marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

四冊の『長い別れ』を読む

5

【訳文】

銃は私に向けられていたわけではなく、ただ握られていただけだった。中位の口径の外国製オートマティックで、コルトやサヴェージでないのは確かだ。憔悴して蒼ざめた顔に傷痕、立てた襟、目深にかぶった帽子、銃を手にしたその姿は、まさに昔のギャング映画から抜け出してきた窮地に立つ男そのものだった。

「ティファナまで車で送ってほしい。十時十五分発の飛行機に乗りたいんだ」と彼は言った。「パスポートもヴィザも揃ってる。準備は万端だが足がない。わけあって、ロスアンジェルスから電車もバスも飛行機も使えないんだ。タクシー代としては五百ドルが頃合いか?」と彼は言った。

私は戸口に立ったまま、彼を入れるために脇にどきもしなかった。「五百ドルに銃のおまけつきか?」私は訊いた。

彼はぼんやりとそれを見おろし、それからポケットに放り込んだ。「万一のときの用心さ」と彼は言った。「きみのためだ。ぼくのためじゃない」

「まあ、入れよ」と私が脇にどくと、彼はさも疲れ果てたといわんばかりに突進し、そのまま椅子に倒れ込んだ。

居間はまだ暗かった。家主が伸び放題にしている灌木が窓を覆っているせいだ。スタンドの灯りをつけ、煙草を一本ねだり、火をつけた。私は彼を見下ろし、ただでさえ乱れた自分の髪をさらにくしゃくしゃにした。そして、使い古しのくたびれた笑みを顔に浮かべた。

「こんなご機嫌な朝に眠りこんでいるなんて、我ながらどうかしてたよ。十時十五分だって? それなら、時間はたっぷりある。キッチンに行こう。コーヒーでも淹れるよ」

「困ったことになったんだ、探偵さん」私を「探偵」と呼んだのはそのときが初めてだった。しかし、その呼び名は、彼の登場の仕方、身なり、銃も何もかも含めて、いかにもその場に似つかわしいものだった。

「今日はいい日になりそうだ。そよ風が吹いてる。通りの向こうの見事なユーカリの古木が互いに囁き交わしているのが聞こえるだろう。ワラビーが枝の下を飛び回り、コアラがお互いにおんぶし合っていた、オーストラリア時代の昔話をしてるんだ。そう、君が何か困っているのは大体察しがついたよ。コーヒーを二、三杯飲んだら、その話をしよう。起き抜けは頭の働きが悪くてね。まずはミスタ・ハギンズとミスタ・ヤングの厄介になろう」

「なあ、マーロウ、そんなことを言ってる場合じゃ――」

「なに、心配は無用だ。ミスタ・ハギンズとミスタ・ヤングは最高の二人だ。彼らはハギンズ・ヤング・コーヒーを作ってる。それは彼らのライフワークであり、誇りであり、喜びだ。近いうちに、彼らがしかるべき評価を得られるようになるだろう。今のところ彼らが稼いでいるのは金だけだ。それで彼らが満足するわけがない」

そんな軽口を叩いて、私は彼をそこに残し、奥のキッチンに行った。湯を沸かし、棚からコーヒーメーカーを下ろした。 ロッドを濡らし、コーヒーの粉を量って上の部分に入れた時には湯が沸いていた。 私は何とかいう下半分に湯を注いで火にかけた。 そこに上の部分を取り付け、ひねって固定した。

そのときには彼は私のところに来ていた。しばらく入り口のドアに凭れ、それからそろそろと朝食用の席に向かい、椅子に座った。彼はまだ震えていた。私は棚からオールド・グランダッドのボトルを取り出し、大きなグラスで彼に一杯注いだ。大きなグラスが必要なことは分かっていた。それでも口に運ぶのに彼は両手を使わなければならなかった。彼は酒を飲み込むと、音立ててグラスを置き、シートの背もたれにぶつかるように身を預けた。

