marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第22章

―格闘の最中に、突然、市役所が出てくる理由とは―

【訳文】

《スツールを蹴って立ち上がり、脇の下のホルスターから銃を抜いた。いい手際とは言えなかった。上着にはボタンがかかっていたし、手早くもなかった。もし誰かを撃つことになったら、どっちみち私は遅すぎるだろう。
 音もなく急に空気が動き、土臭い匂いがつんと鼻をついた。全くの暗闇の中でインディアンは背後から私を殴り、私の腕を両脇に押さえつけた。彼は私を持ち上げはじめた。銃を抜いて、闇雲に部屋中撃ちまくることもできたが、孤立無援だ。意味があるとも思えなかった。
 私は銃を握っていた手を放し、男の手首をつかんだ。ぬるぬるしてつかみにくかった。インディアンは息をぜいぜい言わせ、脳天が持ちあがるほどの勢いで私を振り下ろした。今や私に代わって向こうがこちらの手首を握っていた。後ろ手に素早くねじり、隅石のような膝を背中に押しつけ、私を跪かせた。頭くらい下げられる。後ろ盾のない身だ。彼は私を屈服させた。
 なぜか叫び声を上げようとした。息が切れて咽喉から声が出せなかった。インディアンは私を横ざまに放り出し、倒れたところを胴締めした。箍がはまったようだ。手が私の首に伸びた。今でも時々夜半に目を覚ました時、あたりに彼の匂いを感じることがある。息をしようと悪あがきをしても、脂ぎった指が食い込んでくる。そういうときは、起き出して一杯やり、ラジオのスイッチをひねる。
 再び灯りがついたとき、ほとんど気を失いかけていた。眼球とその裏側の充血のせいで明かりは血のように赤かった。顔が浮かび上がり、片手がそっと私を探っていたが、もう一人が両手で私の咽喉を押さえ続けていた。
 穏やかな声が聞こえた。「少し息をさせてやれ」
指が緩められた。身をねじって振りほどいた。何か光るものが顎の横を打った。
 穏やかな声が聞こえた。「立たせてやれ」
 インディアンが私を立たせた。壁際に引っ張っていき、両手をねじった。
「素人が」穏やかな声が聞こえた。そして、光るもの、死の如く硬く厳しいそれが、またも私の顔を打った。生温かいものが顔を横切った。舐めると鉄と塩の味がした。
 手が私の札入れを探った。すべてのポケットを探った。ティッシュペーパーに包まれた煙草が出てきて、包みが開かれた。それは私の眼の前を霞のように消えていった。
「煙草は三本だったのか?」声は穏やかだった。光るものがまた私の顎を打った。
「三本だ」私は息を呑んだ。
「他の二本はどこにあるんだ?」
「机の中だ―オフィスの」
 光るものがまた私を打った。「たぶんでたらめだろう―調べればわかることだ」眼の前に、奇妙な小さい赤い光の中に鍵束が見えた。声が言った。
「もう少し首を締めてやれ」
 鉄の指が咽喉に食い込んだ。私は悪臭と腹筋から逃れようと、背も折れよとばかり身を引き剥がした。手を伸ばし、相手の指を一本捻り上げようとした。
 穏やかな声が聞こえた。「驚いた。こいつは学びつつある」
 光るものが再び宙を切った。それは私の顎を一撃した。かつては私の顎だったところを。
「放してやれ。さすがにこたえてるだろう」声が言った。
 重く強い両腕がはなれ、私は前によろめいたが、かろうじて踏みとどまった。アムサーは、私の目の前でほとんど夢見るかのように微かな笑みを浮かべて立っていた。私の銃が彼の繊細かつ愛らしい手に握られていた。銃口が私の胸をねらっていた。
「教えてやれないでもない」彼はその優しい声で言った。「だが、何のために? 薄汚れた小さな世界の薄汚い小男じゃないか。ひとつ賢くなったところで何も変わらない。ちがうかい?」彼はたいそう美しく微笑んだ。
 私は残る力を振り絞って、その笑顔に一発くらわせた。
 その割にはそう悪くもなかった。彼はよろめき、両の鼻孔から血が流れた。それから、踏みとどまり、真っ直ぐに立ち、また銃を構えた。
「かけなさい」彼はそっと言った。「客を待っている。君が殴ってくれてよかったよ。仕事の助けになる」
 私は白いスツールを手探りし腰を下ろした。そして、白いテーブル上で今では再び優しく輝いている乳白色の球体の横に頭を横たえた。私はテーブル上に横向きになった顔で眺めた。ライトが私を魅了した。心和む灯りだ。心和む優しい灯りだった。
 背後も周囲も静まりかえっていた。私はそのまま眠りに落ちたようだ。血まみれの顔をテーブルにのせ、私の銃を手に微笑む痩身の美しい悪魔に見守られながら。》

【解説】

「私を跪かせた。頭くらい下げられる。後ろ盾のない身だ。彼は私を屈服させた」は<He bent me. I can be bent. I'm not the City Hall. He bent me>。清水氏は「私のからだをねじ枉(ま)げた」とだけ、訳している。この辺の分からないところをあっさりパスする潔さは一種の見識である。それに引き比べ、村上氏は「私の身体をのけぞらせた。人間の身体は曲がるようにできている。市役所の建物とはわけが違う。彼は私の身体をぐいと曲げた」と訳している。この訳は傑作だ。

