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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『ジャック・オブ・スペード』ジョイス・キャロル・オーツ

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人は自分の見たいものだけを見て、見たくないものは見ないで生きているのかもしれない。ごくごく平凡な人生を生きている自分のことを、たいていの人間は悪人だとは思っていないだろう。でも、それは本当の自分の姿なのだろうか。もしかしたら、知らないうちにずっと昔から自分の心や記憶に蓋をして、自分の見たくない自分を、自分から遠ざけ続けてきたのではないだろうか。ふと、そんなことを考えさせられた。

どちらかと言えば苦手な世界を得意とする作家なのに、『邪眼』、『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』で、ハマってしまったジョイス・キャロル・オーツの長篇小説。まあ「とうもろこしの乙女」も、かなり長めの中篇だったから、長篇小説の技量についても疑ってはいない。冒頭、いきなり斧が振り回されるので驚かされるが、次の章からは実に微温的な書きぶりに落ち着いてくるので、ほっとする。だが、これも仕掛けのうちだった。

ニュージャージー郊外の屋敷に妻と二人で暮らす、アンドリュー・J・ラッシュは五十三歳。「紳士のためのスティーヴン・キング」と称される「少しだけ残酷なミステリー・サスペンス小説のベストセラー作家」だ。作品は適度に、不快でも不穏でもない程度の残酷さを持つが、卑猥な描写も、女性差別的なところもない。善意の寄付にも熱心な地元の有名人でもある。そう書けば、ほのぼのとしたストーリーが想像されるが、この作家を知る者なら誰もそんなことは信じない。

アンドリューには秘密がある。大したことではない。「ジャック・オブ・スペード」という別名で、ノワール小説を書いているのだ。ある程度キャリアが安定してきた作家にはよくあることで、「別人格」を作りあげ、全く異なる世界に挑戦したくなるものだ。別人格の作家、ジャック・オブ・スペードは「いつもの私とは違って残酷で野蛮で、はっきりいって身の毛のよだつ作家」である。そのアイデアが浮かぶのは真夜中、奥歯が勝手に歯ぎしりして目を覚ますと、小説のアイデアが浮かんでいるという。

もうお分かりだろう。ロバート・ルイス・スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』に代表される解離性同一性障害をテーマにした作品であることの仄めかしである。ただし、薬品によって別人格に変わるジキル氏とちがい、アンドリューは作家として別人格を作り、その名前で小説を書いているだけのことで、故郷の田舎町に住む有名人としては、血まみれの大量殺人が売り物の「身の毛のよだつ作家」が自分だと知られることは避けたくて家族にも秘密にしている。

その完全な隠蔽がふとしたことで危うくなる。出版社が送ってくるたび、地下室の書棚にしまうはずのジャック・オブ・スペードの新作が、机の上に放置されていて、たまたま帰郷していた娘の目に留まる。それは娘の過去の出来事が素材になっていた。誰も知るはずのない私事をなぜこの作家は知っているのか、娘は父に迫るが、偶然の一致というやつだろうとその場は切り抜けた。

さらに厄介な事件が起きる。ある日裁判所から出廷命令書が届く。地元のC・W・ヘイダーという女性がアンドリューを窃盗の罪で訴えたのだ。身に覚えのないアンドリューはパニックに陥る。第一、何を盗んだというのか。裁判所に電話をしてもらちが明かないので、直接本人に電話すると、その女はアンドリューが自分の書いたものを盗作している、と怒鳴り出した。弁護士に言わせると、その女は過去にスティーヴン・キングその他有名な作家にも同じ訴訟を起こしているという。

アンドリューは弁護士に出廷するには及ばないと言われていたにもかかわらず、のこのこと変装までして裁判所に出かけてゆく。それからというもの、ボサボサ髪をした老女の顔や声が、頭にとりついてしまい、執筆に集中できなくなってしまう。証拠として裁判官が朗読した自分の文章が紋切型でつまらないもののように聞こえてしまったのが原因だ。自分をこんな目にあわせた相手を憎むアンドリューの頭の中で、ジャック・オブ・スペードの声が聞こえだす回数が増えてくる。

自分に危機が起きると第二の人格が目を覚まし、過剰に防衛機制をとる。ここでアンドリューに起きているのがそれだ。温厚篤実で良き家庭人、良き夫を任じていたアンドリューに変化が現れてくる。酒量が増え、妻が言ったことを聞きもらす回数が増える。しかし、それが自分のせいだと思えず、妻を疑い、うとましく思うようになる。次第に妻は家を空けることが増え、夫は不倫を疑いはじめ…と事態は思わぬ方向へ。

別人格を抑圧する決め手となる「兄弟殺し」の記憶は『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』所収の「化石の兄弟」、「タマゴテングダケ」にも登場する主題で、そこでは双子の兄弟という関係になっている。双生児とは、ある意味もう一人の自分である。もう一人の自分を抑圧することで自分を自分として確立しようとする、その確執と葛藤が主要なテーマとしてジョイス・キャロル・オーツの作品に繰り返し現れていることが見て取れる。

幾つもの変名を使って、別種の本を書くミステリー・サスペンス作家という自分のキャラクター、さらには自分に起きた過去の盗作疑惑までネタにしつつ、小説のアイデアというもののオリジナル性の不確かさや、自分が思いついた物語にはどこかに起源があるのではないか、という作家ならではの拭い去れない恐怖が、生々しいほどに表現されている。せんじ詰めれば、オリジナルなものなどない。すべてはすでに誰かによって書かれている。それを如何に自分のものとして再創造するのか、という主題を扱う手際がこの作家らしい。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第二章(3)