「もう少しで気を失うところだった」と彼はつぶやいた。「一週間は寝ていない気がする。昨夜は一睡もしていない」

コーヒーメーカーが沸騰しはじめていた。火を弱くして、水が上がっていくのを見た。湯がガラス管の底に少し溜まっていたので、そこを乗り越えるに足るだけ火を強くして、すぐにまた弱くした。コーヒーをかき混ぜて蓋をした。タイマーは三分間に合わせた。几帳面な男なのだ、マーロウというのは。何をもってしても、彼のコーヒーを淹れる手順を邪魔することはできない。自暴自棄になった男が手にする銃でさえも。

私は彼にもう一杯ウィスキーを注いだ。「座っているんだ」私は言った。「黙って、ただ座ってろ」

彼は二杯目のウィスキーを片手で取った。私が急いで洗面所で顔を洗って戻ってきたとき、タイマーのベルが鳴った。火を止めてテーブルの上の麦藁マットにコーヒーメーカーを置いた。なぜ、こんな細かいことに拘るのか。なぜなら、張り詰めた雰囲気の中では、どんな些細なことも芝居めいて、明確な動きとなり、きわめて重い意味を持つからだ。長いあいだやり慣れていて、習慣化されてる行為でも、自動的な動きがすべて、意志による個別の行為になる過敏な瞬間、今がまさにそのときだった。重篤な病から回復し、再び歩くことを習う人のようなものだ。そこには、できて当然なことなど何ひとつない。

コーヒーがすっかり下に落ち、いつものように大騒ぎで空気が流れ込み、ひとしきり泡立ってから静かになった。私はコーヒーメーカーの上の部分を外し、カバーの受け口にある水切りの上にセットした。

二つのカップにコーヒーを注ぎ、彼のカップにはウィスキーを加えた。「君にはブラックだ、テリー」自分のカップには角砂糖を二個とクリームを少し入れた。そろそろ張り詰めていた気が緩み始めていた。どうやって冷蔵庫を開けてクリームの容器を取り出したか、覚えていなかった。

彼の向かいに腰を下ろした。彼は動いていなかった。朝食用コーナーの隅に凭れて固まっていた。それから、突然テーブルに突っ伏し、すすり泣き始めた。

私が手を伸ばしてポケットから銃を取り出しても、彼は全く気に留めなかった。モーゼルの七・六五ミリ、美しい銃だ。匂いを嗅いでみた。弾倉を引き出した。フル装填されている。 薬室は空いたままだ。

彼は顔を上げ、コーヒーを見て、ゆっくりと飲んだ。こちらは見なかった。「誰も撃っていないよ」と彼は言った。

「ああ、とにかく最近のことではない。この銃は掃除する必要があるしね。これで誰かを撃ったとは考え難い」

「説明させてくれ」と彼は言った。

「ちょっと待った」 私は熱いコーヒーをできる限り急いで飲んで、カップにお代わりを注いだ。「こういうことだ 」と私は言った。「話の中身に気をつけてくれ。もし本当にティファナまで乗せていってほしいのなら、言ってはいけないことがふたつある。ひとつは......聞いてるのか?」

彼はかすかにうなずいた。ぼんやりとした目で私の頭越しに壁を見ていた。今朝は傷跡がいやに青黒かった。肌は死んだように白いのに、傷跡だけは同じように光っているように思えた。

「ひとつは」私はゆっくり繰り返した。「きみがもし犯罪を ―― 法が犯罪と呼ぶもの、私がいうのは重大な犯罪のことだが ―― 犯したのなら、私に話さないでくれ、ということだ。ふたつ目は、もしきみがそのような犯罪が行われたことを知っていたとしても、私に話さないでくれ。ティファナまで送ってほしいのなら。わかったかな?」

彼は私の眼を見た。焦点は合っていたが、生気がなかった。顔色はまだ悪かったが、コーヒーを飲んだことで落ち着いていた。私は彼にコーヒーを注ぎ足し、前と同じようにウィスキーを加えた。

