marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

四冊の『長い別れ』を読む

“count the spoons”は「スプーンの数を数える」でいいのか?

【訳文】

ティファナからの長くてうんざりする帰り道は、州内でもっとも退屈なドライブのひとつだ。ティファナには何もない。あそこで人が欲しがるのはドルだけだ。子どもが車にすり寄ってきて、ものほしげな眼を大きく開き「十セントください、ミスタ」と言う。次に出るのは姉を売りつけようとする文句だ。ティファナはメキシコではない。国境の町はどこも同じだ。港町がどこも同じであるように。サンディエゴ? 世界で最も美しい港の一つだが、そこにあるのは海軍と漁船だけだ。もっとも、夜は妖精の国になる。波のうねりは老女の歌う賛美歌のように穏やかだ。とはいえ、マーロウは家に帰って後始末をしなくてはならない。

北への道は、水夫の囃し歌のように単調だ。町を抜け、丘を下り、海岸沿いを走り、町を抜け、丘を下り、海岸沿いを走る。

家に戻ったのは二時だった。彼らは黒っぽいセダンの中で私を待っていた。警察の標識はなく、赤色灯もなく、アンテナは二本立っていたが、だからといって警察の車とは限らない。階段を半分ほど上ったところで、彼らは車から出て大声で私に呼びかけた。お定まりのスーツを着たお定まりの二人組、お定まりの悠揚迫らない態度だ。まるで世界は息を凝らして、彼らが何を命じるか、待っているべきだと思っているかのように。

「あんたがマーロウか? 少し話がしたい」

男は私にちらっとバッジを見せた。害虫駆除業者のバッジだったとしても私にはわからなかった。灰色がかった金髪で、気難しそうな男だった。パートナーの方は背が高く、ハンサムでこざっぱりしているが、底意地が悪そうで、教養のあるならず者というところだ。二人とも警戒し、何かを待ち構える眼つきをしていた。辛抱強く注意深い眼、冷やかに人を見下したような眼、お巡りの眼だ。彼らはそれを警察学校の卒業パレードで手に入れるのだ。

「セントラル管区殺人課、グリーン部長刑事だ。こっちはデイトン刑事」

私はそのまま上に上がってドアの鍵を開けた。大都市のお巡りと握手してはならない。親しくするにも限度がある。

ふたりは居間の椅子に腰を下ろした。私は窓を開けて風を入れた。グリーンがしゃべった。

「テリー・レノックスという男を知ってるだろう?」

「たまに、いっしょに酒を飲む。エンシノに住んでる。金持ちと結婚したんだ。そこに行ったことはない」

「たまに、というのはどれくらいの頻度だ?」とグリーンは言った。

「曖昧さを意味する表現さ。そういう意味で言ったんだ。週に一度のこともあれば、ふた月に一度のこともある」

「彼の妻に会ったことは?」

「一度だけ、ちらりとね、結婚する前のことだ」

「彼に最後に会ったのはいつ、どこでだ?」

私はサイド・テーブルからパイプを手にとり、煙草をつめた。グリーンは私のほうにぐっと身を乗り出した。背の高いほうはずっと後ろに引っ込んで、赤い縁のついたメモ用箋にボールペンを構えていた。

「ここで私が『これは一体どういうことだ?』と言う。そこであんたがこう言うんだ。『質問するのはこっちだ』とね」

「わかってるなら話が早いよ、な?」

私はパイプに火をつけた。煙草は少ししけっていた。ちゃんと火をつけるのに時間がかかりマッチを三本も使った。

「時間はある」グリーンが言った。「だが、待ってる間にほとんど使ってしまった。だからさっさとすまそう、ミスタ。あんたが何者かはわかってる。我々が食欲増進のためにここまで足を運んだわけじゃないことくらいわかってるだろう」

「ちょうど考えていたところだ」私は言った。「ヴィクターの店にはよく行ったね。グリーンランタンとブル&ベアにはあまり行かなかった。ブル&ベアはサンセット大通りの端にある店で、英国の田舎の宿のように見せようとしていて――」

「時間稼ぎはやめろよ」

「誰が死んだんだ?」私は訊いた。

デイトン刑事が口をはさんだ。高飛車で、知ったふうな、俺を相手にふざけた真似をするんじゃない、とでも言いたげな声だった。「質問に答えるんだ、マーロウ。我々はお定まりの捜査をしているだけだ。あんたはそれだけ知ってりゃいい」