《「どこへ行ったんだ?」ムース・マロイが訊ねた。
 バーテンダーは思案の挙句、やっとのことで用心棒がよろめきながら通り抜けたドアに視線を向けた。
「あ、あっちは、モンゴメリさんのオフィスでさあ。ここのボスで。あの奥がオフィスになってます」
「そいつが知ってるかもしれん」大男が言った。彼はごくりと酒を飲み込んだ。「そいつも利いた風な口を利かないといいが。同じのを、もう二杯だ」
 大男はゆっくり部屋を横切った。軽い足どりで、何の悩みもなさそうに。大きな背中でドアが隠れた。ドアには鍵がかかっていた。ノブを揺すぶると、鏡板が一枚、片側に飛んでいった。大男は中に入り、ドアを閉めた。
 沈黙が落ちた。私はバーテンダーを見た。バーテンダーは私を見た。何かを考えている眼だった。カウンターを拭きながら、ため息をつき、右手を下に伸ばした。
 私はカウンター越しにその腕をつかんだ。細くて脆そうな腕だ。私は腕をつかんだまま笑いかけた。
「なあ、そこに何があるんだ?」
バーテンダーは唇をなめた。私の腕に体を預けたまま何も言わなかった。輝きを帯びた顔に灰色の翳がさした。
「あいつはタフだ」私は言った。「そして、何をしでかすか分からない。酒がさせるんだ。あの男は昔の女を探してる。当時ここは白人の店だった。ここまではいいか?」
 バーテンダーは唇をなめた。「あいつは長い間ここに来なかった」 私は言った。「八年間もだ。見たところ、それがどれだけ長いのかも分かっちゃいない。私としてはそれが一生分の長さだと悟ってほしかったんだが。ここの者なら女の居所を知っているとあいつは思い込んでるのさ。事情は飲みこめたか?」
 バーテンダーはゆっくり言った。「私はあなたがあの人の連れだと思ってたんで」
「どうしようもなかったんだ。下でものを尋ねられてそのまま上へ連れてこられた。あいつとは初対面だ。しかし、投げ飛ばされるのは気が進まなかった。そこに何があるんだ?」
「ソードオフです」バーテンダーは言った。
「おっと、それは違法のはずだ」私は耳打ちした。「いいか、君は私と組むんだ。ほかには何がある?」
「拳銃があります」バーテンダーは言った。「葉巻入れの中に。腕を放してくださいよ」
「そいつはいい」私は言った。「ちょっと動いてもらおうか、気を楽に、横にだ。今は銃の出る幕じゃない」
「そうは問屋が卸すもんか」バーテンダーは鼻で笑った。私の腕にくたびれた体重をかけながら言った。「そうは問屋が─」
 バーテンダーは口をつぐんだ。眼をぎょろつかせ、頭をぐいと引いた。
 背後で鈍く低い音がした。クラップス・テーブルの向こうの閉まったドアの後ろだ。ドアが急に閉まった音かも知れなかった。私はそうは思わなかった。バーテンダーもそうは思わなかった。
 バーテンダーは凍りついた。口からよだれが垂れていた。私は耳を澄ました。それっきり音はしなかった。私は急いでカウンターの端に向かった。長く耳を澄ませすぎていた。
 大きな音とともに後ろのドアが開き、ムース・マロイがするりと猛烈な突進で通り抜け、急に立ち止まった。足は床に根を生やし、顔には悪賢い薄ら笑いがぼんやり浮かんでいた。
 四五口径のコルト軍用拳銃も彼の手の中にあると玩具にしか見えなかった。
「気取った真似をするんじゃねえ」彼はなれ合い口調で言った。「カウンターの上に両手を置くんだ」
 バーテンダーと私はカウンターの上に両手を置いた。
 ムース・マロイはかき集めるような眼で部屋中を見回した。ぴんと張りつめた薄笑いが顔に釘付けされていた。脚の重心を移動し、黙って部屋を横切った。たしかに一人で銀行強盗をやってのけそうな男に見えた──あんな服装をしていてさえ。
 大男はバーまでやってきた。「手を挙げな、黒いの」彼は静かに言った。バーテンダーは手を高く宙に挙げた。大男は私の背後にまわりこみ、左手を使って注意深く体を探った。熱い息が首にかかった。そして離れた。 
モンゴメリさんもヴェルマがどこにいるか知らなかった」彼は言った。「これに物を言わせようとしたんだ」頑丈な手で拳銃を軽く叩いた。私は振り返って大男を見た。「なあ、おい」彼は言った。「分かってるとは思うが、おれのこと、忘れるんじゃないぜ。警察の連中にはうかつなまねをするな、と言っておいてくれ」彼は銃をぶらぶらさせた。「じゃあな、若造。おれは電車をつかまえなきゃいけない」
 大男は階段の方に歩きはじめた。
「酒代がまだだ」私は言った。
大男は足を止め、注意深く私を見た。
「そこに何があるか知らないが」彼は言った。「あまり、手荒な真似をしたくないんだ」
 大男は立ち去った。滑るように両開きの扉を抜けて。階段を下りる足音が次第に遠ざかって行った。
 バーテンダーが前にかがんだ。私はカウンターの後ろに飛び込んで、男を外へ追い出した。カウンター下の棚の上にタオルをかぶせて銃身を切り詰めたショットガンが置いてあった。横に葉巻入れがあった。葉巻入れの中には三八口径のオートマティックがあった。私は両方取り上げた。バーテンダーはグラスの並んだ棚に体を押しつけていた。
 私はカウンターの端を回って部屋を横切り、クラップス・テーブルの後ろの開いているドアまで行った。その向こうに鍵の手になった廊下があり、ほとんど明かりが見えなかった。用心棒が気を失って床にのびていた。手にはナイフがあった。私はかがみ込んでナイフを引き抜き、裏階段へ投げ捨てた。用心棒はぜいぜいと荒い息をし、手はぐにゃりとしていた。
 私は男をまたぎ「オフィス」と記す黒い塗料の剥げたドアを開けた。
 一部を板で塞いだ窓の近くに疵だらけの小さな机があった。男の上半身が椅子の上で硬直していた。椅子の背凭れは高く、ちょうど男の首筋まであった。頭が椅子の背のところで後ろに折れ曲がり、そのせいで鼻が板で塞がれた窓の方を向いていた。まるで、ハンカチか蝶番をただ折り曲げたように。
 机の右手の抽斗が開いていた。中には真ん中に油の臭いが滲みついた新聞紙があった。そこに拳銃が入っていたのだろう。その時は名案に思えたのだろうが、モンゴメリ氏の頭の位置を見れば、思いちがえてたことが分かる。
 机の上に電話機があった。私はソードオフ・ショットガンを下に置き、警察に電話する前にドアに鍵をかけた。用心のためだったが、モンゴメリ氏は気にする様子もなかった。
 巡回パトロールの警官たちが足音を響かせて階段を上ってきた時、用心棒もバーテンダーも姿を消していて、そこにいたのは私だけだった。》 

バーテンダーは思案の挙句、やっとのことで用心棒がよろめきながら通り抜けたドアに視線を向けた」は<The barman's eyes floated in his head, focused with difficulty on the door through which the bouncer had stumbled.>。清水氏は「バーテンダーの眼は彼の頭の中に浮び上り、用心棒がよろけて出て行ったドアにやっと焦点を合わせた」と訳している。後半はいいが、「バーテンダーの眼は彼の頭の中に浮び上り」は変だ。

村上氏は「バーテンダーの目は顔の中でふらふらしていた。用心棒がよろめきながら消えたドアに焦点を合わせるのが一苦労みたいだった」と訳している。どうやら意味は通じているが、頭を顔に代える訳に無理がある。まず<one's eyes>は「目」ではなく「視線」のことだ。それに<float in>は「(心中に)浮かぶ」という意味で、その後には<face>ではなく<head>とあるからには「頭に浮かぶ」の意味と採らないとおかしい。 

「そいつも利いた風な口を利かないといいが」は<He better not crack wise neither>。清水氏は「こいつもきいたふうなことはいわねえ方がいい」と訳している。<crack wise>は「気のきいたことを言う」という意味。村上氏は「洒落た真似をしないでくれると助かるんだが」と訳している。後で拳銃を取り出すことの仄めかしだろうが、<crack wise>は生意気な口をきくことを意味しているのであって、愚かな行動をとることの意味はない。

「鏡板が一枚、片側に飛んでいった」は<a piece of the panel flew off to one side>。清水氏は「金具がはずれて、とんだ」と訳している。<panel>とは「天井、窓などの一仕切り」を意味するもので、「鏡板、羽目板」と訳されることが多い。どの辞書を見ても「金具」という意味はない。村上氏は「化粧板が片方にはじけ飛んだ」と訳している。「化粧板」というのは「表面が鉋掛けされたきれいな板」というほどの意味で、「鏡板」のように複数の部材<“Maybe you got something there,” he said, “but I wouldn't squeeze it too hard.”>で、ドアのような建具を構成するといった意味はない。

「何かを考えている眼だった」は<His eyes became thoughtful>。清水氏は「彼の眼が異様に輝いた」と意訳しているが、果たしてその必要があるだろうか。原文の簡潔さが消えて、かえってあいまいな印象を与えてしまっている。村上氏は「その目は何かを考えているように見えた」と訳しているが、これでもくどいくらいだ。