「困ったことになっていると話したね」彼は言った。

「聞いたよ。何で困っているかは知りたくない。免許をとりあげられたら飯の食い上げだ」

「銃にものを言わせるという手もある」彼は言った。

私はにやりとしてテーブル越しに銃を押しやった。彼は銃に目を落としたが、触りはしなかった。

「銃にものが言えたとしても、ティファナまでは無理だよ、テリー 。国境も越えられないし、飛行機のタラップも上れない。商売柄、銃には慣れてる。銃のことは忘れよう。銃で脅されたので怖くて言うことを聞いた、なんて警官に言ったりしたら、とんだお笑い種だ。もちろん、警察に話すようなことがあるのかどうか、私は知らない訳だが」

「聞いてくれ」と彼は言った。「誰かがドアをノックするのは正午か、それ以降になるだろう。使用人は彼女が遅くまで寝てるとき邪魔されるのを嫌うことを知っている。しかし、さすがに正午ともなると、メイドがノックして入ってくる。彼女は部屋にいない」

私はコーヒーを啜って、黙っていた。

「メイドはベッドが使われていないことに気づくだろう」彼は続けた。「それで、ほかを捜そうと思う。母屋から少し離れたところに大きな客用の離れがある。専用の私道とガレージその他がついている。シルヴィアはそこで一夜を明かした。結局、メイドはそこで彼女を発見することになる」

私は眉をひそめた。 「どんな質問をするか気をつけないとな、テリー。 彼女は家以外のどこかで夜明かしできなかったのか?」

「彼女の服は部屋中に脱ぎ散らかされていた。ハンガーにかけるということを知らないんだ。メイドは彼女がパジャマの上にガウンを羽織った格好で出て行ったと思うだろう。そうなると、行き先は客用の離れしかない」

「そうと限ったものでもないだろう」私は言った。

「客用の離れなんだよ。客用の離れで何が行われているか、使用人たちが知らないとでも思うのか? 使用人というのは何でも知ってるもんだ」

「それで」私は言った。

彼は傷のない方の頬に指を走らせた。赤い筋が残るほど強く。「そして、客用の離れで」と彼はゆっくり続けた。「メイドは見つける――」

「酔っぱらって、ぐでんぐでんで、へべれけになったシルヴィアを」と私は厳しく言った。

「ああ」彼は考えた。大いに考えを巡らせた。「もちろん」と言葉を継いだ。「そういうことになるだろう。シルヴィアは大酒飲みじゃない。限界を越えたら、ひどい荒れようだ」

「話はそこで終わりだ」と私は言った。「というか、ほぼ。続きは即興でやらせてくれ。このあいだいっしょに飲んだとき、私は少々きみに手厳し過ぎた。覚えてるだろうが、きみをひとり置いて店を出た。きみは私をひどく苛立たせたんだ。今にして思えば、きみは災難の予兆を感じながら、何でもないふりをすることで、それを追い払おうとしていたんだろう。パスポートとヴィザは持っているという。メキシコのヴィザを取るには少し時間がかかる。誰でも入国できるわけじゃない。ということは、しばらく前から出国する計画だったことになる。私はきみはいつまで今の暮らしに我慢できるだろう、と思ってた」

「そばにいてやることを義務みたいに感じていたんだと思う。老人が嗅ぎ回らないようにするための隠れ蓑としてだけでなく、いつかぼくが必要になる日が来るかもしれないと。 ところで、夜中に電話したんだが」

「熟睡するたちでね。聞こえなかった」

「そのあとトルコ式の風呂に行ったんだ。二時間ばかりいたかな。蒸し風呂に入り、水に浸かり、ニードルシャワーを浴び、垢すりマッサージを受け、そこから電話を二、三本かけた。ラ・ブレアとファウンテンの角に車を停めて、そこから歩いてきたんだ。この通りに入るところは誰にも見られていない」

「その二本の電話が誰にかけられたものか、知っておくべきかな?」

「一本はハーラン・ポッターにだ。昨日は仕事でパサディナにいて、家にいなかった。捕まえるのに苦労したが、最後には話すことができた。私は彼に、申し訳ないがぼくは出ていく、と話したんだ」そう言ったとき、彼はちらりと脇に目をやり、流し台の上の窓と網戸を覆うテコマの灌木を見た。

「彼は何て言った?」

「残念だ。幸運を祈る。金は必要か」テリーは嘲笑った。「Money、それが彼のアルファベットの最初の五文字だ。金なら充分あると言った。それからシルヴィアの姉に電話した。同じような話だ、それだけだ」

