。「ピンクの象」云々は、薬物の過剰摂取から起きる幻覚症状のことを言っているものと思われる。そういうパーティーに診療鞄を抱えた医者がいるのは、たしかに都合がよかろう。

「彼女はグラスの酒を彼の顔にかけた」は<She threw a glass of liquor in his face>。田中訳は「ミセズ・アルモアは、グラスにはいつた水を、ブラウンウェルにぶつつけたわ」と、理由は分からないが<liquor>が「水」に代わっている。村上訳は「彼女はグラスの酒を彼にかけた」。こちらは<his face>が「彼」になっている。清水訳は「夫人は彼の顔にグラスのウィスキーをぶっかけたわ」。彼女が何を飲んでいたのか、ミス・フロムセットは知らなかったはず。<liquor>は「蒸留酒などの強い酒」のこと。ウィスキーはその代表だ。

「誰だってそうするさ。でかくて硬い拳骨を持ってりゃ別だが」は<Who wouldn't, unless he had a large hard fist to throw?>。清水訳は「彼が腕が立ちそうな男だったらべつだけどね」。この場合の「彼」が問題だ。村上訳は「相手の男が大きなごつい拳(こぶし)さえ持っていなければね」と、「彼」を「相手の男」と取っている。そうじゃないだろう。この<throw>は、その前の<She threw a glass of liquor in his face>を受けている。

<throw>は「(体・物を)さっと動かす」ことだ。その人に強い拳があれば、相手にパンチを食らわす<throw>ところだが、それがない(女性だ)から、手にしていたグラスの酒を<throw>したわけだ。つまり、この場合の「彼」は、指している男女の性別に関わりのない「その人」の意味だ。田中訳は「水をぶつかけるぐらいあたりまえだ。男で、パンチが自慢だつたら、ガンとやつてただろう」。ふつう、こうだろう。

「レイヴァリーを殺す必要がどこにあったのかが分からない。たとえ彼が死体を見つけたのだとしてもだ」は<I don't see where it has to touch Lavery, even if he was the one who found her>。清水訳は「あの女を見つけたのがレイバリーだったとしても、とやかくいわれることはないだろう」。村上訳は「その話がレイヴァリーとどこで結びつくか、それがわからない。彼がただ第一発見者だったというだけじゃ、話は繋がらない」。田中訳は「それが、どういうふうに、レヴリイが殺されたことにからまつてるか……わからん。たとえ、ミセズ・アルモアが死んでるのを、いちばんさきに見つけたのがレヴリイだとしても……」。田中訳だけが<touch>を「殺す」と訳している。

マーロウは、クリス・レイヴァリーが誰の手によって殺されたのかが知りたい。しかし、ミス・フロムセットの話はマーロウの知らない事実をいくつか含んではいるが、それについては、結局、何も得るところはない。この場合の<touch>は「手を下す」という意味での「殺し」の意味だ。<has to touch Lavery>を「レイヴァリーを殺す必要がある」と読まないで、ハードボイルドは訳せないだろう。

「それに、強請りのようなひどいことはクリス・レイヴァリーにはちょっとできそうにない、と思いたい」は<And I'd like to think blackmail was one of the nasty little tricks Chris Lavery didn't quite run to.>。清水訳は「そして、私は恐喝はクリス・レイバリーにはとてもできそうもない汚いことの一つだと思いたいのよ」。田中訳は「それに、クリス・レヴリイはほんとにロクでもないことばかりやつてたけど、まさか、恐喝なんかはしなかつたでしよう」。村上訳は「また私としては、強請りのような危ない芸当はクリス・レイヴァリー向きじゃないと思いたいところね」。

<(nasty)trick>は「卑劣な(ばかげた、恥ずべき)行為、ひどいこと」という意味で、「危ない芸当」というのとはちょっと意味がちがう。また<not quite>は「~とまでは行かない、完全には~でない」という意味で、それに<run to>(~に達する、~の状態になる)がくっつくと「(いくら悪いやつでも)そこまで腐っちゃいない」というような意味になる。「向き、不向き」というのとは少しちがうのではないか。