<bend>は「曲げる」という意味だが、普通、前方に曲げることをいう。それに<bend>には「屈服させる」という意味もある。体の自由を奪われたマーロウが、三度も<bent>を繰り返し、二度も<bent me>と書いているのは、屈服させられたことに対する屈辱感があるからだ。極めつけは<I'm not the City Hall>だ。<fight city hall>という成句があって、「官庁(官僚機構)を相手に戦いを挑む、ほとんど無益なことをする」という意味だ。私立探偵に過ぎないマーロウには頼りとする組織がない。その無力感を言いたいのであって、身体の柔軟さの対比に、わざわざ市役所の建物を持ち出す必要はない。

格闘シーンをもう一つ。「倒れたところを胴締めした。箍がはまったようだ」は<got a body scissors on me as I fell. He had me in a barrel>。清水氏は、たた「押えつけた」とだけ。村上氏は「私が倒れたところを、両脚でぐいと挟み込んだ。どうにも身動きがとれない」と訳している。<body scissors>はプロレス技の「ボディーシザーズ」、つまり「胴締め」のことである。<barrel>は「樽」のことだ。

「片手がそっと私を探っていたが、もう一人が両手で私の咽喉を押さえ続けていた」は<a hand pawed me delicately, but the other hands stayed on my throat>。清水氏は「一つの手が私のからだを探った。もう一つの手はまだ私の咽喉を締めつけていた」と訳しているが、<other hands>とあるので、手が三本いることになってしまう。村上訳は「片手が私の身体を注意深く探った。しかしもう一人の両手は私ののどをしっかりと押さえたままだ」。

「光るもの、死の如く硬く厳しいそれが、またも私の顔を打った」は<the shiny thing that was as hard and bitter as death hit me again>。清水氏は「堅い、光ったものが私の顔に飛んできた」と訳している。村上氏は「その光るものが再び私の顔面を打った。死そのもののように硬くて厳しいものだ」と訳している。いうまでもなく拳銃の隠喩である。

「かつては私の顎だったところを」は<the thing that had once been my jaw>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「かつては私の顎であったものを」。

「アムサーは、私の目の前でほとんど夢見るかのように微かな笑みを浮かべて立っていた」は<Amthor stood smiling very slightly, almost dreamily in front of me>。清水氏は「アムサーはかすかな微笑を見せて、私の眼の前に立っていた」と<almost dreamily>をカットしている。村上訳は「アムサーは見えるか見えないかという淡い微笑みを浮かべて、私の前に立っていた。どことなく夢見心地にも見えた」だ。

「その割にはそう悪くもなかった」は<It wasn't so bad considering>。清水氏は「たしかに手ごたえがあった」と勝手に作文している。村上氏は「それは悪い思いつきではなかった」と訳しているが、文末に置かれた<considering>は、もとは前置詞で、後に続く<the circumstances>を略した形。「すべてを考慮すれば、その割に」の意味になる。この一文は、そのまま例文にもある。

「背後も周囲も静まりかえっていた」は<Behind me and around me there was nothing but silence>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「私の背後にも、まわりにも、沈黙のほかには何もなかった」だ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第21章(4)

―にらんで相手の目を背けさせることができなかったのは何故か―

【訳文】
《軽口は関心を引けなかった。テーブルを叩く音は続いていた。私はこつこつという音に耳を傾けた。何かが気に入らなかった。まるで暗号のようだった。彼は叩くのをやめ、腕を組み、背凭れのない椅子の上で体を後ろに傾けた。
「この仕事で気に入っているのは皆が知り合いなことだ」私は言った。「ミセス・グレイルもマリオットのことを知っていた」
「どうやって、それがわかった?」彼はゆっくり訊いた。私は何も答えなかった。
「君は警察に話すべきだと考えているのだろうね―煙草のことを」彼は言った。
 私は肩をすくめた。
「君はどうして放り出されないのかと考えている」アムサーは楽しそうに言った。セカンド・プランティングは君の首をセロリの茎みたいにへし折ることができる。自分自身何故そうしないか訳が分からない。君には何か仮説があるようだ。脅迫に金を出す気はない。金では解決しない―それに、私には多くの友人がいる。当然のことだが、私を不利な状況に立たせるたしかな要素もある。精神科医、性の専門家、神経科医といった、手にはゴム製ハンマー、書棚には精神異常の文学を並べ立てた、いやらしい小男ども。もちろん、彼らは全員医者だ。私が偽医者であるように。気の仮説とやらを聴かせてもらおうか?」
 私は彼を睨み倒そうとしたができなかった。舌なめずりしたい気分だったのだ。
 彼は肩を軽くすくめた。「しゃべりたくない気持ちはわかる。この件は私が考えるべきだった。たぶん君は私が思ってたより知的な人間だったんだろう。私はときどき過ちを犯す。ところで―」彼は前屈みになって乳白色の球体の両側に手を置いた。
「マリオットは女相手の強請り屋だ」私は言った。「そして、宝石強盗の手先だ。しかし、誰が彼にどんな女と親しくなるように命じた? 女の行動を知り、親密になり、懇ろになって、宝石で身を飾らせて外に連れ出し、どこで襲うのかを電話でこっそり教えろ、と」
「それが」アムサーは言葉を選んで言った。「君の考えるマリオットと私の人物像だとすると、ちょっとむかつくね」
 私は身を乗り出した。顔と顔の間が三十センチ足らずまで近づいた。「君はいかさま師だ。どれだけ気のすむように飾り立てたところで、いかさま稼業に変わりはない。名刺のことだけじゃない、アムサー。君の言う通り、名刺など誰にでも手に入る。マリファナじゃないな。よほどの機会でもなければ、そんな安物に手を出すはずはない。しかし、あの名刺はどれも裏に空白部分があった。そして、そこに、或いは印刷のある面にも、見えない文が書かれていたりする」
 彼はわびし気に微笑んだが、私はほとんど見えなかった。手が乳白色の球体の上に動いた。
 灯りが消えた。部屋はキャリー・ネイションのボンネットのように真っ黒になった。》