バーテンダーはゆっくり言った」は<The barman said slowly>。清水氏は「バーテンダーは蚊のなくような声で言った」と訳している。村上氏は「バーテンダーは言葉を選んで言った」だ。<slowly>に、そんな意味はない。いつもいつも<slowly>を「ゆっくり」と訳してばかりでは芸がない、とでも考えたのだろうか。余計なお世話だ、と思う。作者でもない翻訳者が自分の読みをつけ加えることには賛成できない。<The barman said slowly>くらい普通の読者なら理解できる。

「口からよだれが垂れていた」は<His mouth drooled.>。清水氏は「口をあけたまま(、身動きをしなかった)」と訳している。<drool>には「よだれを垂らす」の意味がある。なぜよだれについて触れていないのか理由が分からない。村上氏は「彼は口からよだれを垂らしていた」と訳している。

「酒代がまだだ」と言ったマーロウに対するマロイの返事が、新旧訳で全く異なっている。原文の<“Maybe you got something there,” he said, “but I wouldn't squeeze it too hard.”>を、清水氏は「お前えが持ってるだろう。なにも、そっくり捲き上げようとはいわねえよ」と訳している。村上氏はそれとはちがって<「そこに何があるのかは知らんが」と彼は言った。「おれなら余計な真似はしねえな」>と訳している。

<squeeze>は「搾り取る」の意味だから、清水訳も理解できないではないが、前半の<you got something there>は、マーロウがバーテンダーに二度繰り返した「そこに何があるんだ」<What you got down there?>を踏まえていると考えられる。そうだとすると、この<something>は金のことではなく銃のことだと思えてくる。

「クラップス・テーブルの後ろの開いているドアまで」は<to the gaping door behind the crap table>。清水氏はここを「骰子テーブルのうしろのドアを開いた」とやってしまっている。そのドアは、さっきマロイが出てきた時に開けたままになっている。文法からいってもそうは訳せない、初歩的なミスだ。村上氏は「クラップ・テーブルの奥の大きく開いているドアの前に」と訳している。

 

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第二章(2)

《我々はバーに行った。客たちは一人で、あるいは三々五々、静かな影となり、音もなくフロアを横切り、音もなく階段へと通じるドアから出て行った。芝生の上に落ちる影のようにひっそりと。スイング・ドアを揺らすことさえしなかった。
 我々はバー・カウンターに凭れた。「ウィスキー・サワー」大男が言った。「あんたは」
「ウィスキー・サワー」私は言った。
 我々はウィスキー・サワーを飲んだ。
 大男は厚手のずんぐりしたグラスの縁からつまらなそうにウィスキー・サワーをちびちびとなめた。そして、真面目くさった顔でバーテンダーを見つめた。白い上着を着た痩せた黒人で、不安気な表情を浮かべ、足の痛みを気遣うような動きをした。
「お前、ヴェルマがどこにいるか知ってるか?」
「ヴェルマって言いましたか?」バーテンダーは泣き出しそうな声で言った。「この頃この辺りじゃ、とんと見かけません。最近はさっぱりで、へえ」
「お前、ここは長いのか?」
「ええと」バーテンダーはタオルを下に置き、額に皺を寄せて指折り数え始めた。「かれこれ十カ月でさ。おおよそそれくらいになります。いやそろそろ一年か」
「はっきりしろい」大男は言った。
 バーテンダーは眼を剥き、首を落とされた鶏みたいに咽喉仏をひくつかせた。
「ここが黒人のバーになってどれくらいだ?」大男はぶっきらぼうに問いただした。
「なんておっしゃいました?」
 大男が拳を握ると、ウィスキー・サワーのグラスは眼の前から見えなくなった。
「かれこれ五年になる」私は言った。「この男はヴェルマという名の白人の女のことは何も知らない。ここの誰も知らないだろう」
 大男は私のことをまるで今卵から孵った雛のように見た。ウィスキー・サワーは大男の機嫌をよくしてはくれなかったようだ。
「誰が口をはさめと言った?」彼は訊いた。
 私は微笑んだ。寛大で心から友好的な微笑みができたと思う。「あんたがここに連れ込んだんじゃないか。忘れたのか?」
 大男はにやりと笑って見せた。のっぺりと白々しい気のない笑いだった。「ウィスキー・サワー」彼はバーテンダーに言った。「チンタラしてるんじゃねえ。とっとと作れ」
 バーテンダーはあわてて飛び回り、目を白黒させた。私は背中をカウンターに預け、部屋を見わたした。部屋は空っぽになっていた。バーテンダーを別にしたら、そこにいるのは大男と私、そして壁のところでぺしゃんこになってる用心棒だけだった。用心棒はそろりそろりと動いていた。痛みをこらえ、やっとのことで手足を動かしているように。片方の翅をもがれた蠅みたいに幅木に沿ってゆっくり這っていた。テーブルの後ろを、げんなりと、不意に歳をとり、突然正気に返った男のように。私は男の動きをじっと見ていた。バーテンダーがお代わりのウィスキー・サワーを二つ置いた。私はカウンターに向き直った。大男は這い進む用心棒をちらりと目にしたがまったく気にも留めなかった。
「この店には何も残っちゃいない」彼はこぼした。「小さなステージがあって、バンドがいて、男が楽しい時を過ごすことができる気の利いた小部屋があった。ヴェルマはそこで歌ってた。赤毛だった。レースのついた下着みたいに可愛かった。おれたちが結婚しようというとき、やつらがおれをハメたんだ」
 私は二杯目のウィスキー・サワーに手を伸ばした。私は深みにはまりかけていた。「ハメられたって、何にだ?」
「八年もの間、おれがどこで何をしてたかっていう話だ。あんたどう思うね?」
「蝶でも捕まえてたんだろう」
 大男はバナナのような人差し指で自分の胸を突っついた。「檻の中さ。マロイっていうんだ。体がでかいからって、みんなはムース(箆鹿)・マロイって呼ぶ。グレート・ベンド銀行の仕事だ。四万ドル、一人でやってのけた。凄かないか?」
「で、今からそいつを使おうっていうのか?」
 大男は私に鋭い一瞥をくれた。背後で物音がした。用心棒が再び自分の足で立ったのだ。少しよろめきながら、クラップス・テーブルの向こうの黒っぽいドアのノブに手をかけた。そして、ドアを開け、なかば倒れ込むように中に入った。ドアが音を立てて閉まった。錠がかかる音がした。》

「客たちは一人で、あるいは三々五々」は<The customers, by ones and twos and threes,>。清水氏は「客たちは二人、三人と一団になって」と「一人」を略している。村上氏は「客たちは一人で、二人連れで、あるいは三人連れで」と律儀に訳している。「芝生の上に落ちる影のように」は<as shadows on grass>。清水氏はここを「壁にうつる影のように」と訳している。「草」<grass>を「壁」と見誤りそうな単語が見つからない。

「ウィスキー・サワー」は<Whiskey sour>。ウィスキーをベースにレモンジュースと砂糖を加えたカクテルだ。清水氏はこれを全部「ウィスキー」で統一している。単なるウィスキーだったら、大男がお代わりを要求するとき、バーテンダーが目を白黒させるほど慌てるだろうか。一方で、チャンドラーはこのカクテルを注いだグラスを<the thick squat glass>と書いている。清水氏は「厚いウィスキー・グラス」と訳している。村上氏は「ずんぐりした分厚いグラス」だ。ストレートやオン・ザ・ロックスならともかく、カクテルを注ぐグラスには似つかわしくない。

