marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『湖中の女を訳す』第十八章(1)

<Come and see my etchings>は「ちょっと家に寄らないか」という誘い文句

【訳文】

 アスレティック・クラブは、通りをはさんだ四つ辻の角にあった。トレロア・ビルディングから半ブロックほど行ったところだ。私は通りを北に横切って入口に向かった。以前ゴム敷きだった歩道はすっかり薔薇色のコンクリートに敷き替えられていた。周りにはフェンスが張られ、建物に出入りするために狭い渡り板が通してある。そこはランチ帰りの勤め人でごった返していた。
 ギラ―レイン社の応接室は昨日よりもさらにがらんとしていた。例のふわっとした金髪の小柄な娘が隅の交換台の後ろに押し込まれていた。彼女がちらっと微笑んだので、ガンマンの敬礼を返した。人差し指をピンと彼女に向け、三本の指をその下にたくし込み、西部劇のガンマンが撃鉄をはじくみたいに親指を素早く上下に動かした。彼女は、声を立てずに大笑いした。この一週間で一番楽しい時間だったにちがいない。
 私がミス・フロムセットの空き机を指差すと、小柄な金髪娘はうなずいてプラグを挿し込み、何か言った。ドアが開き、ミス・フロムセットが優雅な腰つきで机に向かって腰を下ろし、私の出方を待つようにクールな視線を向けた。
「ご用件は、ミスタ・マーロウ? あいにくミスタ・キングズリーはただ今不在ですが」
「今、会ってきたところだ。どこかで、話せるかな?」
「話す?」
「ちょっと見せたいものがあるんだ」
「ほんとに?」彼女は思うところがあるように私をじろじろ見た。多くの男が彼女に物を見せようとしてきたにちがいない。その中には、エッチングを見に来ないか、という誘いもあったはず。場合が場合なら、私だってそれに賭けてみる誘惑に逆らえなかっただろう。
「仕事の話だ」私は言った。「ミスタ・キングズリーの用でね」
 彼女は立ち上がって手すりのゲートを開けた。「そういうことなら、彼のオフィスでお話した方がよさそうね」
 我々は部屋に入った。彼女は私のためにドアを押さえてくれた。すれ違うときに匂いを嗅いだ。サンダルウッド。私は言った。
「ギラ―レイン・リーガル。香水のシャンパン?」
 彼女はドアを押さえながら、かすかに微笑んだ。「私のサラリーで?」
「サラリーの話などしちゃいない。君は自分で香水を買わなきゃならない娘には見えない」
「まあ、それはそうね」彼女は言った。「正直に言うと、私はオフィスで香水をつけるのは大嫌い。彼の考えよ」
 奥行きのある仄暗いオフィスの中を通り、彼女は机の端の椅子に腰かけた。私は昨日の椅子に座った。互いに見つめ合った。今日の彼女は、頸周りにレースのひだ飾りがついたタン・カラーの服だ。昨日より温かみを感じたが、燎原の火とまではいかない。
 私はキングズリーの煙草を一本取って彼女に勧めた。彼女はそれを手に取り、彼のライターで火をつけ、椅子の背に凭れた。
「腹の探り合いは時間の無駄だ」私は言った。「もう、私が誰で何をしてるか知ってるだろう。もし君が、昨日の朝知らなかったとしたら、それはただ彼が大物ぶって見せるのが好きだからだ」
 彼女は膝に置いた手を見下ろし、それから目を上げて、恥ずかしそうに微笑んだ。
「彼はすごい人よ」彼女は言った。「大物振りたがるところが玉に瑕だけど。それもつまるところは、自分相手の一人芝居。あの性悪女のことをどれだけ我慢してきたか知ってたら」――彼女は煙草を持った手を振った。「まあ、これは言わぬが花。で、私に何の御用かしら?」
「キングズリ―の話では、アルモア家と懇意だったとか?」
「知ってたのはミセス・アルモアのほう。二度ばかり会ったかな」
「どこで?」
「友だちの家よ。どうして?」
「レイヴァリーの家でかい?」
「不躾な質問、だとは思わないの? ミスタ・マーロウ」
「どうしてそう取るのか分からない。こっちはこれが仕事でね、いかにも仕事らしく話してるつもりだ。国際外交ってわけじゃない」
「わかったわ」彼女はかすかにうなずいた。「クリス・レイヴァリーの家よ。時々行ってたの。彼がカクテルパーティーを開いた時に」
「それじゃ、レイヴァリーはアルモア夫妻と親しかったわけだ――それともミセス・アルモアとかな?」
 彼女はほんのわずか、頬を赤らめた。「そう、とても親しかった」
「そして、他の多くの女――もまた、とても親しくしていた。それは疑いようがない。ミセス・キングズリーも彼女を知っていた?」
「ええ、私なんかよりずっと。二人はファースト・ネームで呼び合う仲だった。ミセス・アルモアは死んだわ。ほらあの、自殺したの。かれこれ一年半前になる」
「そこに疑わしい点はなかったのかな?」
 彼女は眉をひそめたが、わざとらしかった。まるで私の質問に合わせてやったみたいに。
 彼女は言った。「わざわざそんな質問をするのは特別な理由があるの? ていうか、あなたのやってることと何か関わりがあるわけ?」
「関わりがあると思っていなかった。今でも思っていない。しかし昨日、私が家を見ただけでアルモア医師は警察を呼んだ。車のナンバーから私が誰か調べた後でね。その場に居合わせただけなのに、警官はかなり手厳しかった。警官は私が何をしているのか知らなかったし、レイヴァリーの家を訪ねたことも話していない。だが、アルモア医師は知っていたにちがいない。彼はレイヴァリーの家の前にいる私を見ている。なぜ警官を呼ぶ必要があると考えたのだろう? また、なぜ警官は、この前アルモアを強請ろうとした奴は今じゃ鎖に繋がれて道路を掘る毎日だ、などといわくありげに言おうと思ったんだろう? さらに、なぜ警官は、女の身内に――ミセス・アルモアの家族のことだと思うが――雇われたのか、と尋ねたりしたのだろう? もし、君がこれらの質問の幾つかに答えられるなら、関わりがあるかどうか、私にも分かるかもしれない」