【解説】

精神科医、性の専門家、神経科医といった、手にはゴム製ハンマー、書棚には精神異常の文学を並べ立てた、いやらしい小男ども」は<Psychiatrists, sex specialists, neurologists, nasty little men with rubber hammers and shelves loaded with the literature of aberrations>。清水訳は「精神分析医、セックス専門医、神経科医など、ゴムのハンマーを持ち、書棚に異常の文学書を並べている、くだらない連中だ」。村上訳は「精神分析医、セックスのスペシャリスト、ゴムの警棒を持ち、精神異常の文学で書棚をいっぱいにしたいやらしい小男」。

まず、<psychiatrists>は「精神科医」であり、「精神分析医」は<psychoanalyst>よく似ているが、別物だ。村上訳は旧訳をベースにしているので、まちがいを引き継ぐことがよくある。これもその一つ。さらに、村上氏は、どうしたことか<neurologists>をトバしてしまっている。そして、決定的なミスは<rubber hammer>を「ゴムの警棒」と訳していることだ。精神病院の警備員を想定したのだろうが、ゴムのハンマーは、脚気の診断等で膝頭の下を叩く小さな器具である。医者を揶揄する象徴として用いていることはいうまでもない。

「私は彼を睨み倒そうとしたができなかった。舌なめずりしたい気分だったのだ」は<I tried to stare him down, but it couldn't be done; I felt myself licking my lips>。清水氏は「私は彼を見つめようとしたが、できなかった。私はただ、唇をなめていた」と訳している。村上訳は「私は彼をじっと見つめて目をそらせてやろうとした。しかし、それはできなかった。私は知らないうちに自分の唇をなめていた」だ。この両氏の訳が、マーロウのどんな気分を言おうとしているのか、がよく分からなかった。

<stare down>は「人を睨みつけて、おとなしくさせる」という意味だ。では、何故そうできなかったのか。セミコロンが使われていることに注意しよう。これは、後の文が前の文を説明するときに使うことがある。<I felt myself licking my lips>を、両氏とも「唇をなめる」と訳しているが<licking one’s lips>は日本語でいう「舌なめずりをする」ことを意味する。その前にあるのが<I feel myself>「~という気分」なら、まちがいない。マーロウは「してやったり」という思いがこみあげていて、睨み倒すことができなかったのだ。

「しかし、誰が彼にどんな女と親しくなるように命じた? 女の行動を知り、親密になり、懇ろになって、宝石で身を飾らせて外に連れ出し、どこで襲うのかを電話でこっそり教えろ、と」は、ちょっと長くなるが<But who told him what women to cultivate-so that he would know their comings and goings, get intimate with them, make love to them, make them load up with the ice and take them out, and then slip to a phone and tell the boys where to operate?>。

清水訳は「しかし、女の行動を知って、彼らに近づき、愛をささやき、金や宝石を身につけさせて、外につれ出し、どこで仕事をすればいいのかを電話で知らせるのにどの女に働きかければいいかということを、誰が教えていたのだろう?」だ。so-that構文を後ろから訳したために、後半の文がもたついて分かりにくい。「電話で知らせるのにどの女に働きかければいいか」と言ってるように読める。

村上訳は「誰かが彼に、どの女をカモにすればいいか耳打ちしていたらしい。その情報によって、彼女たちがどんな行動を取るかを知ることができた。女たちと親しくなり、関係を持ち、宝石で飾り立てさせて外に連れ出し、それから強盗団の連中にこっそり電話をかけ、どこで襲えばいいかを教えていた」。例によって噛みくだいて訳しているが、後半の主語がマリオットになっているので、首謀者の影が薄くなっているのは否めない。

蛇足ながら、キャリー・ネイションという女性は、禁酒運動の時代、斧で酒場のカウンターを叩き割って飲酒癖のある男たちに悔悛を迫ったという伝説の猛女らしい。清水氏は名前を記すにとどめているが、村上氏は括弧内に註を入れている。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第21章(3)