バーテンダーは眼を剥き」は<The barman goggled>。清水氏は「バーテンダーは声をつまらせ」、村上氏は「バーテンダーがごくりと唾を飲むと」と訳している。<goggle>は「(びっくりして)目を丸くする、ぎょろぎょろする」の意味だ。もしかしたら清水氏は<guggle(gurgle)>「喉を鳴らす」とまちがえたのではないだろうか。村上氏は、自分で訳す前に清水訳を参考にしているようなので、それをそのまま踏襲していることが少なくない。せっかく新訳と銘打つのだから、はじめから自分で訳していたら、こんなまちがいはしないで済んだろうに。

「なんておっしゃいました?」は<Says which?>。「なんて言ったの?」と相手に聞き返す際のアメリカ英語の慣用句だ。清水氏は「誰がそういうんだ」と大男の台詞として訳している。その前の大男の質問は<How long's this coop been a dinge joint?>なので「誰がそういうんだ」という重ねての質問は意味をなさない。村上氏も「なんておっしゃいました?」と訳している。

「大男はにやりと笑って見せた。のっぺりと白々しい気のない笑いだった」は< He grinned back then, a flat white grin without meaning>。清水氏は「彼は意味をなさない薄笑いを見せた」とあっさり訳している。村上氏は「彼はにやりと笑みを返した。白い歯をむき出しにした、奥行きのない、意味を欠いた笑みだ」と訳している。<grin>にはたしかに「白い歯を見せて笑う」の意味があるが、「むき出しに」してみせるなら、そこにはなにがしかの意味が混りそうなものだ。この<white>は「何も書かれていない」の意味ではないだろうか。

「そして壁のところでぺしゃんこになってる用心棒だけだった」は<and the bouncer crushed over against the wall.>。清水氏は「そして、壁に投げつけられた用心棒だけだった」。村上氏は「壁に投げつけられた用心棒だけだった」と、ここも清水訳をそのまま使っている。ところで<crush>だが、どの辞書を見ても「押しつぶす」が主たる意味で「投げつける」という意味は見当たらない。もしかして<crash>「衝突する」と読み違えて、大男の行為と結び付けての意訳だろうか。村上氏が旧訳を下訳にしていなかったら、同じ訳をしただろうか。

「やつらがおれをハメたんだ」は<they hung the frame on me>。清水氏は「奴らが俺をぶちこみやがった」と訳している。<frame>は「ハメる、(人に)濡れ衣を着せる」の意味がある。<hang>にも「人に罪を着せる」の意味があるので、ここは「陥れられた」の意味だろう。村上氏も「俺はハメられちまった」と訳している。「ぶちこむ」と訳してしまったら、次の<Where you figure I been them eight years I said about?>という質問の意味がなくなるではないか。

『監禁面接』ピエール・ルメートル

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原題は「黒い管理職」という肝心の中身をバラしかねない題だ。邦題の方は、まさにピエール・ルメートルといったタイトル。しかし、カミーユ・ヴェルーヴェン警部シリーズの持つ嗜虐趣味と謎解きの妙味はない。仕事にあぶれた中年男が持てる力を振り絞って、地位と金を手にしようと必死にあがく姿をサスペンスフルに描いたクライム・ストーリーである。

五十七歳のアランは目下失業四年目。僅かな金のために働く仕事先で、足蹴にされたことに腹を立て、上司に頭突きを食らわせる。それで失職し、訴訟を起こされる。二進も三進もいかなくなったアランのところに、応募していた大手の人材コンサルタント会社から書類審査に通ったという手紙が来る。キツネにつままれたような気持ちで筆記試験を受けると、これも合格。面接試験を受けることに。ところが、最終的に四人にしぼられた候補者の中から一人を選ぶ試験というのが問題だった。

そのコンサルタント会社では、ある大企業の大規模な人員整理を担当する人材を探していた。最終的に絞った五人の候補者の中から一人を選ばなければならない。大規模な人員整理となれば反対運動がおこるのは目に見えており、それに動じることなく冷静に判断を下せる者を見極めるには通常の試験では難しい。コンサルタント会社の考えたのはとんでもない方法だった。

試験と称して候補者を一室に集め、そこをゲリラに急襲させる、というものだ。もちろん犯人グループは偽物で、武器その他も実弾は入っていない。しかし、事実を聞かされていない候補者たちはパニックに陥るに決まっている。そういう場面でも冷静に判断を下せる人材は誰か、を見極める試験官を別室に潜むアランたちにやれというわけだ。候補者たちに候補者を選ばせるという一石二鳥の名案だった。事件が起きるまでは。

小説はアランの視点で面接までの経過を記す「そのまえ」。「人質拘束ロールプレイング」のオーガナイザー、ダヴィッド・フォンタナの視点で事件の経緯を記す「そのとき」。そして、またアランの視点で事件のその後の出来事を描く「そのあと」の三部で構成されている。これが実にうまくできていて、この小説の鍵を握っている。

アランには美しい妻と二人の娘がいる。姉のマチルドは銀行家と結婚し、妹のリュシーは弁護士だ。幸せを絵に描いたような生活は、アランの失職で一気に瓦解する。妻の働きのせいで、なんとか暮らしてはいけるものの、着古したカーディガン姿の妻を見るたびに、自分の力のなさが思いやられ、アランは娘たちにも引け目を感じている。フランスの話だが、日本に置き換えても何の不都合もない、身につまされる境遇に主人公は置かれている。

ついこの前までは同じ位置にいた者に足蹴にされたら、誰だってプライドが傷つく。ましてや五十代のアランはまわりからおやじ扱いを受ける身だ。ふだんはキレたりしないが、再就職の口が見つからずイライラしていたところでもあり、つい暴力をふるってしまう。最初に暴力に訴えたのは相手だが、その上司は目撃者を買収することで裁判を有利に進めようとする。買収されたのは金に困っていた同僚で、証言を変えるはずもなかった。

アランとしては、コンサルタント会社の面接に合格するしか道はなかった。まずは、その大手企業と匿名の候補者について知ることから始めねばならなかった。探偵会社を雇い、調べさせることはできるが、それには金がいる。娘の夫に借金を申し込むが断られ、娘を説き伏せ、新居のために積み立てた資金を取り崩させて探偵社に払う。もう一つ、人質拘束事件について実際に知っている人に話を聞きたいとネットに投降した。これにも元警察官のカミンスキーから連絡があり、彼の指導で練習を積み準備はできた。

だが、作者はピエール・ルメートルだ。そうやすやすと話は通らない。コンサルタント会社に勤める女からアランに電話がある。会ってみると、面接は見せかけで、採用者はすでに決まっている。アランはただの当て馬だという。この試験のために娘の新居の資金をふいにした。これが駄目なら裁判に勝てる見込みはない。自暴自棄に陥ったアランはカミンスキーから拳銃を手に入れ、試験会場であるコンサルタント会社に出向く。

見せかけの「人質拘束ロールプレイング」が途中から本物に変わる。コンサルタント会社の担当者も、オーガナイザーのフォンタナも、事態の急変を予期できなかった。「そのとき」で、事件の実況を受け持つフォンタナは傭兵経験を持つ百戦錬磨のつわものだ。その男の目に映るアランの姿は単に試験のために緊張しているにしては異様だった。その男はアタッシュケースからやおら拳銃を取り出すとその場を仕切りはじめるのだった。