おそらく疲れていらついてたんだろう。少々後ろめたさを覚えていたのかもしれない。いずれにせよ虫の好かない男だった。カフェテリアの向こう側にいるのを見たら、わざわざ足を運んでもぶん殴りたくなるやつだ。

「寝言は寝て言え」私は言った。「そんな台詞は少年課に回されたときのために取っておくんだな。まあ、子どもにだって笑い飛ばされるだろうが」

グリーンは含み笑いをした。デイトンの顔にはこれといった変化は見られなかったが、突然十年は老け、二十年分は意地悪くなったように見えた。鼻を通る息が微かに口笛のような音を立てた。

「彼は司法試験に受かってる」グリーンは言った。「デイトンをからかったりしないほうが身のためだ」

私はゆっくりと立ち上がり、本棚に向かった。カリフォルニア州刑法の本を取り出し、デイトンに差し出した。

「質問に答えなければならない、と書いてある個所を探してくれないか?」

彼はじっとこらえていた。私を殴る気満々で、それはどちらもわかっていた。しかし、ここは機会を待つつもりらしい。自分が内規に違反した場合、グリーンが口裏を合わせてくれるかどうか、自信が持てなかったのだ。

彼は言った。「すべての市民は警察に協力しなければならない。あらゆる方法で、時には行動によっても、特に警察が必要と考える場合、自分に罪科が及ばない限り、質問には答えなければならない」そう言う彼の声は硬く、明るく、滑らかだった。

「そんなふうにことがうまく運ぶのは」と私は言った。「たいてい直接的、あるいは間接的な脅迫の過程を経ているからさ。法律上、そのような義務は存在しない。誰も警察に何も言わなくていいんだ、いつ、いかなる場合でも」

「いいからやめろ」とグリーンはしびれを切らして言った。「あんたは知っててはぐらかしにかかってる。座れよ。レノックスの妻が昨夜殺された。エンシノにある彼らの邸のゲストハウスで。レノックスは行方をくらました。とにかく見つからない。というわけで、我々は殺人事件の容疑者を捜している。これで満足かね?」

私は本を椅子に放り投げ、テーブルをはさんでグリーンの向かいのカウチに戻った。「で、どうして私のところに来たんだ?」と私は訊いた。「私はその家に近寄ったこともないのに。さっきそう言ったはずだ」

グリーンは両腿を上下に撫でさすり、黙ってにやりと笑った。デイトンは椅子の中で動かなかった。彼の眼は私を食い入るように見ていた。

「彼の部屋にあったメモ用箋に、この二十四時間内に書かれたと思われるお宅の電話番号があったからだ」とグリーンは言った。「日付入りのメモ用箋で、昨日の分は破られていたが、今日のところに跡が残っていた。彼がいつあんたに電話したのか知らないし、彼がいつ、どこに行ったのかもわからない。我々としては、当然あんたに訊くことになる」

「なぜゲストハウスなんだ?」と私は訊いた。答えが返ってくるとは思わなかったが、彼は答えた。

彼は顔を少し赤らめた。「彼女はよくそこに行っていたようだ。夜中に。客が来るんだ。木立ちを通して明かりがつくのを使用人が見ている。車がやってきては出てゆく。時には夜遅く、ときにはかなり遅くまで。我慢も限界だったんだろうよ。とぼけるのはよせ。レノックスは我々の手の内にある。彼はそこへ午前一時ごろに行った。執事がたまたま見ていた。彼は二十分ばかりしてひとりで出てきた。その後は何事もなかった。明かりはついたままだった。今朝、レノックスはいなかった。執事がゲストハウスに行った。女は人魚みたいに裸でベッドに横たわっていたんだが、一言言っておくと執事には誰だか見分けがつかなかった。実のところ、顔がなくなってたんだ。ブロンズの猿の彫像でぶっ叩かれていたんだ」

「テリー・レノックスはそんなことはしない」と私は言った。「たしかに彼女は浮気していた。よくあることだ。今に始まったことじゃない。彼らは離婚してまた一緒になった。彼がそれで幸せになったとは思えないが、どうして今になって馬鹿な真似をしなきゃならない?」