―どうして村上氏は原文にない「死者」を訳に付け足したのだろう―

【訳文】

《「どうしてそうなったのか知りたいという訳か?」
「そうだ。こちらが百ドル払わなきゃいけないくらいだ」
「その必要はない。答えは簡単だ。私の知らないこともある。これはそのひとつだ」
 一瞬、男を信じかけた。男の顔は天使の羽のように滑らかだった。
「なら、どうして百ドルと臭くてタフなインディアン、それと車を寄こしたんだ? 時に、インディアンは臭くなきゃいけないのか? 雇い主なら、風呂を使わせることくらいできるだろう」
「彼は生まれつきの霊媒だ。ダイヤモンドのように稀少で、ダイヤモンドと同じように、汚れた場所で見つかることもある。君は私立探偵だったな?」
「そうだ」
「君は極めて愚かな人間のようだ。愚かに見える。愚かな仕事をしている。そして、愚かしい任務でここにやってきた」
「なるほど」私は言った。「私は愚かだ。のみこむのに時間がかかる」
「そして、私にはこれ以上君を引き留める必要がない」
「そちらが引き留めてるんじゃない」私は言った。「こちらが引き留めてるんだ。あの名刺が煙草の中に入っていたわけを知りたいのでね」
 彼は肩をすくめた。これ以上小さくはできないすくめ方だった。「私の名刺は誰でも入手可能だ。私は友人にマリファナ煙草を贈ったりしない。君の質問は依然として愚かしい」
「これで少しは機嫌が直るかもしれない。その煙草は日本製か中国製の安っぽい模造鼈甲のケースに入っていた。どこかで見た覚えは?」
「いや、まったく覚えがない」
「もう少し景気よくすることもできる。そのケースはリンゼイ・マリオットという名の男のポケットに入っていた。名前を聞いたことは?」
 彼は考えた。「聞いたことがある。一度面倒を見た。カメラ恐怖症だったんだ。映画界入りを考えていたようだが、時間の無駄遣いだった。映画界は彼を欲しがらなかった」
「察しはつく」私は言った。「彼の写真はイサドラ・ダンカンのように見えただろう。もっと大きなのが残っている。百ドル札を送りつけた理由は?」
「ミスタ・マーロウ」彼は冷ややかに言った。「私は莫迦ではない。罪深いことに、とても微妙な職業に携わっている。私はもぐりの医者だよ。つまり、私は医師たちの小さな怯えた利己的な組合では達成できないことをしているんだ。年がら年中、君みたいな連中からの危険にさらされている。危険に見舞われる前にやるだけのことをやったまでだ」
「かなり些細なことだったというのか、私の場合?」
「無に等しいね」彼は丁重に言った。そして左手で奇妙に目を引く動きをして見せた。それから彼は手をゆっくりと白いテーブルの上に置き、それを見た。それからまた底の知れない眼をあげ、両腕を組んだ。
「聞こえたかな―」
「臭いがしてるよ」私は言った。「彼のことは考えていなかった」
 私は左の方を向いた。インディアンが黒いヴェルヴェットを背に、三つ目のスツールに座っていた。
 彼は別の服の上から白いスモックのようなものを着ていた。身じろぎもせずにじっと坐っていた。眼を閉じ、頭は少し前に傾けていた。まるで一時間眠り込んでいたとでもいうように。浅ぐろく逞しい顔は影に包まれていた。
 私はアムサーを振り返った。彼は微かな微笑を浮かべていた。
「婆さんが見たら入れ歯を落とすだろう」私は言った。「本当のところ彼は何をしてるんだ―君の膝の上でシャンソンでも歌うのか?」
 彼は苛立たしそうなふりをした。「要点を言ってくれないか」
「昨夜、マリオットは私を付き添いに雇った。指定された場所で悪党に金を払うために、出かける必要があったんだ。私が頭を殴られてのびている間にマリオットが殺されていた」
 アムサーの顔には何の変化も現れなかった。叫び声も上げないし、壁をよじ登ろうともしなかった。しかし、反応が鋭くなった。腕をほどいてまた別の方法で組み直した。口元は険しかった。その後は、市立図書館前のライオンの石像のように動かなかった。
「煙草は彼から見つかった」私は言った。
 彼は冷ややかに私を見た。「しかし、警察じゃないな。警察はまだここに来ていない」
「正解」
「百ドルでは」彼はとても穏やかに言った。「足りないようだ」
「それで何を買うかによるな」
「煙草は君が持ってるのか?」
「そのうちのひとつを。しかし、何の証拠にもならない。お言葉通り、名刺は誰でも入手可能だ。煙草がなぜそこにあったのかが分からない。何か、考えはあるか?」
「君はミスタ・マリオットのことをどれだけ知っているんだ?」彼は優しく訊ねた。
「全然知らない。しかし、分かっていることもある。明々白々でよく目立っていた」
 アムサーは白いテーブルを軽く叩いた。インディアンはまだ眠りこけていた、巨大な胸に顎をのせて。重い瞼はしっかり閉じられていた。
「ところで、ミセス・グレイルに会ったことはあるか? ベイ・シティに住む金持ちの女性だ」
 彼はぼんやりとうなずいた。「言語中枢に問題を抱えていた。彼女には軽い言語障碍があった」
「いい仕事をしたな」私は言った。「彼女は私と同じくらい上手に話す」》

【解説】
「臭くてタフなインディアン」は<a tough Indian that stinks>。大したところではないが、清水氏は「臭いインディアン」、村上氏も「ひどい匂いのするインディアン」と両氏とも<tough>をカットしている。それでいて、村上氏は<and a car>としか原文には書いてないのに「でかい車」とわざわざ大きさを強調している。

「彼は生まれつきの霊媒だ」は<He is a natural medium>。清水氏は「彼はごくしぜんな仲介役だ」と訳している。<medium>は、衣服のMサイズを表すように、「中間」の存在として両者の間をつなぐものだ。しかし、アムサーが「心霊顧問医」を名乗っていることから考えると「霊媒」と訳すのが適当だと思う。村上訳は「彼は生まれつきの霊媒なのだ」。