怒りに任せての復讐劇かと思わせておいて、「そのあと」で描かれる事件の顛末がいちばんの読みどころ。まるで映画のような見せ場がいっぱいだ。拘置所内でアランを襲う恐怖。娘リュシーの弁護のもとに行われる裁判劇。本業である自分が一杯食わされたことに腹を立てるフォンタナとアランの手に汗握る駆け引き。息もつかせないカー・チェイス。初めはもったりとしたテンポではじまった話がハイ・スピードで走り出す。

話自体には、それほどの新味はない。ただ、アランを助ける友人その他のキャラが立っていて、くたびれた中年オヤジにしか見えなかったアランも、ひとつ場数を踏むたびに逞しくなり、勘は冴えわたり、巨悪を相手に一歩も退かないところが、だんだん頼もしく目に映るようになってくる。家族を愛する男はこうまで強くなれるものか。結末は万々歳とはいかない。いろいろと無理がたたって、ほろ苦い後味を残す。しかし、一皮むけたアランの明日にはかすかな灯りがほの見えてもいる。

カミーユものとは一味ちがう、ピエール・ルメートルの小説家としての多面的な才能がうかがえる作品である。はじめは、さえない中年男の話かと少々だれ気味に感じられていたものが、ギアが切り変わるたびに加速されるような感じで、一気に加速すると、あとは一気呵成だ。息つく暇もなく読み終えてしまった。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第二章(1)

《階段を上りきると、また両開きのスイング・ドアが奥との間を仕切っていた。大男は親指で軽くドアを押し開け、我々は中に入った。細長い部屋で、あまり清潔とはいえず、特に明るくもなく、別に愉快なところでもなかった。部屋の隅にある円錐形の灯りが照らす、クラップス・テーブルを囲んで黒人のグループがぺちゃくちゃとしゃべっていた。右手の壁に沿ってバーがあった。そのほかには小さな丸テーブルがいくつか並べられていた。部屋には数人の客がいたが、男も女も黒人だった。クラップス・テーブルが急に静まりかえり、頭上の灯りが急に消えた。突然、浸水したボートのような重い沈黙がやってきた。いくつもの眼が我々を見た。灰色から漆黒の範囲内に収まる顔に嵌め込まれた栗色の眼だ。ゆっくり振り向いた眼はぎらつき、異人種が外敵に向けるとりつく島のない沈黙の奥から見つめていた。
 大柄で太い首をした黒人がバーの端に倚りかかっていた。シャツの両袖にピンクのガーターをつけ、広い背中でピンクと白のサスペンダーが交差していた。どこから見ても用心棒だった。男は上げていた片足をゆっくり下ろして我々を見つめ、静かに両脚を広げ、幅の広い舌を唇に這わせた。顔には虐待の痕があった。掘削機のバケット以外のあらゆるもので殴られたみたいだった。傷だらけで、ぺちゃんこになり、分厚く、まだらで、鞭の跡がついていた。怖いものなしの顔だった。人が思いつくすべてのことがやりつくされていた。
 短い縮れ毛には白いものが混じっていた。片耳の耳朶がなかった。
 黒人は重量級で肩幅も広かった。大きくてがっしりした両脚は少し湾曲していた。黒人には珍しいことだ。また唇をひと甞めし、微笑を浮かべ、体を動かした。ボクサーが体をほぐすみたいに身をかがめてこちらに向かってきた。大男は黙ってそれを待ち受けた。腕にピンク色のガーターをした黒人は、がっしりした褐色の手を大男の胸に置いた。大きな手だったが、飾りボタンのように見えた。大男は微動だにしなかった。用心棒は優しく微笑んだ。
「白人はお断りでね、ブラザー。黒人専用なんだ。すまないな」
 大男は小さな哀しい灰色の瞳を動かして部屋の中を見わたした。頬が少し赤らんだ。「黒人バーか」腹立たし気に、小さな声で言った。それから声を上げた。「ヴェルマはどこにいる?」と用心棒に訊いた。
 用心棒は笑ったわけではなかった。大男の服に見入っていたのだ。その茶色のシャツと黄色いタイ、ラフなグレイのジャケットについた白いゴルフボールを。ずんぐりした頭を注意深く動かしていろいろな角度から入念に吟味した。男は鰐革の靴を見下ろした。そして軽く含み笑いをした。おもしろがっているようだった。私は男のことがちょっと気の毒になった。男はまたおだやかに話しかけた。
「ヴェルマと言ったかね? ヴェルマなんて女はいねえ、ブラザー。酒もねえ、女もいねえ、何にもねえ。さっさと帰んな、白いの、出て行くんだ」
「ヴェルマはここで働いてたんだ」大男は言った。ほとんど夢見ているように話していた。たった一人で、森の中で菫でも摘んでいるように。私はハンカチを取り出して首の後ろを拭った。
 用心棒が突然笑い出した。「そうかい」彼は言った。肩越しにちらりと後ろを振り返って仲間を見た。「ヴェルマはここで働いてた、けどな、ヴェルマはここではもう働いてねえ。引退したってよ。あっはっは」
「その小汚い手をおれのシャツからどけるんだ」大男が言った。
 用心棒は眉をひそめた。そういう口の利き方に慣れていなかったのだ。手をシャツから放すと、拳を固めた。大きさといい色といい、大きな茄子そっくりだった。男には仕事があり、タフで通っていた。ここで男を下げるわけにはいかない。それがちらりと頭をよぎり、過失を犯した。いきなり肘が外に引かれ、拳はくっきりと小さな弧を描いて大男の顎の脇を打った。低いため息が部屋の中に流れた。
 いいパンチだった。肩が落ち、その後で体が揺れた。パンチには充分体重がのっていたし、それを見舞った男も多くの練習を積んでいた。大男は頭を一インチほど動かせただけだった。パンチを防ごうともしなかった。まともに食らって、わずかに体を震わせると、静かに喉を鳴らして用心棒の喉をつかんだ。
 用心棒は膝で相手の股間を蹴ろうとした。大男は用心棒を空中に持ち上げ、床を覆っている汚いリノリウムの上に派手な靴を滑らせ、両脚を開いた。用心棒をのけぞらせ、右手を用心棒のベルトに移した。ベルトはまるで肉屋の糸のようにはじけ飛んだ。大男は巨大な両手を用心棒の背骨にぴたりと当てて持ち上げた。大男は体を旋回させ、よろめきながら、両腕を振り回して部屋の向こうまで投げ飛ばした。三人の男がそれを避けて飛びのいた。用心棒は、デンバーまで聞こえたにちがいない派手な音を立てて、テーブルといっしょに幅木に衝突した。男の足は引きつっていた。それからずっと寝たままだった。
「いるんだよ」大男は言った。「タフになる時と場合をまちがうやつが」彼は私に向き直った。「なあ」彼は言った。「一杯つきあえよ」》

「また両開きのスイング・ドア」は<Two more swing doors>。清水氏は「また、二重ドアがあった」と訳している。どこにも<double>とは書いてないが、<two>で、そう思ってしまったのだろうか。当然、村上氏は「また両開きのスイング・ドア」と訳している。この場合の<two>は一対の意味だろう。<doors>と複数になっているので、<one more>とは書けないのだろうか。ちょっと首をひねってしまった。