「それは誰にもわからない」グリーンは辛抱強く言った。「そういうことはしょっちゅう起きる。男でも女でも。ずっと耐えて、耐えて、耐えてきて、突然耐えられなくなる。おそらく本人だってなぜ自分が、なぜ特にその時点でブチ切れたのかわからないだろう。いずれにせよ、そいつはブチ切れて、誰かが死んだ。で、我々の出番となった。だからあんたに訊いてるんだ。簡単な質問だ。とぼけるのはよせ。さもないと署に来てもらうことになる」

「こいつはしゃべりませんよ、部長」とデイトンは冷やかに言った。「こいつは法律書を読んでいる。法律書を読むようなやつは、法律が本のとおりに存在すると考えている」

「おまえはメモだけしてりゃいい」とグリーンは言った。「話に口をはさんでくるな。上手にメモできたら、警察の音楽会で『マザー・マクリー』を歌わせてやろう」

「それはないでしょう、部長。こう言っては何ですが、これでもあなたの階級に敬意を表しているんです」

「喧嘩なら、二人でやってくれ」と私はグリーンに言った。「そいつが倒れかけたら、私が受け止めてやるよ」

デイトンはメモ用箋を置き、その横にボールペンをたいそう注意深く置いた。彼は眼を明るくきらめかせて立ち上がった。彼は歩いてきて私の正面に立った。

「立てよ、お利口さん。大学出だからといって、おまえみたいなクズに笑いものにされて黙っていると思うなよ」

私は立ち上がりかけた。が、ちゃんと立ち上がる前に殴られた。きれいな左フック、そしてクロスが入った。ベルが鳴ったが、ディナーを告げる合図ではなかった。私はどすんと腰を下ろし、頭を振った。デイトンはまだそこに立ったままだった。微笑を浮かべていた。

「もう一丁やろうぜ。彼は言った。「あんたは用意ができてなかった。ちゃんとしたやり方とは言えない」

私はグリーンを見た。彼は親指を見ていた。さかむけの研究でもしているみたいに。私は動かず、物も言わず、彼が目を上げるのを待っていた。もし私が立ち上がったら、デイトンはまた殴るだろう。どうせまた殴られるにしても、もし私が立ち上がって、彼が私を殴ったなら、私は彼を叩きのめすだろう。彼は適切な場所にパンチを打てるボクサーであることを証明してみせたが、私を打ちのめすには多くのパンチが必要だからだ。

グリーンはいかにも気のなさそうに言った。「いい仕事だ。ビリー坊や。おまえは相手の思うつぼにハマったんだよ。この馬鹿たれが」

それから顔を上げて穏やかに言った。「もう一度、念のために訊く、マーロウ。最後にテリー・レノックスに会ったのはどこだ。どんなふうにして、何を話した。そして、さっきどこから帰ってきた。返事はどっちだ?」

デイトンはゆったりとした立ち姿で、きれいなバランスを保っていた。彼の目には柔らかな甘い輝きがあった。

「相手の男は?」私は彼の質問を無視して言った。

「相手の男って、何のことだ?」

「ゲストハウスのベッドの中だ。素っ裸で。まさかソリティアをするために彼女がそこまで行ったと思ってるわけじゃあるまい」

「そいつは後だ。亭主を捕まえてからになる」

「なるほどね。すでにカモがいるのだからわざわざ面倒をかけることはない、という訳か」

「話さないなら、連れて行かなければならないな、マーロウ」

「重要参考人として?」

参考人だって、馬鹿なことを言っちゃ困る。容疑者としてだよ。殺人の事後従犯容疑。容疑者の逃亡幇助。あんたはやつをどこかへ逃がした。これは俺の推測だが、今のところそれで充分だ。ここのところ、うちの課長は荒っぽいぞ。規則は知ってるんだが、忘れっぽいんだ。あんたにとっちゃさぞ不幸なことだろう。どんな手を使ってでも我々はあんたの供述をとる。あんたが口をつぐめばつぐむほど、ますますあんたの話が聞きたくなるんだよ」