「私は愚かだ。のみこむのに時間がかかる」は<I'm stupid. It sank in after a while>。清水氏は「いかにも、つまらん用件かもしれないが……」とお茶を濁している。<sink in>は「(教訓、戒めなどが)十分に理解される、心に沁み込む」ことを意味している。村上訳は「私はたしかに愚かしい。それが理解できるまでに時間がかかったが」。このマーロウの台詞が次のアムサーの「そして、私にはこれ以上君を引き留める必要がない」を引き出している。清水訳では「そして、ここにはもう用はないはずだ」と訳されていて、一応つながってはいるが<after a while>が響いていない。

「そちらが引き留めてるんじゃない」、「こちらが引き留めてるんだ」は<You're not detaining me><I'm detaining you>。清水氏は「ところが、あるんだ」と前の台詞をつなげて短くまとめている。村上氏は「あなたは私をここに引き留めていない」、「私があなたを引き留めているのです」と丁寧だ。村上訳のマーロウは、アムサーに対してとても紳士的に会話している。この辺は訳者の解釈次第だ。

「彼は肩をすくめた。これ以上小さくはできないすくめ方だった」は<He shrugged the smallest shrug that could be shrugged>。清水氏はあっさりと「彼はかすかに肩をゆすった」と訳す。<shrug>は、アメリカ人がよくやる例の(両方の手のひらを上に向けて)肩をすくめるポーズのことだが、あまりに小さければ「ゆすった」くらいにしか見えないのかもしれない。村上訳は「彼はちらりと肩をすくめた。そんなにも微かに人は肩をすくめられるものなのだ」。マーロウが、ではなくて、村上氏自身が、アムサーに感心しているように思えてくる。

「これで少しは機嫌が直るかもしれない」は<I wonder if this would brighten it up any>。清水氏は「では、こういうことがあるが、どうだ?」と切り口上。それに対して村上訳はというと「念のためにうかがいたいのですが」とずいぶん下手に出ている。しかし、どちらも原文に忠実な訳ではない。<brighten up>は「(顔を)輝かせる、明るくさせる」という意味で「機嫌が直る」ことを表す。マーロウは、知らぬ顔の半兵衛を決め込むアムサーに、ゆさぶりをかけているのだ。

「もう少し景気よくすることもできる」は<I can brighten it up a little more>。<brighten up>が繰り返されているのだが、清水訳は「では、もう少し話そう」。村上訳は「じゃあ、このようにうかがいましょう」と、そっけない。

「そのケースはリンゼイ・マリオットという名の男のポケットに入っていたは<The case was in the pocket of a man named Lindsay Marriott>。清水氏は「そのケースはリンゼイ・マリオという男のポケットに入っていたんだ」と訳している。そこを村上氏は「そのシガレット・ケースは死者のポケットの中に入っていた。リンゼイ・マリオットという名の死者です」と、二度も「死者」という言葉をつけ加えている。これはやり過ぎというものだ。マーロウは、情報を小出しにしながら、アムサーがどこで本当のことを話すか探ろうとしている。マーロウがここでマリオットを「死者」と呼ぶことは考えられない。相手に情報を与えず、相手から情報を引き出すのが警察のやり方だ。

「罪深いことに、とても微妙な職業に携わっている。私はもぐりの医者だよ。つまり、私は医師たちの小さな怯えた利己的な組合では達成できないことをしているんだ」は<I sin in a very sensitive profession. I am a quack. That is to say I do things which the doctors in their small frightened selfish guild cannot accomplish>。清水訳は「私は微妙な職業にたずさわっている。私は医者だが、ありきたりの医者ではない」と、実にあっさりしたものだ。

村上氏は「とても微妙な職業に携わっている。私は正式の医者ではない。つまり世間の医者たちが、狭い仲間内の利己的な縛りのために、怖くてとても手が出せないようなことをやっているわけだ」と後半は、噛みくだいて訳しているが、前半は旧訳に手を入れただけだ。<sin>や<I am a quack>の持つ意味合いが伝わってこない。アムサーは語の真の意味で「確信犯」であることを宣言している。<quack>は「偽医者、山師、いかさま師」などを指す言葉で「正式な医者ではない」などという曖昧な言い方をしてはいない。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第21章(2)