【解説】

「例のふわっとした金髪の小柄な娘」は<The same fluffy little blonde>。清水訳は「昨日とおなじ小柄のかわいい金髪娘」。田中訳は「れいの、お茶目の金髪(ブロンド)の娘(こ)」。村上訳は「昨日と同じ身の軽そうな小柄なブロンド娘」。この<fluffy>だが、第一章でも、<smiled a small fluffy smile>(小さくふわりとした微笑を浮かべた)と使われている。つまり、この<fluffy>は、彼女の微笑についての印象だ。

第一章では同じ語を三氏はどう訳しているか。清水訳は「薄笑いを浮かべた」。田中訳は「かすかにほほえんでいる」。村上訳は「小さく軽やかな微笑を見せてくれた」だ。<the same fluffy>とあるからには、その第一印象を大事に訳す必要があるのではないだろうか。<fluffy>は「けば、綿毛(に覆われた)、ふわふわした」という意味の形容詞。村上訳の「身の軽そうな」は、そこからの類推だろうが、<fluffy>は<smile>を指しているのであって、彼女自身ではない。

「多くの男が彼女に物を見せようとしてきたにちがいない。その中には、エッチングを見に来ないか、という誘いもあったはず」は<A lot of guys had probably tried to show her things, including etchings>。<etchings>は「ちょっと家に寄らないか(Come (and) see my etchings)」と、女性を家に誘うときによく使われる。別の作品でも使われている、作家のお気に入りの小道具だが、旧訳は三つとも「エッチング」を使っていない。

清水訳は「多くの男がさまざまな物を彼女に見せようとしたにちがいない」と、<etchings>をスルーしている。田中訳は「きつと、あちこちの男が、いろんなものを見せたがつたことがあるにちがいない。画を見にきませんか、なんて家にさそつたやつも――」。村上訳は「きっとたくさんの男たちが彼女にいろんなものを見せようとしたのだろう。そこには多くの下心があったに違いない」。

ミス・フロムセットは「見せたいものがある」というマーロウの言葉に<Oh, yes?>と応じている。これは、今風に言えば「マジで?」だ。それを受けて、マーロウの心の中で独り言が始まる。ここは、なかなか手強い。特に、前に書いた部分の後を受ける<At another time I wouldn't have been above taking a flutter at it myself>が厄介だ。

清水訳は「私もいつか、いまこれから見せるものと違うものを見せてもいいと思った」。田中訳は「ほかの場合だつたら、おれも、そんなふうにしたかつたところだ」。村上訳は「状況さえ異なれば、私だって同様の野心を抱いたかもしれないが」となっている。

<wouldn’t have been>は「~しなかっただろう」。<take a flutter>は「小さな賭けをする」ことだが、その前に<above>がある。<above doing>は「(自尊心のせいで)そんなことはしない」という表現になる。つまり、「賭けに出るような真似をしないことはしなかった」という二重否定になる。そこで「場合が場合なら、私だってそれに賭けてみる誘惑に逆らえなかっただろう」と訳してみた。この場合の「それ」とは、いうまでもなく<Come and see my etchings>という誘い文句をかけることだ。

「仕事の話だ」は<Business>。「ミスタ・キングズリーの用でね」は<Mr. Kingsley's business>。清水訳はそれぞれ「仕事だ」、「キングズリーさんのことだ」。田中訳は「ぼく個人の用じゃない。キングズリイさんの用で――」。村上訳は「ビジネスのことだ」、「ミスタ・キングズリーのビジネスに関することだよ」となっている。