「円錐形の灯りが照らすクラップス・テーブルを囲んで黒人のグループがぺちゃくちゃとしゃべっていた」は<a group of Negroes chanted and chattered in the cone of light over a crap table.>。清水氏は「黒人の一団が電灯の下で、骰子(さいころ)のテーブルをかこんでいた」と簡略に訳している。村上氏は「一群の黒人が集まって、クラップ・ゲームのテーブルを照らす円錐形の明かりの下で、歓声を上げたり、おしゃべりをしたりしていた」と、ほぼ逐語訳だ。二個の骰子を使って遊ぶゲームは、通常<craps>と呼ばれているので、クラップス・テーブルとしておいた。

「ゆっくり振り向いた眼はぎらつき、異人種が外敵に向けるとりつく島のない沈黙の奥から見つめていた」は<Heads turned slowly and the eyes in them glistened and stared in the dead alien silence of another race.>。清水氏は<Heads turned slowly>をカットし「その眼は、異人種の侵入に敵意を見せて、輝いていた」と訳している。村上氏は「首がゆっくりと曲げられ,、瞳がきらりと光り、こちらを凝視した。異なった人種に対する反感がもたらす、痛いほどの沈黙がそこにあった」と、相変わらず文学的な訳だ。

「掘削機のバケット以外の」は<but the bucket of a dragline>。清水氏はここをカット。そのまま訳しても読者には伝わらないと考えたのだろう。村上氏は拙訳と同じ。たしかに、こうしか訳しようがないし、訳してみても具体的なイメージは湧かない。ただ、とてつもない大きな機械であることは何とか分かる。それでいいのだ。チャンドラーお得意の修辞技法における単なる誇張法なのだから。

「大きな手だったが、飾りボタンのように見えた」は<Large as it was, the hand looked like a stud.>。清水氏は「形容ができないほどの大きな手だった」と訳しているが、これはどうだろう。村上氏は「それはずいぶん大きな手だったが、飾りボタンのようにしか見えなかった」と、解釈を入れて訳している。無論、カンマの後に「大男の胸に置かれると」という条件節が入っていると考えなければならない。村上氏の訳はそれを踏まえている。清水氏は<stud>を何かと読みちがえたのだろうか。

「小さな声で」は<under hi's breath>。清水氏は「低い声で」と訳している。村上氏は「はき捨てるように言った」と訳している。<under one's breath>は「小さな声で、ひそひそと、ささやいて」の意味。おそらく、辞書を引かずに訳したのだろう。その前に<angrily>とあるので、引きずられたのかもしれない。まちがいとは言えないが、慎重な村上氏にしては踏み込んだ訳である。その後、大男は声を上げているので、ここは小声と採っておくのが無難ではないか。

「用心棒は笑ったわけではなかった」は<The bouncer didn't quite laugh.>。清水氏は「用心棒はかたい表情を見せて」と訳している。村上氏は「用心棒はあからさまに笑ったわけではなかった」だ。<not quite>には「~ほどでもない」の意味なので、清水氏がなぜこういう表現にしたのか真意が分からない。「かたい表情」どころではない。ここで用心棒はかなり興味深そうな、ほとんど笑いに近い表情を浮かべているはずなのだ。何しろ大男の服装が眼を引くものだったから。

「ベルトはまるで肉屋の糸のようにはじけ飛んだ」は<The belt broke like a piece of butcher's string.>。清水氏は「金具は音をたてて、砕けた」と、ベルト本体ではなく金具がこわれたと訳している。村上氏は「ベルトはまるで肉屋の使う糸みたいにはじけて切れた」だ。<butcher's string>はロースト・ビーフを縛るタコ糸のようなもののことだと思う。

「大男は体を旋回させ、よろめきながら、両腕を振り回して部屋の向こうまで投げ飛ばした」は<He threw him clear across the room, spinning and staggering and flailing with his arms.>。清水氏はここを「用心棒はぐるぐるまわり、よろめき、両腕をふりまわしながら、部屋を横切ってとんでいった」と訳しているが、村上氏は「そして身体をくるりと回転させ、よろめきながらも、両腕を大きく振って、部屋の向こうまで相手を放り投げた」と訳している。

<spinning and staggering and flailing with his arms.>の<his>は大男なのか、用心棒なのか。原文では<He>の前に<;>(セミコロン)が使われている。つまり「独立した2つの文が何らかの関係があるためつなげて書くとき、間に(最初の文の終止符のかわりに)セミコロンを置く」という使われ方をしているわけだ。だから、ここで急に「彼」が用心棒になることは文法的に言ってあり得ない。それにしても二人の男がどちらも一文の中で一様に<he、his、him>で扱われるのは確かに厄介だ。それにしても、宙をとんでいく男が「よろめく」のはさすがに不可能ではないだろうか。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第一章

「チャンドラーの長篇全冊読み比べ」は、チャンドラーの長篇を原書と新旧訳を読み比べる企画。今回は第三弾。「『さらば愛しき女よ』を読み比べる」。定評のあった清水俊二氏の旧訳に対し、村上春樹氏が新訳を発表した時、賛否両論の声が湧きあがった。それは単に旧訳に慣れたオールド・ファンの反発という性格のものでもなかった。英語の翻訳についての批判もかなり含まれていたように覚えている。

それまで翻訳を通じてしか知らなかったチャンドラーの世界について、もっと直に触れたいという気持が生まれたのは、村上氏がこれを機会に読み比べる読者が増えることを望んでいる、というような意味の言葉をあとがきに書いていたからだ。海外のペーパーバックが簡単に手に入るようになったことも大きかった。

それでは、とまず手にとったのが『長いお別れ』。この時は新旧訳の比較が主だった。次に『大いなる眠り』を読みかけたとき、自分でも訳してみたいという欲が出た。逐語訳でいいから、できる限り原書に近い翻訳というか、英文和訳のようなものを書きはじめた。そのうちに翻訳について書かれた本を読むようになり、いつまでも英文和訳ではいけないような気がし始め、翻訳に近づきたいと考えるようになった。

そして今回の『さらば愛しき女よ』に至る。《 》で挿まれている部分が拙訳である。その後に三冊を読み比べての感想が続く。素人のやることなので誤りも多いと思う。気がつかれたら教えていただきたいと思っています。よろしくお付き合いください。