―指輪がフィンガー・ブレスレットを連想させた、その理由―

【訳文】

《艶やかな巻き毛の、浅黒く痩せ細ったアジア風の顔をした女だ。耳には毒々しい色の宝石、指にいくつも大きな指輪をしていた。月長石や銀の台に嵌めたエメラルドは本物かもしれないが、どういうわけか十セント・ストアのフィンガー・ブレスレットのような安物に見せようとしていた。手はかさかさして黒く、若さもなく、指輪に似つかわしくなかった。
 女が話し出した。聞き覚えのある声だった。「ああ、ミースタ・マーロウ、よおこそいらっしゃいました。アムサーがとっても喜ぶでしょう」
 私はインディアンがくれた百ドル札を机の上に置いた。後ろを振り返ると、インディアンはもうエレベーターで下に降りていた。
「ご厚意は有難いのだが、こいつは受け取れない」
「アムサー、彼はあなたを雇いたがっている、ちがいますか?」彼女はまた微笑んだ。唇がティッシュペーパーのような音を立てた。
「まず、その仕事がどんな仕事かを知る必要がある」
 彼女は肯き、ゆっくり席から立ち上がった。人魚の皮膚のようにタイトなドレスが私の前で衣擦れの音を立てた。いいスタイルをしていた。腰から下が上より四サイズ大きいのが好みなら。
「ご案内します」彼女は言った。
 彼女が鏡板についたボタンを押すと、ドアが音もなく開いた。その向こうは乳白色に輝いていた。私は通り抜ける前に彼女の笑顔を振り返った。今やそれは古代エジプトより年古りていた。私の背後でドアが静かにしまった。
 部屋には誰もいなかった。
 床から天井まで黒いヴェルヴェットで覆われた八角形の部屋だった。高く離れた黒い天井も、ヴェルヴェットかもしれない。真っ黒な光沢のない絨毯の中央に、二人が肘を載せるのに程よい大きさの八角形の白いテーブル。その真ん中に黒い台の上に載せられた乳白色の球体が置かれている。光はそこから漏れていた。仕掛けは分からない。テーブルの両側にテーブルを小さくした八角形の白いスツールがあった。壁の向こうに、もう一つ同じようなスツールがある。窓はなかった。部屋には他に何もない。壁には照明器具さえついていなかった。どこかに別のドアがあるとしても見つけることができなかった。振り返ってみても、自分の入ってきたドアも見つけられなかった。
 おそらく十五分ほど突っ立っていた。誰かに見られているような気がしていた。どこだか分からないが、たぶん、どこかに覗き穴があるはずだ。私は探してみようともしなかった。自分の息遣いが聞こえた。部屋があまりに静かで、鼻を通る息の音さえ、小さなカーテンがそよぐ音のように優し気に聞こえた。
 見えないドアが部屋の奥に開き、一人の男が入ってきた。ドアが後ろで閉まった。その男はうつむいたまま真っ直ぐテーブルまで歩き、八角形のストゥールに腰を下ろし、手をさっと動かした。初めて目にするような美しい手だった。
「どうぞおかけください。私の真向かいに。煙草を吸ったり、そわそわしたりしないで。リラックスするよう心がけてください。さて、どういうご用向きでしょう?」
 私は腰を下ろし、煙草を口にくわえ、唇のあいだで転がしたが、火はつけなかった。私は男を観察した。痩せて背が高く、背筋は鉄の棒でも入れたように真っすぐだった。これ以上はない白さと細さを併せ持つ白髪だった。絹のガーゼで漉したようだ。皮膚は薔薇の花弁のようだった。三十五歳、もしかしたら六十五歳かもしれない。年齢不詳だ。髪は、往時のバリモアを思わせる端正な横顔から、真っすぐ後ろに撫でつけられていた。眉毛は壁や天井、床と同じように漆黒だった。眼はあまりに深過ぎ、底が知れなかった。薬づけにされた夢遊病者の眼だ。前に読んだ井戸の話を思い出す。古い城にある、九百年前の井戸。そこに石を落として待つ。耳を澄ませ、待ちくたびるほど待ち、やがてあきらめて笑いながら立ち去ろうとしたとき、井戸の底から、微かな水音が帰ってくる。信じられないほど、小さく、遥か彼方から。
 男の眼はそれくらい深かった。また、およそ感情や魂を欠いていた。ライオンが人を食いちぎるのを見ても動じず、体の自由を奪われた男がまぶたを切り裂かれ、熱い太陽の下で叫び声を上げていても見続けていられる眼だった。
 ダブル・ブレストの黒いビジネス・スーツから職人の腕の良さが見て取れた。虚ろな目は私の指先を眺めていた。
「どうか、落ち着いて」彼は言った。「波動が壊れ、集中力を妨げるので」
「氷を溶かし、バターを溶かし、猫を鳴かせる」私は言った。
 彼は世界一微かな微笑を浮かべた。「減らず口をきくために来たわけじゃないだろう」
「なぜ私がここに来たのか、お忘れのようだ。それはともかく、百ドルは秘書に返しておいた。私が来たのは、覚えているかもしれないが、煙草の件だ。マリファナが詰まったロシア風煙草で、吸い口に君の名刺が丸めて詰められていた」》

【解説】

「艶やかな巻き毛の、浅黒く痩せこけたアジア風の顔をした女だ」は<She had sleek coiled hair and a dark, thin, wasted Asiatic face>。カーラーで巻いたカーリー・ヘアだと思うのだが、両氏とも、全く異なる訳になっている。清水氏は「彼女は髪をぐるぐる頭にまいて、アジア人種らしい浅ぐろい顔をしていた」と訳している。<coiled hair>を「ぐるぐる巻き」と解釈したわけだ。村上訳は「彼女の髪は艶やかにウェイブしていた。顔立ちはアジア風で、浅黒くこけて、やつれた趣きがあった」だが、コイル状にした髪をウェイブとは言わないだろう。

「耳には毒々しい色の宝石、指にいくつも大きな指輪をしていた」は<There were heavy colored stones in her ears and heavy rings on her fingers>。清水氏は「耳には毒々しい色彩の大きな宝石をたらし、指には大きな指輪をいくつもはめていた」と訳している。村上氏は「耳には派手に彩色した飾りがつき、手の指には重い指輪がはまっていた」と訳している。<colored stone>は「ダイヤモンド以外の天然宝石」のことだが、村上氏はそうはとっていないようだ。また、いつもは単数、複数にこだわる村上氏が、二つの<s>を無視しているのも訳が分からない。

「どういうわけか十セント・ストアのフィンガー・ブレスレットのような安物に見せようとしていた」は<but somehow managed to look as phony as a dime store slave bracelet>。清水氏は「どういうわけか、十セント・ストアのまがいものののように見えた」と訳している。村上訳は「それをわざと量販店で売られる安物の腕輪に見せかけているみたいにも見える」だ。清水氏は知らぬ顔を決め込んでいるが、<slave bracelet>というのは、ベリー・ダンスのダンサーがつけているような、指から手の甲にかけてチェーンでつないだブレスレットのことをいう。「腕輪」にはちがいないが、単なるブレスレットとは形状が異なる。