「ひとつ訊いていいか?」私は言った。「その客用の離れに彼女が男といるのを見たことはあるのか?」

彼は頭を横にふった。「覗いてみたことはない。造作もないことだったろう。こそこそしていたわけじゃないから」

「コーヒーが冷めてる」

「もうけっこうだ」

「男と見たら手あたり次第か? にもかかわらず、きみはよりを戻した。確かに彼女がいい女だってことはわかる。それにしても――」

「言ったろう、ぼくは役立たずだと。くそっ、何だって彼女と別れたりしたんだろう? どうしてそのあと彼女に会うたびにぼくは駄目になっていったんだろう? どうして彼女に金を無心せず、浮浪者に転落したりしたんだろう? 彼女は五回結婚している。ぼくを別にしてね。彼女がちょっと指を曲げさえすれば、全員が戻ってくるだろう。それは百万ドルのためだけじゃないんだ」 

「彼女は確かにいい女だよ」と私は言った。私は腕時計を見た。「だが、どうしてまた、ティファナ発十時十五分の便でなきゃいけない?」

「いつでも空きがあるからさ。大型機(コニー)に乗ればメキシコシティまで七時間で行けるのに、ロスアンジェルスからDC3で山越えしようという物好きはいない。それにコニーは私の行きたいところには降りないんだ」

私は立ち上がって流し台に凭れた。「さて、辻褄を合わせよう。話の腰を折らないでくれ。今朝、きみはかなり興奮した様子で私のところにきて、朝早くに飛ぶ飛行機に間に合うようティファナまで送ってくれといった。ご大層にポケットに銃まで忍ばせてね。きみはこう言った。今まで我慢し続けてきたが、昨夜はとうとう堪忍袋の緒が切れた。泥酔した女房が男と一緒にいるところを見たんだ。きみは家を出てトルコ式の風呂に行き、朝まで時間をつぶした。そして、妻の近親者二人に電話をかけ、何をする気かを話した。きみがどこへ行く気か私は知らない。メキシコに入国するのに必要な書類を持っていたが、そのあたりの事情も私には関係ない。友だちに頼まれて、よく考えもせず引き受けたまでのことだ。むげに断ることもできないし、金をもらってもいない。車はあるが、気が動転していて自分では運転できないという、それもきみの方の問題だ。きみは感情的な人間で、戦場でひどい負傷をしている。ところで、きみの車を拾って、どこかのガレージに保管しておこうと思うんだが」

彼は服の中に手を入れ、革のキーホルダーを取りだし、テーブル越しに押して寄こした。

「どんな風に聞こえるかな?」と彼は訊いた。

「誰が聞くかによるだろうな。話はまだ終わっていない。きみは何も持っていかなかった。今着てる服と義父からもらった幾許かの金以外は。彼女がくれたものはすべて置いてきた。ラ・ブレアとファウンテンの角に停めたあの美しいマシンも含めて。きみは可能な限り、きれいに消え去りたかった。わかった。その話を信じよう。髭を剃って服を着がえる」

「なぜそこまでしてくれるんだ、マーロウ?」

「髭を剃るあいだ、酒でも飲んでいてくれ」

私は朝食用コーナーの隅に背中を丸めて座っている彼をそこに残して部屋を出た。彼はまだ帽子をかぶり、薄手のコート姿のままだったが、前よりは生気が戻っていた。

私は浴室に行き、髭を剃った。寝室に戻ってネクタイを締めていたとき、戸口に彼が立った。「念のため、カップは洗っておいた」と彼は言った。「考えたんだが、きみは警察に電話した方がいいんじゃないか」