<business>は、たしかに「仕事、商売」のことだが、いろいろな使い方をされる。その前にマーロウが<What do we talk?>と訊き、ミス・フロムセットが<Talk?>と問い返している。<talk business>は「まじめな話をする」という意味。それに、マーロウが<Mr. Kingsley's business>と答えていることから見て、ここは村上訳のような商売の意味のビジネスではない。「するべき仕事(用事、用件)のことだ。マーロウはキングズリー氏のビジネスではなく、キングズリー氏の「用事をする」(do one’s business)のだ。

「不躾な質問、だとは思わないの?」は<You're not going to be insolent, are you>。<insolent>は「横柄、傲慢、無礼」等の意味。清水訳は「図に乗らないで欲しいわね」。田中訳は「また、わたしをからかうつもりなの」。村上訳は「何か失礼なことを言い出すつもりじゃないんでしょうね」。ミス・フロムセットは、話が私的な範囲に入ることをやんわりと拒否して、こう言っているのだろう。

「こっちはこれが仕事でね、いかにも仕事らしく話してるつもりだ。国際外交ってわけじゃない」は<I'm going to talk business as if it were business, not international diplomacy>。清水訳は「私は仕事を仕事として話をする。国際外交の話をするつもりはない」。田中訳は「ぼくは、ビジネスをビジネスらしく話そうとしているだけだ。外交官みたいな口のききかたをするつもりはない」。村上訳は「私はビジネスを、あくまでもビジネスとして進めているだけだ。国際外交みたいにはいかない」。村上訳からは<talk>が完全に脱落している。

<as if it were>は「まるで~のように」という意味。否定が加わると「あるまいし」という意味になる。つまり、マーロウは自分が踏み込もうとしているのは、相手にとっては触れてほしくない部分だ、ということを知っている。しかし、探偵にとってはそれを探ることが「仕事」だ。当然、勿体ぶった言い方ではなく、突っ込んだ物言いにならざるを得ない。<business>をただ「仕事(ビジネス)」と訳してしまうと、その辺の話が見えなくなる。

「ミセス・アルモアは死んだわ。ほらあの、自殺したの。かれこれ一年半前になる」は<Mrs. Almore is dead, you know. She committed suicide, about a year and a half ago>。清水訳は「アルモア夫人は死んでるのよ。一年ほど前に自殺したのよ」と<you know>を訳していない。田中訳は「ごぞんじでしようけど、ミセス・アルモアはなくなつたわ。自殺したの。一年半ばかり前に」。村上訳は「ご存じのように、ミセス・アルモアは亡くなってしまった。一年ほど前に自殺したの」。

この<you know>だが、文頭や文末に置かれていないので、「ご存じのように」という意味ではない。文章と文章の間にはさまれる<you know>には、二通りある。一つは、次に言うことが思い出せずに会話の間を埋める場合。もう一つは、次に言う内容が、相手を嫌な気持ちにさせる自覚があって、ストレートに続けず、緩衝材として間に言葉をはさむ場合。この場合は、知人が自殺した事実を告げているので、二つ目と考えるのが妥当だろう。

「また、なぜ警官は、この前アルモアを強請ろうとした奴は今じゃ鎖に繋がれて道路を掘る毎日だ、などといわくありげに言おうと思ったんだろう?」は<And why would the cop think it smart to say that the last fellow who tried to put the bite on Almore ended up on the road gang?>。<the cop think it smart to say that>は直訳すれば「警官はなぜthat以下のように言うことが賢明だと思ったんだろう」。<road gang>は、映画でおなじみの足を鎖でつながれて集団で道路工事をする囚人たちのこと。

清水訳は「そして、なぜ警官はアルモアに噛みつこうとした男が闇から闇に葬られたと私に話したのだろう」。「闇から闇に葬られ」たら消息が知れないので、これは誤り。田中訳は「それに、この前、アルモアから甘い汁をすおうとしたある男は、とうとう刑務所にほうりこまれ、道路工事をやらされているなんて、どうしてわざわざ、そのお巡りはぼくをおどかしたんだろう?」。<road gang>については田中訳が一番詳しい。

村上訳は「そしてなぜその警官は、以前アルモアを脅迫しようとした人間は、今じゃムショ暮らしをしているというようなことを、わざわざ私に告げたのだろう」。その警官はマーロウのことを、以前からちょくちょくアルモアのところにやってきていた強請り屋の一人と勘違いして、ちょっと脅してやろうと思って、こう言ったにちがいない。単なる「ムショ暮らし」では、鎖で自由を奪われながら、つるはしをふるう辛さがもう一つ伝わってこない。