「手はかさかさして黒く、若さもなく、指輪に似つかわしくなかった」は<And her hands were dry and dark and not young and not fit for rings>。清水氏は「手は黒く、かさかさした感じで、指環にそぐわなかった」と、語順を入れ替えることで<not young>をカットしつつ、感じは伝えようとしている。それに対し、村上氏は「手はかさかさして浅黒く、若さがうかがえず、指輪はサイズが合っていなかった」と訳している。

主語は<her hands>であって、指輪ではない。指輪に手のサイズが合わないというのは本末転倒だが、チャンドラーはそう書いている。貧相な手の方が本物の宝石に負けている、と言いたいのだ。訳者が勝手に変えるべきではない。これは想像だが、潤いのない痩せた指にはまった大き目の指輪が<slave bracelet>を連想させたのではないだろうか。指輪が何故フィンガー・ブレスレットに繋がるのか、それで分かったような気がする。もしかしたら、村上氏は<slave bracelet>の形状をご存じなかったのかもしれない。

「いいスタイルをしていた。腰から下が上より四サイズ大きいのが好みなら」は<and showed that she had a good figure if you like them four sizes bigger below the waist>。清水氏は「美しい線を見せていた。腰から下の線が特に魅力的だった」と訳している。訳者の好みを主人公に押しつけてはいけない。村上訳は「彼女がとても素晴らしい身体をしていることが見て取れた。腰から下が、上より四サイズばかり大きいところがお気に召せばだが」。

「今やそれは古代エジプトより年古りていた」は<It was older than Egypt now>。初対面の時の彼女の印象に触れた「手が触れたら粉々になってしまいそうな、からからに干からび、こわばった微笑」を踏まえた、いわば駄目押しである。清水氏はここをカットして「私は彼女の微笑をもう一度見なおしてから、中に入った」と書いている。これでは、マーロウが女の微笑を、どう受け止めたのか分からない。村上氏は「今ではそれは古代エジプトよりも過去のものになっていた」と訳している。「過去のもの」という訳では、女がもう笑っていなかったようにも読める。そうではない。エジプトのミイラのように干からびた微笑の乾燥度がより強まった、と言っているのだ。

「ダブル・ブレストの黒いビジネス・スーツから職人の腕の良さが見て取れた」は<He wore a double-breasted black business suit that had been cut by an artist>。清水訳は「ダブル・ブレストの地味な服を着ていたが、画家がデザインをしたようにからだに合っていた」。村上訳は「ダブルの黒いビジネス・スーツを着ていた。芸術的なまでに美しくカットされたスーツだ」。<artist>ときたら、画家・芸術家という訳は考えものだ。その道の名人・達人という意味もある。一流のテイラーなら立派な<artist>である。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第21章(1)