「そいつにとっちゃ戯言です」とデイトンは言った。「そいつは法律書を読んでるんだ」

「誰にとっても戯言だろうよ」とグリーンはおだやかに言った。「それでも効き目はある。なあ、マーロウ。俺はあんたに警告の笛を吹いてやってるんだ」

「オーケイ」と私は言った。「笛を吹けばいい。テリー・レノックスは友だちだ。彼には今までそれなりの情愛を注いできている。警官にちょっと脅されたぐらいで友情を反故にする気はない。あんたらは彼を犯人だと見ている。たぶん私が聞いた以上に多くをつかんでるんだろう。動機、犯行の機会、それに彼が逃亡したという事実。動機としてはありふれてるが、妻の浮気は今に始まったことじゃない。それはほとんど取り決めの一部だ。そういう取り決めは感心しないが、彼はそういう男でね。少し気が弱くて、事を荒立てることを好まない。そういう男でも、彼女が殺されたことを知れば、自分が警察にとっていいカモであることぐらいは分かる。審問が開かれ、呼ばれたなら、質問に答える用意はある。あんたらに答える必要はない。あんたがいいやつだということはわかってる、グリーン。あんたの相棒がバッジをひけらかす平目野郎であることがわかるのと同様に。もし私を窮地に追い込みたいなら、あいつにもう一発殴らせるといい。あの糞ボールペンをへし折ってやる」

グリーンは立ち上がって悲しそうに私を見た。デイトンはじっとしていた。彼は一発勝負のタフガイだった。一仕事したら、よくやったと自分をねぎらう時間が必要なのだ。

「電話を借りるよ」とグリーンは言った。「しかし、返事は聞くまでもない。あんたはいかれた根性なしだ。とことんむかつく腰抜けだ。そこをどけ」最後のはデイトンに向けたものだ。デイトンは振り返ってもとに戻り、メモ用箋をつかんだ。

グリーンは部屋を横切って電話のところに行き、ゆっくり受話器を持ち上げた。彼の飾らない顔に皺が寄った。長くねちねちと報われることのない小言をきかされてるんだろう。これがお巡りの厄介なところだ。彼らの根性を憎む準備が整ったとき、よりにもよって人間味のあるひとりに出くわすのだ。

警部は言った。しょっ引いてこい、うんと手荒く、と。

私は手錠をかけられた。家探しをしなかったのは、ぞんざいなやり方に思えた。おそらく、海千山千の私のことだから自分に累が及ぶものを置いているはずなどないと考えたのだろう。それは誤りだった。もし彼らがやるべきことをやっていたら、テリー・レノックスの車のキーを見つけていただろう。そして車が見つかれば、遅かれ早かれ車は発見されるはずで、キーが一致すれば、彼が私と一緒にいたことがわかったはずだ。

実は、結局のところ、そんな心配は無用だった。その車はどの警察にも見つからなかった。それは夜中に盗まれ、おそらくエルパソに運ばれ、新しいキーと偽造書類を取り付けられて、最終的にメキシコシティで市場に出されている。お定まりの手順だ。金の大半はヘロインの形で戻ってくる。善隣政策の一環、とごろつき連中は考えている。

【解説】

テリー・レノックスを空港まで送った帰り道。マーロウは退屈なドライブを紛らわすかのように思いにふける。そのパラグラフの末尾にこういう一節が来る。

“But Marlowe has to get home and count the spoons.”

清水訳は「だが、マーロウは家へ帰らなければならないのだ」と例によって後半をカットしている。村上訳は「しかしマーロウは家に戻ってスプーンの数を勘定しなくてはならない」と、直訳している。田口訳は「しかし、不肖マーロウは家に帰らなければならない。眼を離した隙にテリーにスプーンを盗まれなかったかどうか、数を調べなくてはならない」だ。金に不自由しないテリーがスプーンをちょろまかしたりするわけがない。

“count the spoons”(スプーンを数える)というのは、もともと欧米の金持ち、貴族の家からスプーンやフォークがよくなくなることからきている。使用人がこっそり盗んで売り捌くことができるからだ。そうならないように、主人に代わって執事が常に目を光らせている必要がある。心ならずも事件に関わってしまったマーロウとしては、テリーが本当に犯罪を犯していないのか、真偽を確かめる必要がある。サン・ディエゴの夜がいかに魅惑的であろうが、そんなものに気を取られている暇はないのだ。

村上訳のように原文通りにしておいて、脚注で説明するのが穏当だろうが、エンタメ小説でそんな野暮なことはしたくないというのが訳者の気持ちだろう。しかし、田口訳はいただけない。「眼を離した隙にテリーにスプーンを盗まれなかったかどうか、数を調べなくてはならない」ではたとえではなくなってしまう。「スプーンを数える」を使うのなら、それが「もののたとえ」であることが分かるように訳す必要がある。

“Green patted his thighs, up and down, up and down.”