《そこはセントラル・アヴェニューの混合ブロックの一つで、まだ黒人だけが住む地区にはなっていなかった。私は椅子が三つしかない床屋から出てきたところだった。ディミトリアス・アレイディスという名の理髪師がそこで臨時雇いで働いているかもしれないというのが紹介所の考えだった。些細な件だった。夫を家に連れ戻してくれたら礼金を払うと妻が言ったのだ。私は男を見つけ出せなかった。が、アレイディス夫人も一銭も払わずにすんだ。
 三月も終わろうかという暖かい日で、私は床屋の外に立って二階から突き出したネオンサインを見上げていた。<フロリアンズ>という名の食事と骰子博打を売りにした店だ。一人の男が同じようにネオンサインを見上げていた。男は顔にうっとりしたような表情を浮かべ、埃まみれの窓を見上げていた。まるで初めて自由の女神像を目にしたヨーロッパからの移民のように。大男だが背丈はせいぜい六フィート五インチ、肩幅もビール・トラックより広くなかった。男と私は十フィートくらい離れていた。頼みの綱の両腕はだらりと垂れ、大きな指の後ろで忘れられた葉巻から煙が上がっていた。
 通りを行き来する痩せて黙りこくった黒人たちは横目でちらりと男を見やった。男には一見の価値があった。毛羽立ったボルサリーノ帽をかぶり、ボタン代わりに白いゴルフボールのついたラフなグレイのスポーツジャケット、茶色のシャツに黄色いネクタイ、タック入りのグレイ・フランネルのスラックスに、爪先が真っ白な鰐革の靴。胸ポケットからはネクタイと揃いの鮮やかな黄色のハンカチが滝のようになだれ落ちていた。帽子の帯には色鮮やかな羽根を二本挿んでいたが、実のところそれは余分だった。セントラル・アヴェニューは世界でいちばん地味な服装で知られた場所ではないが、男はまるでエンジェル・フード・ケーキの一切れの上に乗ったタランチュラと同じくらい人目を引かなかった。
 肌の色は青白く、無精髭が伸びていた。すぐに伸びる質らしい。髪は黒い巻き毛で濃い眉はもう少しで肉厚の鼻の上で繋がりそうだった。体に似合わず小ぢんまりとした耳で、眼には涙で潤んだような輝きがあった。灰色の眼にはしばしば見受けられるものだ。男は彫像のように立っていたが、しばらくすると微笑みを浮かべた。
 男は舗道をゆっくり横切って、二階へ続く階段を隔てる両開きのスウィング・ドアまで行った。ドアを押し開け、冷たく無表情に往来を一瞥して、中に入った。男が小柄で、もっと目立たない服を着ていたら、強盗でもやるところかと思ったことだろう。しかし、あんな服装で、あの帽子をかぶって、あの体格では考えられない。
 ドアは反動で外に揺れて、あと少しで止まりそうだった。完全に静止する寸前、再び乱暴に外に開かれ、何かが舗道の上を飛び越し、駐車していた二台の車の間の溝に落ちた。それは地面に這いつくばり、追いつめられた鼠のような声をあげた。やがてゆっくり起き上がり、帽子を拾い上げ、後じさりして舗道に上った。痩せて肩幅の狭い褐色の顔の若者でライラック色のスーツにカーネーションを差していた。黒い髪を撫でつけ、口を開けてしばらく情けない声を出していた。人々はぼんやりとそれを眺めていた。それから男は帽子を斜にかぶり直し、こそこそと壁際に寄り、ぎこちない足取りで音もなくブロックを歩いて行った。
 静寂。往来が戻ってきた。私は両開きのドアに向かって歩き、その前に立った。ドアはもう動いていなかった。私とは何のかかわりもなかった。かくして、私はドアを押し開けて中を覗いた。
 暗がりから、腰掛けられそうなほど大きな手が伸びてきて私の肩をつかみ、粉々に握りつぶそうとした。それからその手がドア越しに私を引っ張り込み、苦もなく階段を一段ぶん持ち上げた。大きな顔が私を見た。深く柔らかな声が静かに私に言った。
「ここにどうして黒人がいるんだ? なあ、教えてくれよ、おい」
 そこは暗かった。人気がなかった。階上には人の立てる物音が聞こえてきたが、階段にいるのは我々だけだった。大男は真面目くさった顔で私をじっと見つめ、その手は私の肩を壊し続けていた。
「黒いのだ」彼は言った。「一人追い出してやったよ。放り出すところを見たろう?」
 男は私の肩をやっと放した。骨は折れていないようだが、腕はしびれていた。
「ここはそういう店なんだ」私は肩をさすりながら言った。「どうしろっていうんだ?」
「それを言っちゃ、おしまいだ」大男は正餐後の四匹の虎のようにそっと喉を鳴らした。「ヴェルマがここで働いてたんだ。かわいいヴェルマが」
 男は再び私の肩に手を伸ばした。避けようとしたが、相手は猫より素早かった。鉄の指が私の筋肉をさらに砕きはじめた。
「そうさ」彼は言った。「かわいいヴェルマだ。おれはもう八年も会えずにいたんだ。あんた、ここは黒いのの店になったと言うのか?」
 私はしわがれ声で、そうだと言った。
 男は私をもう二段ぶん持ち上げた。私は身をよじって肘が自由に動く余地を作ろうとした。銃を持ってきてなかった。ディミトリアス・アレイディス捜しにそんな物が要りそうだとは思わなかったのだ。銃を持ってきた方がよかったかどうかは疑わしかった。おそらく大男は私から取り上げて食べてしまうだろう。
「上に行って自分で見てみるんだな」苦しそうに聞こえないような声で、私は言った。
 男はまた私を放した。私を見る灰色の眼には悲しみのようなものがあった。「おれは気分がいいんだ」彼は言った。「誰とも喧嘩なんかしたくない。二人で上に行ってちびちびやろうじゃないか」
「あいつらが飲ませるものか。ここは黒人の店だと言ったはずだ」
「ヴェルマに八年会ってないんだ」深い悲しみを湛えた声で彼は言った。「さよならを言ってから八年もたってる。六年前から手紙も来なくなった。訳があるにちがいない。昔はここで働いていた。かわいいい娘だった。いっしょに上に行こう。なあ」
「分かった」私は叫んだ。「いっしょに行くよ。ただ運ばれるのは願い下げだ。歩かせてくれ。どこも悪くない。大人だし、便所にも一人で行ける。運ぶのだけはやめてくれ」
「かわいいヴェルマがここで働いてたんだ」彼は優しく言った。私の言うことなど聞いていなかった。
 我々は階段を上がった。自分の足で歩いた。肩はずきずきした。首の後ろがじっとり湿っていた。》

まず冒頭の「そこはセントラル・アヴェニューの混合ブロックの一つで、まだ黒人だけが住む地区にはなっていなかった」。原文は<It was one of the mixed blocks over on Central Avenue, the blocks that are not yet all Negro.>。清水氏は「セントラル街には、黒人だけが住んでいるわけではなかった。白人もまだ住んでいた」と、訳している。こなれた訳だが、黄色人種を忘れている。村上氏は如才なく「そこはセントラル・アヴェニューの混合ブロックのひとつだった。つまり黒人以外の人間も、まだ少しは住んでいるということだ」と無難に訳している。

「ディミトリアス・アレイディスという名の理髪師がそこで臨時雇いで働いているかもしれないというのが紹介所の考えだった」は<where an agency thought a relief barber named Dimitrios Aleidis might be working..>。問題はこの<agency>をどう採るかだ。清水氏は「職業紹介所からまわされたディミトリアス・アレイディスという理髪職人がそこで働いているはずなのだった」と訳している。つまり「職業紹介所」という理解である。

村上氏は「ディミトリアス・アレイディスという理髪職人がその店で臨時雇いとして働いているかも知れないという情報を、調査エージェンシーから得ていたのだ」と訳している。つまり探偵業者が頼りにする「調査エージェンシー」と考えている。マーロウは、たしかに、他の機関に調査を依頼することがある。大手の方が広く情報を収集できるからだ。しかし、職業が分かっているなら「職業紹介所」に電話するという手もある。原文からは、どちらとも判別するのは難しい。こういうときは原文通りに訳すことにしている。

「私は男を見つけ出せなかった。が、アレイディス夫人も一銭も払わずにすんだ」は<I never found him, but Mrs. Aleidis never paid me any money either.>。<never>を繰り返すことで対比の効果を狙うチャンドラーらしい文だ。前後をつなぐ<but>をどう処理するか。清水氏は「男はその店にいなかった。結局、私はアレイディス夫人から一門も金をもらえなかった」と、あっさり訳している。

村上氏はというと「結局その男は見つからなかった。でもそんなことを言えば、ミセス・アレイディスにしたって、一銭の報酬も払ってくれなかった」と一応<but>を意識した訳にしている。ただ、「私」と「夫人」を対比して<never>を使っている作家の意図は生かされていない。「私は夫人の意に沿うことができなかったが、夫人もまた私の意に沿うこと(金を出す)ことはしなかった」。これで痛み分け、ということではないのだろうか。