「自分でしたらどうだ。私は警察に何も言うことはない」

「ぼくにそうしてほしいのか?」

私はきっと振り返り、彼を睨みつけた。「いい加減にしろ!」私はほとんど怒鳴りつけた。「何だって君はものごとをそのままにしておけないんだ?」

「すまない」

「そりゃ、すまないだろうさ。きみのようなやつは何かあると「すまない」を連発するが、何かしてしまった後で悔やんでも、取り返しはつかないんだ」

彼は踵を返して廊下を居間の方に歩いていった。

私は身繕いを終え、家の裏手の戸締りをした。居間に入ると、彼は椅子に座ったまま、頭を片側に傾げて眠っていた。顔に血の気がなく、疲労のせいで全身がだらんとして哀れを誘った。肩に触れると、ゆっくり目を覚ました。まるで、彼のいるところと私のいるところが遠く隔たってでもいるかのように。

彼が気を取り戻したとき、私は言った「スーツケースはどうする? 白い豚革の上物がクローゼットの棚の上に置かれたままだが」

「あれはからっぽだ」彼は興味なさそうに言った。「それに目を引く」

「手ぶらの方が目を引くだろう」

寝室に戻ってクローゼットの中の踏み台に乗って、高い棚から白い豚革のスーツケースを引っ張り出した。頭の上の天井に四角いはね蓋があったので、それを押し上げて、できる限り手を伸ばして、埃だらけの梁か何かの後ろに彼の革のキーホルダーを落とした。

スーツケースを持って降り、埃を払い、いくつかのものを押し込んだ。一度も着ていないパジャマ、歯磨き粉、予備の歯ブラシ、安物のタオルと手拭きを二枚、綿のハンカチのパッケージ、十五セントのシェービングクリームのチューブ、替え刃のパッケージについてくる剃刀ひとつ。どれも未使用で、印ひとつなく、彼の他の持ち物の方が上等だということを除けば人目を引くこともない。私は包装紙に包まれたままのバーボンのパイント瓶も加えた。スーツケースに鍵をかけ、鍵穴のひとつに鍵を挿したままにして、玄関まで運んだ。彼はまた眠ってしまった。私は彼を起こさずにドアを開け、スーツケースをガレージまで運び、コンヴァーティブルの運転席の後ろに入れた。車を出してガレージの鍵をかけ、階段を上がって彼を起こした。戸締りをすませて出発した。

スピードは出したが、違反切符を切られるほどは出さなかった。道中、ほとんど話をしなかった。食事にも寄らなかった。時間がなかったのだ。

国境の役人は何も言わなかった。ティフアナ空港のある風の強い高台の上、事務所の近くに車を停め、テリーが搭乗券を買うあいだ、ただ座っていた。DC3のプロペラは、エンジンを暖めるために、すでにゆっくりと回転していた。グレーの制服を着た男っぷりのいい長身のパイロットが四人組のグループとおしゃべりしていた。一人は身長六フィート四インチくらいで、銃のケースを持っていた。その横にスラックスをはいた娘と小柄な中年男と白髪の女がいた。女の背が高いので一緒にいる男が貧相に見えた。明らかにメキシコ人だとわかる人々が三、四人、同じように立っていた。それが乗客全員のようだった。タラップはドアのところにあったが、誰も急いで乗り込もうとしない。すると、メキシコ人の乗務員が階段を下りてきて、待機するように立った。スピーカー等の設備はないらしい。メキシコ人たちは飛行機に乗り込んだが、パイロットはまだアメリカ人とおしゃべりしていた。

私の隣には大きなパッカードが停まっていた。私は車を降りて、所定位置にある登録証をちらっと覗き見た。いつか私も余計なことに首を突っ込まないことを学ぶかもしれない。顔を引っ込めると、長身の女性がこちらを見つめていた。

そのとき、テリーが埃っぽい砂利道をこちらへ歩いてきた。

「もう大丈夫だ」と彼は言った。「ここでお別れを言うよ」

彼は手を差し出した。私はそれを握った。彼はかなり調子よさそうに見えたが、ただ、疲れていた。どうしようもなく疲れていた。

私は豚革のスーツケースをオールズから取り出して砂利の上に置いた。彼は怒ったようにそれを見つめた。

「それはいらない、と言ったはずだ」彼は吐き捨てるように言った。

「旨いバーボンのパイント瓶 が入ってる、テリー。パジャマもある.。それにどれも何の特徴もない。持っていきたくなければ預けりゃいい。捨てたっていい」

「訳があるんだ」彼は頑なに言った。

「こっちにもある」

彼は唐突に微笑んだ。スーツケースを手に取ると、空いた手で私の腕をぎゅっと握った。「オーケー、相棒。きみがボスだ。それと覚えておいてくれ、難しいことになったときは何でもきみ次第だ。きみはぼくに何の借りもない。我々は時々一緒に仲良く酒を飲んだが、ぼくは自分のことをしゃべり過ぎた。コーヒーの缶に百ドル札を五枚入れておいた。怒らないでくれ」

