marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『湖中の女』を訳す 41

<We were waved across the dam>は「ダムの向こうで手が振られた」

41

【訳文】

  ハイウェイを封鎖するため、パットンが何本か電話をかけ終えたとき、ピューマ湖ダムの警備に派遣されている軍曹から電話がかかってきた。我々は外に出てパットンの車に乗り込み、アンディは湖畔の道を恐ろしいスピードで走り、村を通り抜け、湖岸に沿って最後に大きなダムまで戻ってきた。ダムの向こうで手が振られた。本部の小屋脇に停めたジープで待機中の軍曹だった。
 軍曹は腕を振ってジープを発進させ、我々は彼について行った。ハイウェイを二、三百フィートほど行ったところで、数人の兵士が峡谷の端に立って下を覗き込んでいた。何台かの車がそこに止まり、兵士の近くに人だかりができていた。軍曹がジープから降り、パットンとアンディと私は公用車から降りて、軍曹のそばに行った。
「あの男は歩哨が止まれと言ったのに止まらなかった」軍曹が言った。声には苦いものが混じっていた。「歩哨は危うく道から落ちるところだった。橋の中央にいた歩哨はやっとのことで身をかわした。いちばん端にいた歩哨は避けるだけの時間があったので、止まるように命じたが、男は走り続けた」
 軍曹はガムを噛みながら谷底を見下ろした。
「こういう場合には発砲が命じられている」彼は言った。「歩哨は発砲した」彼は絶壁の端にあたる路肩を抉った跡を指差した。「ここから落ちたんだ」
 渓谷の百フィート下で、巨大な花崗岩の巨礫の脇腹にぶつかって小さなクーペがぺしゃんこになっていた。ほとんど仰向けになって少し傾いていた。下には男が三人いた。車を動かして何かを引っぱり出そうとしていた。かつては人間であった何かを。

【解説】

「ダムの向こうで手が振られた。本部の小屋脇に停めたジープで待機中の軍曹だった」は<We were waved across the dam where the sergeant was waiting in a jeep beside the headquarters hut>。田中訳は「番兵は手をふつてとおし、われわれは、監視本部の小屋のちかくでジープにのつてまつている班長のところにいそいだ」。清水訳は「私たちはダムを横切って、警備本部の建物のそばまで行った。軍曹がジープに乗って、私たちを待っていた」。両氏の訳では主語である<we>がダムを横切っている。

しかし、原文を読めば分かるように、この文は受動態で書かれている。両氏はそこを読み違えている。電話した相手が来たら話をしそうなものだが、軍曹は車から降りず、口もきいていない。両者の間には距離があるからだ。もう少し車で走らなければいけないのだから、軍曹はその労を省き、手を振ることでそれに代えた。村上訳は「ダムの向こう側にある監視所のわきに駐めたジープの中で待機していた軍曹が、手を大きく振って我々に合図をした」。

「ハイウェイを二、三百フィートほど行ったところで、数人の兵士が峡谷の端に立って下を覗き込んでいた」は<a couple of hundred feet along the highway to where a few soldiers stood on the edge of the canyon looking down>。田中訳は「ハイウェイを二百フィートばかりすすむと、崖つぷちに、二、三人の兵隊がたつて、下を見おろしていた」。清水訳は「街道に沿って二百フィートほど走り、数人の兵士が渓谷の縁で下をのぞいて立っているところまで行った」。

村上訳は「ハイウェイを百メートルばかり進み、数人の兵隊が渓谷の端に立って下を覗き込んでいるところまで行った」。<a couple of>をどう訳すか、という問題。旧訳のお二人は「二」を、村上氏は「三」を採用したのだろう。村上訳のようにメートル法で書くと日本語にした場合、「六十メートル」というのは、あまり納まりのいい数字とはいえない。そこで<a couple of>(2〜3)の後者と考え、約「百メートル」としたわけだ。

「渓谷の百フィート下で」は<A hundred feet down in the canyon >。田中訳は「二百フィートほど下の谷底で」となっている。さっきの二百フィートに引きずられたのだろう。清水訳は「百フィート下の谷底に」。村上訳は、さっきの大ざっぱな換算とは異なり、今度は「三十メートルばかり下で」と細かく刻んでいる。

やけにあっけない幕切れである。『湖中の女』は、最後の謎解きの場面で、関係者一同が集まり、探偵役が長広舌をふるって真犯人を暴くという謎解きミステリのスタイルを踏襲した、ハードボイルドらしからぬ作風になっている。作品の中を流れる時間は、それまでの長篇と比べれば極端に短い。その割に移動距離が長いのは、もともと別の作品だったものを作り変えて一本の長篇にしたからだ。

田口俊樹氏による新訳が出て、久しぶりに『長い別れ』を読み返したが、『湖中の女』のマーロウとは、ずいぶん感じがちがう。『長い別れ』のマーロウはハードボイルドのヒーローにしてはやや感傷的で熱くなりすぎている。その点『湖中の女』のマーロウはクールで、他者との間に距離を置いている。作者は、この作品を仕上げるのに時間がかかったことを体調や戦争のせいにしているが、仕上げに手こずったことで、作品との間に距離感が生まれたのだろう。そのことが作品に村上氏のいうデタッチメントの雰囲気を与えている。