「どうして私のところに来た」というマーロウの質問にグリーンが答える前の仕種だ。清水訳は「グリーンはすね(傍点二字)を何度も叩いて」。村上訳は「グリーンは両膝をぱたぱたと下から上に向けて叩き、上から下に向いて叩いた」。田口訳は「グリーンは自分の両膝を両手で何度も撫でながら」。“thigh”は「大腿部」のことだ。どうしてそれが「脛」や「膝」になるのかがわからない。だが、“pat”に関して言えば、田口訳が正しい。自分の言うことを頭の中でまとめるとき、人が何気なくする動作だからだ。二つの旧訳は字面を追っているだけでその動きがイメージとしてつかめていない。

グリーンの嘲弄に言い返すデイトンの言葉。

"The hell with you, Sarge, if I may say so with proper respect for your rank."

清水訳は「君にそんな口をきかれる覚えはない」だが、これでは立場が逆だ。グリーンは部長刑事で、デイトンは平の刑事だ。村上訳は「そういう言い方はないでしょう、部長刑事。上司じゃなかったら、ただじゃおかないところだ」と、言葉は少々丁寧になっているが、言ってることは穏やかじゃない。田口訳は「余計なたわ言は要りませんから、部長刑事。上司への敬意を込めて一応言っておくと」

“hell with ~”は「(~には)うんざりだ」という意味の決まり文句。“if I may say so”は「こう申しては何ですが、言わせてもらえば、失礼ながら」という意味。大学出で司法試験に受かっているデイトンの言葉遣いは相手に文句を言うときでも、礼に適っている。そう言うと聞こえはいいが、逆に言えば、相手を見下していながらうわべだけは取り繕っている、底意地の悪い男、というデイトンの真の姿が見えるところ。

署に来てもらうというグリーンに「重要参考人として?」と訊いたマーロウにグリーンが返した言葉。

"As a material my foot. As a suspect.”

清水訳は「証人なんかじゃない。容疑者だ」。村上訳は「冗談を言っちゃ困る。容疑者としてだ」。“my foot”は「(相手の言葉に対して)なんてことがあるものか、ばかな」という意味だ。ここは相手の言葉を強く否定するところだ。田口訳は「参考人としてでも容疑者としてでも」と並列に扱っている。参考人と容疑者では大ちがいだ。扱いがちがう。現にマーロウは手錠をかけられるのだから。

“He was a one-shot tough guy. He had to have time out to pat his back.”

じっと動かないデイトンを評してマーロが言う言葉だ。清水訳は例によってここを端折っている。村上訳は「彼はパンチを一発相手に入れたら、タイムをとって、よくやったと自分をねぎらうことを必要とするタイプなのだ」。“pat on the back”は「(背中をポンポン叩いて)上出来だと褒めたたえる」ことをいう。田口訳は「一発決めたら、あとは休んで、よくやったと肩を叩いてもらう時間が必要なタイプなのかもしれない」だ。受動態ではないので、ここは自分で自分によくやったと褒める、と取るべきだろう。

“You're a sick chicken, Marlowe. A very sick chicken.”

話そうとしないマーロウに業を煮やしてグリーンが言う言葉だ。清水訳は「逃げられないぞ、マーロウ」と意訳している。村上訳は「「まったく厄介な男だな、マーロウ。とんでもない手間をかけてくれる」。田口訳は「マーロウ、あんたはほんとにいかれてるよ。とことんいかれてる」。“chicken”は誰でも知っている通り「臆病者、意気地なし」を意味する俗語で、これをどうして「厄介な」とか「いかれてる」と訳すのかがわからない。いい警官役のグリーンのイメージを悪くしないためだろうか。ただの「チキン」ではなく、“sick chicken”と言ってるわけで、一つひねりがきかされているところがミソ。

“his plain face creased with the long slow thankless grind.”

電話しているときのグリーンの顔について触れた個所。清水訳は「あまり浮かない顔つきだった」とあっさりしたものだ。村上訳は「彼の無骨な顔は、長々と続く容赦のない叱責を受けて、深い皺を刻んだ」。田口訳は「ねぎらいのことばなど一切ない、ねちねちとした小言が長々と続いているのだろう、地味な顔に皺ができた」。“plain”は「明らかな、ありのままの、率直な」という意味の形容詞だ。「無骨な」、「地味な」もまちがいではないが、デイトンとちがって、自分を飾らないグリーンという刑事のうわべを取り繕うとしないところに共感したマーロウの言葉としては今ひとつだ。