「そういうことはしないでほしかった」

「持ち金の半分も使えそうにないんだ」

「元気でな、テリー」

二人のアメリカ人はタラップを上っていた。浅黒い顔のずんぐりした男が事務所のドアから出て来て、手を振って指差した。

「乗れよ」と私は言った。「君が殺したんじゃないことはわかってる。だからここにいるんだ」

彼は身構えた。全身がこわばった。彼はゆっくりと背を向け、そして振り返った。

「すまない」と彼は静かに言った。「だけど、きみはまちがっている。ぼくはゆっくり飛行機に向かって歩いて行く。きみにはぼくを止める時間がたっぷりあるよ」

彼は歩いた。私は彼を見ていた。 事務所の入り口にいる男は待っていたが、いらついてはいなかった。メキシコ人はめったにいらついたりしない。彼は手を伸ばして豚革のスーツケースを軽く叩き、テリーに向かってにっこり笑った。それから彼は脇に立ち、テリーはドアを通り抜けた。しばらくして、テリーは反対側のドアから外に出てきた。彼はまたゆっくりと、砂利の上を歩いてタラップに向かった。彼はそこで立ち止まり、私のほうを見た。彼は合図も手も振らなかった。

私も手を振らなかった。それから彼は飛行機の中に入り、タラップははずされた。

私はオールズに乗り込み、エンジンをかけ、バックしてターンし、駐車場を半分ばかり横切った。長身の女とずんぐりした男はまだ飛行場にいた。女はハンカチを振っていた。飛行機は砂埃を巻き上げながら飛行場の端まで地上走行を始めた。一番奥で旋回し、エンジンが轟音を立てて回転し、飛行機はゆっくりと徐々に速度を上げながら前進し始めた。

背後に雲のような砂埃を巻き上げ、飛行機は離陸した。私は、機体が強い風の中をゆっくりと上昇し、南東の雲ひとつない青空に消えていくのを見守った。

それから、駐車場を後にした。国境検問所の係官は誰も私の顔を見ようともしなかった。私の顔など時計の針くらいの値打ちしかないのだろう。

【解説】

早朝、マーロウの家を訪れたときのテリー・レノックスの様子は次のように描写される。

With the white tired face and the scars and the turned-up collar and the pulled-down hat and the gun he could have stepped right out of an old fashioned kick-em-in-the-teeth gangster movie.

“-em”は“them”の省略形“’em”のことだろう。“kick someone in the teeth”は「(人を)ひどい目に合わせる」という意味だ。清水訳はこれをスルーして「むかしの(ギャング映画)」。村上訳は「まるで一昔前の、非情が売り物の(同前)」。田口訳は「まさに暴力満載の(同前)」と“old fashioned”をトバしている。要は、頬の古傷に加えて、人目を気にする姿や手にした銃からの連想で、テリー・レノックスが昔のギャング映画に出てくる「ひどい目に合わされた」男のように見えたということだ。

マーロウがコーヒーを淹れる手順を詳細に述べた後、次のパラグラフが来るのだが、どうしたことか、田口訳はこの部分が抜け落ちている。最新訳で、これが定本になると思ったが、欠落部分があってはそれも難しかろう。

“The coffee was all down and the air rushed in with its usual fuss and the coffee bubbled and then became quiet. I removed the top of the maker and set it on the drainboard in the socket of the cover.”