「頼みの綱の両腕はだらりと垂れ」は<His arms hung loose at his aides>。清水氏は「腕をぶらりと下げて」。村上氏は「両腕はだらんと脇に垂れ」と訳している。<aide>は「副官、助手」の意味だが、両氏ともこれについては無視を決め込んでいる。状態としてはその通りなのだが、何か気になる。その後大活躍することになる両腕だ。敬意を表して意訳してみたが、自信はない。

大男の奇抜な服装も要注意だ。「毛羽立ったボルサリーノ帽」は<a shaggy borsalino hat>。映画『ボルサリーノ』以来、知られるようになったが、もともと「ボルサリーノ」はブランド名。この店が開発したソフトな帽子が出るまでは、男性用の帽子は硬い生地で固められた物ばかりだった。問題は<shaggy>だ。「毛羽立った」の意味が主だが、「だらしない」といった意味もある。清水氏は「形のくずれたやわらかいソフト帽」と訳している。村上氏は「けばだったボルサリーノ帽」だ。材質がフェルトということで「毛羽立った」としたが、清水訳も捨てがたい。

もう一つ「タック入りのグレイ・フランネルのスラックス」<pleated gray flannel slacks>がある。清水氏は「よれよれになった灰色のフランネルのズボン」と訳す。どうやら清水氏はこの大男に、伊達ではなく落魄の気配を感じている様子が見て取れる。村上氏は「プリーツのついたグレイのフランネルのズボン」と、こちらはパリッとした印象を受けている様子。正反対だが「pleated」の「プリーツ」とは、折り目というよりは「襞」のことで、男物のズボンなら「タック」の入ったものを意味する。1940年代、ギャング・スターならズート・スーツできめていたはず。だぶだぶのズボンはツータックだったかもしれない。

「男はまるでエンジェル・フード・ケーキの一切れの上に乗ったタランチュラと同じくらい人目を引かなかった」は<he looked about as inconspicuous as a tarantula on a slice of angel food.>。清水氏は「この男はエンジェル・ケーキの上の一匹の毒蜘蛛のように人眼をひいた」。村上氏は「それでも彼はエンジェル・ケーキに乗ったタランチュラみたいに人目をひいた」だ。

<inconspicuous>は<conspicuous>「目立つ、人目を引く」の前に<not>の意味を表す接頭辞<in>がついていることで、「目立たない、人目を引かない」の意味になる。わざわざ、この語を用いているのだから、ここは逆説の用法と考えるべきではないか。それを両氏のように訳したのでは、作者の意志を裏切るような気がする。事程左様にチャンドラーの文章は素直ではない。訳者にすれば、分かりよく訳したいのはやまやまだが、そうすると原文からは外れることになる。痛しかゆしというところか。

「すぐに伸びる質らしい」は<He would always need a shave.>。清水氏は「いつでも、ひげ(傍点二字)のあとが眼につく男にちがいない」。村上氏は「いついかなるときにも髭剃りが必要に見えるタイプなのだろう」。村上氏の訳にまちがいはないのだろうが、必要以上に勿体ぶっている気がする。こういうところが評価の分かれるところだろう。

「両開きのスウィング・ドア」は<double swinging doors>。西部劇に出てくる酒場の入口を思い出してもらえればイメージしやすいのだが、近頃、西部劇自体を目にすることがないので難しいかも知れない。両側の柱に蝶番で止められた二枚のルーバーのドアだ。清水氏は「二重ドア」と訳している。これは『長いお別れ』のときにも書いたので、詳しくはそちらを。村上氏は「両開きのスイング・ドア」としている。

「ぎこちない足取り」と訳したところは<splay-footed>。清水氏は「びっこをひきながら」。村上氏は「偏平足みたいな足取り」。<splay-footed>は辞書で引くと「偏平足」と出てくる。『大いなる眠り』では<flatfoot>を使っていて、この時も双葉氏は「偏平足みたいな歩き方」と訳していた。ただ、この時は村上氏は「はたはたとした足取り」という訳を採用していたのだが、ここでは「偏平足みたいな足取り」と訳している。アメリカ人は見ただけでその人が偏平足だと分かるのだろうか。年来の疑問の一つである。

「かくして、私はドアを押し開けて中を覗いた」は<So I pushed them open and looked in.>。清水氏は「私はドアを押しあけて、中をのぞいた」と、あっさり訳している。村上氏は「なのに私はその扉を押し開け、中をのぞき込んだ。そういう性分なのだ」と、一歩踏み込んで訳している。

「私とは何のかかわりもなかった」< It wasn't any of my business.>と< I pushed them open and looked in.>をつなぐ<so>をどう扱うかのちがいだ。清水氏の「順接」という解釈もありだが、気持ち的には村上氏の「逆接」の方が原文により近い気がする。かといって「そういう性分なのだ」までつけ加えるのはどうだろう。「かくして」前述のような訳に相成った次第。

「自分の足で歩いた」は<He let me walk.>。清水氏はここをカットしている。その前に「われわれは階段を上って行った」とあるから、わざわざ書かなくても分かると考えたのかもしれない。村上氏は「彼は私を歩かせてくれた」とそのまま訳している。その通りなのだが、かなり翻訳調に感じられる訳ではある。ただ、村上訳はすべてがこの調子の翻訳調なので別に違和感はない。そういう文体と思えばいいだけのことだ。それが鼻につくようなら自分で訳してみればいい。それはそれで結構愉しい経験になる。

夏仕舞い

駐車場の屋根を支える柱と柱の間にネットを張り、風船蔓を仕立てるようになってから何年たつだろう。今年のあいにくの天気で、長雨やら颱風やらにいじめられて、種をつけるまでに飛ばされた風船も少なくなかった。蔓の伸びも例年より勢いがなかった。それでも、いくつもの風船が色を濃い茶色に変えた。

それを収穫して種をとった。風船蔓の種は丸薬のような黒い球状で、その上に白いハート型の模様をつける。種が大きく、模様がはっきりしているものが発芽しやすく、大きく育つようだ。今年は例年よりは取れ高が少ないのはやはり天候のせいだろう。

まだ緑の風船をぶら下げている蔓を残し、収穫を終えた蔓を片付けた。ひと夏というもの、朝夕水をやりつづけたので、プランタから流れ出た水で駐車場の外回りのコンクリートには黒い痕がついている。以前、友人が貸してくれた高圧洗浄機を思い出し、ネットで検索した。いろいろあったが、車洗い用の部品がセットになっているものにした。

二日後、玄関前のタイルに寝そべるニコの相手をしていると、宅配の車が停まった。もう来たのかと驚いた。早速組み立てた。三メートル二千円のホースは注文しなかったが、自前のホースリールがぴたりとはまった。スイッチを入れると小気味よい振動が手に伝わってきた。黒い水垢があれよあれよととれていく。

ニコの寝そべるお気に入りの煉瓦タイルもきれいになった。次の日は、掃き出しの前にガーデンチェアとテーブルを置いた同じ煉瓦タイルのポーチも洗浄した。黝ずんでいた目地が白くなって、すっかり見違えるようになった。

風船蔓の色が全部変わったら、プランタの下もきれいにしなければ。そしてプランタをしまったら夏も終わりだ。見上げると、もうすっかり秋の空だ。鱗雲が夕陽を浴びて茜色に染まっている。