たいしたことではないのだが、清水訳は後半を「私はコーヒーわかしの上の部分をはずして、台の上にのせた」。村上訳は「私はコーヒーメーカーの上の部分を外し、水切り台の上に置いた」となっている。サイフォン式コーヒーメーカーの上の部分には蓋がついていて、蓋を裏返すと、上の部分(漏斗)のガラス管を立てておくための水切り台(ソケット)になっている。できあがったコーヒーをカップに注ぐためにスタンドを持つとき、上の部分を置く必要があるからだ。両氏の訳では“the socket of the cover”が抜けているので、それがわかりにくい。

マーロウがテリー・レノックスの拳銃を調べているところにこうある。

“It was a Mauser 7.65, a  beauty. I sniffed it. I sprang the magazine loose. It was full. Nothing in the breach.”

清水訳は「七・六五のモーゼル。みごとな拳銃だった。私は銃口を嗅いでみた。弾倉を調べた。弾丸は一発も撃たれていなかった」。“Nothing in the breach”をあっさりトバしている。村上訳は「モーゼルの七・六五ミリ、美しい拳銃だ。匂いをかいでみた。マガジンもはじき出した。弾丸はフルに装填されている。乱れひとつない」。「乱れひとつない」というのはどういう意味か分からない。銃で「ブリーチ」といえば銃口の反対側にあたる「銃尾」のことだ。

田口訳は「ワルサーの七・六五ミリ口径。美しい銃だ。においを嗅いでみた。最近撃たれた様子はなかった。弾倉を取り出した。フル装填されていたが、薬室に弾丸(たま)は送り込まれていなかった」と「ブリーチ」ではなく「チェンバー(薬室)」と訳されている。薬室は弾倉から弾薬が送り込まれてくる場所で、銃身の後方にある空間。問題は「モーゼル」が「ワルサー」になっていることだ。

田口氏は、これまで言われてきたチャンドラーが銃器に詳しくなく、モーゼルとワルサーを取り違えたという説に従って「僭越ながら邦訳では原文に手を加えさせてもらった」と「訳者あとがき」で述べている。ハーラン・ポッターとバーニー・オールズは、はっきり“P.P.K”と言っているので、それらを「ワルサー」に変えるのは理解できる。ただ、この時点でテリーが手にしていた銃の来歴は明らかではない。“P.P.K”と明示されていない「モーゼル」を「ワルサー」にする必要があるかどうか。というのも、モーゼルにも“HSc”という、七・六五ミリのオートマティックがあるからだ。

少し落ち着きを取り戻したテリーにマ-ロウがコーヒーを注ぎ足すところ。

“I poured him some more and loaded it the same way.”

清水訳は「私はまたコーヒーを注いで、前とおなじようにウィスキーを加えた」。村上訳は「私は彼にカップにコーヒーを注ぎ、さっきと同じようにウィスキーを少量足した」とほぼ同じ訳になっている。ところが、田口訳では「私はコーヒーの効果がさらに現れるようにカップに注ぎ足した」と、ウィスキーを抜いてしまっている。“load”は「(コーヒーに酒などの)混ぜ物をする」という意味の俗語。田口氏がこう訳した理由がわからない。

テリー・レノックスが「困ったこと」について話している途中「そして、客用の離れで(略)メイドは見つける――」と言ったところで、マーロウは話を遮り、後を引き取る。

"Sylvia dead drunk, paralyzed, spifflicated, iced to the eyebrows," 

清水訳は「シルヴィアが酔いつぶれているのを見つけるのか」と、例によってカンマで区切られた後の三つをカットしている。村上訳は「飲み過ぎて正体をなくし、あられもないかっこうで文字通りくたばって(傍点五字)いるシルヴィアの姿をね」。田口訳は「シルヴィアがとことん酔っぱらって、あられもない恰好で、人事不省(じんじふせい)になっているのを見つける」だ。

“dead drunk”は「泥酔して、へべれけ、ぐでんぐでん」。“paralyzed”は「麻痺した」の意味だが、「泥酔した(米俗)」の意味もある。“spifflicated”はめずらしい単語で、本来は「打ちのめされた」のように暴力的に扱われたことを意味する言葉だが、アメリカでは「酔っ払った」という意味の俗語だ。そして“iced to the eyebrows”もまた「泥酔」を意味するスラングだ。つまり、マーロウはシルヴィアが泥酔状態にあったということをいろいろな言い方で表現しているだけ。言い換えれば「それ以上言うな」ということだ。

清水氏は、どうせ同じ意味の言葉を並べているだけなのだから、と考えて後を省略したのだろう。村上訳の「あられもないかっこうで」は“spifflicated”(辞書によっては「散らばった」という意味がある)の意訳だろうか。田口訳が村上訳を参考にしているのはまちがいない。その村上訳の「文字通りくたばっている」は、勢いで筆がすべった感がある。「くたばっている」だけなら、「非常に疲れている」という意味とも取れるが、「文字通り」をつけたら「死んでいる」ことになる。

男と見たら見境なしの前妻となぜよりを戻したのか、と問うマーロウにテリー・レノックスが応えるところ。

Why after that did I get stinking every time I saw her?

清水訳では「それから後、彼女に会うたびにいやな気持ちになったのもわからない」村上訳は「そのあと、彼女と顔を合わせるたびに、自分がますます駄目になってゆくように思えたのはなぜだろう?」田口訳は「そのあとどうしてぼくは彼女に会うたび泥酔したのか」田口訳は“stinking”を“stinking drunk”(泥酔)の略だと考えたのだろう。当時のテリーは確かにいつもひどく酔っぱらっていた。

“stink”は「悪臭を放つ」という意味の動詞。“get ~ing”は「〜になる」という意味だから、彼女に会うたびに「悪臭を放つようになる」(評判を落とす)くらいの意味だろう。意味としては村上訳に近いが、「駄目になってゆくように思えた」のではなく、事実駄目になっていったのではないか。原文からはそうとしか読めない。

“Why did I roll in the gutter rather than ask her for money?”

“gutter”は「樋、溝」のことだ。村上訳は「どうして僕はあのとき彼女に金を無心するより、どぶの中で転げ回ることを選んだりしたのだろう」田口訳は「彼女に金を無心するくらいならどぶにはまりこんでいたほうがましだ、などとどうして思ったのか」。「どぶの中」という直訳も悪くはないのだが、“in the gutter”は「どん底に落ちて」という意味のスラング。当時のテリーの有様を思い出してみれば、ホームレス同然だった。清水訳は「なぜ彼女に金を無心しようとしないで、惨めな暮らしをしていたんだろう」と、している。新訳だからといって何もかも変える必要はないのではないか。

出発間際になって、警察に連絡した方がいいんじゃないか、と言い出だすテリーにさすがにマーロウも激昂する。テリーはすぐに"I'm sorry." と言うが、それに対してマーロウが言ったのが次の文句。

 "Sure you're sorry. Guys like you are always sorry, and always too late."

チャンドラーお得意の同じ言葉を重ねて、意味のずれを愉しむレトリックだ。清水訳は「当然だ。君のような人間はいつもすまないといってる。しかもいうのがおそすぎるんだ」。村上訳は「すまないでは収まらないことが世の中にはある。君のような人間はいつだって、手遅れになってからすまながるんだ」。田口訳は「きみもそりゃさすがにすまないとは思ってるだろうよ。きみのようなやつらはみんな始終すまながってる。だけど、いつもそれが遅すぎるんだ」

“you are always sorry”を清水氏は「すまないといってる」と訳すが、村上、田口両氏は「すまながる」と訳している。三氏ともレノックスの"I'm sorry."は「すまない」と訳している。三度連続して使われる“sorry”を最初に「すまない」と訳した以上、そうするしかないと思ったのだろう。しかし、“sorry”には「気の毒だ、残念に思う、後悔する」等の意味がある。“always”とあるからには、その場に応じた遺憾の念があるはずだ。「すまない」にこだわることなく、その場に応じて自在に使い分けるべきだろう。

テリー・レノックスを乗せた飛行機が飛び去るところ。

I watched it lift slowly into the gusty air and fade off into the naked blue sky to the southeast.

田口訳では「私は機体が風の強い空を上昇し、雲ひとつない南西の青空に消えていくのを見送った」となっているが、「南東」の間違いだろう。重箱の隅をつつくようで、あまり言いたくないが、最新訳にこういう単純なミスがあるのは校閲なりなんなりがうまく機能していないのではないか。