―サンセット・ブルヴァードを、素早く通り抜けられるはずがない―

【訳文】

《車はダーク・ブルーの七人乗りのセダンだった。最新型のパッカード、特注品。真珠の首飾りをつけたときに乗るような車だ。消火栓の脇に停められていて、木彫のような顔をした浅黒い異国風の運転手がハンドルを握っていた。革張りの内装は、グレイのシャニール糸によるキルト仕上げだ。インディアンが私を後ろの席に押し込んだ。一人でそこに座っていると、葬儀屋がたっぷりと手をかけて上品に仕上げたハイクラスの死体になった気分だった。
 インディアンが運転手の隣に乗り込み、車はブロックの真ん中で方向を転じた。通りの向こう側で警官が「おい」と半端な声をかけた。本気ではないみたいに。それからそそくさと屈んで靴ひもを締めた。
 我々は西に向かい、サンセットに立ち寄り、音もなく急いでそこを通り過ぎた。インディアンは身じろぎもせず運転手の傍に坐っていた。その個性的な匂いがときどき私のところまで漂ってきた。運転手は半ば眠っているように見えたが、コンヴァーティブル・セダンに乗った走り屋の車が牽引されているように見えるほど軽々と抜き去った。ある種の運転手がそうであるように、彼が通ると信号は必ず青に変わった。ひとつの例外もなかった。
 一マイルか二マイルほどカーブが続く、きらびやかなサンセット・ストリップを通り抜けた。映画俳優の名前がついた骨董屋、手編みレースと古い白目でいっぱいのウィンドウ、禁酒法時代を潜り抜けたギャング上がりが経営する、評判のシェフと評判の賭博場を擁した今を時めくナイトクラブ、今となっては流行遅れのジョージ王朝風のコロニアル建築、ハリウッドの人買いどもが金の話を止めない、堂々たる近代的ビルディング、女の子が白い絹のブラウスに前立てのついた筒形軍帽をかぶり、尻から下は黒光りする仔山羊革の長靴しか履いていない、どうにも場違いなドライブイン・レストランを通り過ぎた。あれやこれやを通り過ぎ、ベヴァリーヒルズの乗馬道へと続く広くなだらかなカーブを下りた。霧の出ていない夜で、南の灯りのスペクトルが全色くっきり見えた。丘の上に影を宿す邸宅群の前を北に向かい、ベヴァリーヒルズを抜け切ると、曲がりくねった丘陵地帯の並木道を上った。突然、ひんやりとした夕暮れと海からの風が流れ込んできた。
 あたたかな午後だったが、既に熱気は去っていた。遥かなビルの遠灯りや、通りから離れたところに無数の灯りが連なる邸宅群が、眼の前を慌ただしく通り過ぎた。芝生の敷かれた大きなポロ競技場と、隣接するやはり大きな練習場を迂回するために坂を下り、また丘の上に上り、山の方へ道をとると、きれいに舗装されたコンクリートの急な坂道がオレンジの木立の中を抜けていた。ここはオレンジの産地ではない。どうせ金持ちの道楽だろう。一つまた一つと億万長者の邸の窓明りは消えていき、道が狭くなると、そこがスティルウッド・ハイツだった。
 セージの匂いが渓谷から立ち上ってきて、死んだ男と月のない空を思い出させた。スタッコ壁の家がぽつぽつと丘の斜面に浅浮き彫りのように嵌め込まれていた。やがて家というものが見えなくなった。暗い山麓の丘の上には一番星、二番星が瞬き出し、コンクリートのリボンめいた道の片側は急な崖で、スクラブオークとマンザニータの灌木が絡み合っていて、立ち止まってじっと待っていたら鶉の鳴き声が聞こえてきそうだった。道の反対側は粘土の土手になっていて、端には選りすぐりの野生の花がベッドに行きたくない悪戯っ子のようにぶら下がっていた。
 やがて、急なヘアピン・カーブに突入した。大きなタイヤが小石をはじきとばし、車はエンジン音を響かせ、野生のゼラニウムが続く長いドライブウェイを驀進した。丘を上りつめたところに、灯台のようにぽつんと、かすかに灯りがともる、山塞か、鷲の巣みたいに聳える、スタッコ壁とガラス煉瓦の無骨な建物があった。飾リ気のない今風の建物だったが、見苦しくはなかった。いかにも心霊顧問医が看板を掲げるに相応しい場所だった。ここならどんな叫び声も聞かれる恐れはない。
 家の横に車が停まると、厚い壁の中にはめ込まれた黒いドアの上に灯りがついた。インディアンがぶつぶつ言いながら車を降り、後ろのドアを開けた。運転手が電子ライターで煙草に火をつけ、強い香りが夜気の中、仄かに後部席まで漂ってきた。私は車を降りた。
 我々は黒いドアまで歩いた。それは虚仮威しのように、ひとりでにゆっくりと開いた。その向こうに狭い廊下が探りを入れるように家の奥へと続いていた。ガラス煉瓦の壁を通して灯りが漏れていた。
 インディアンは唸った。「ふん、入るんだ、大物」
「君が先だ、ミスタ・プランティング」
 彼はしかめっ面をして中に入った。我々が入るとドアは閉まった。開いた時と同じように音もなく、ミステリアスに。狭い廊下の突き当たりで、小さなエレベーターに二人が身を押し込むと、インディアンはドアを閉めてボタンを押した。エレベーターは音もなく静かに上がった。それまでのインディアンの臭いなど、今と比べたら予兆に過ぎなかった。
 エレベーターが止まり、ドアが開いた。灯りのともる塔屋の部屋に足を踏み入れた。日はまだ微かに名残りをとどめていた。窓だらけの部屋で、遠くに海が揺らめいていた。宵闇がゆっくりと丘を上りつつあった。窓のないところはパネル張りの壁だった。床には淡い色合いの古ぼけたペルシャ絨毯が敷かれていた。古い教会から盗んできた木彫が施されたように見える受付用の机があった。机の向こう側に女が一人腰かけてこちらを見て微笑んでいた。手が触れたら粉々になってしまいそうな、からからに干からび、こわばった微笑だ。》

【解説】

「木彫のような顔をした浅黒い異国風の運転手」は<a dark foreign-looking chauffeur with a face of carved wood>。清水氏はここを「外国人らしい運転手」とさらりと流している。村上訳は「木彫りみたいな顔つきの、肌の浅黒い外国人風の運転手」。

「革張りの内装は、グレイのシャニール糸によるキルト仕上げだ」は<The interior was upholstered in quilted gray chenille>。清水氏はこの一文をまるまるカットしている。村上訳は「内装は革張りで、グレーの高級糸でキルト縫いされていた」だ。 <chenille>は「毛虫糸」と呼ばれる、ビロード状に毛を立てた飾り糸のこと。欧米の棺桶の内装を思い出させる一文で、この文がないと、マーロウがなぜ自分を死体のように思うのか説明がつかない。

「我々は西に向かい、サンセットに立ち寄り、音もなく急いでそこを通り過ぎた」は<We went west, dropped over to Sunset and slid fast and noiselessly along that>。この<Sunset>が厄介だ。清水氏は「私たちはサンセット・ブールヴァードを西に向かって進んだ」と訳している。大意はこれでまちがっていない、と思う。村上氏はそこを「我々は西に向かった。サンセット大通りに入り、無音のうちに素早くそこを通り抜けた」と訳している。

<dropp over>とは「(予告なしに)ひょっこり訪ねる、ちょっと立ち寄る」ことで、清水氏はカットしているが、村上氏はここを「サンセット大通りに入り」と解釈したのだろう。問題は、サンセット・ブルヴァード(大通り)が「素早くそこを通り抜け」られるほど短くないことだ。L.Aのダウンタウンから太平洋に出るまで35キロも続く長い道だからだ。

もしかしたら、この「サンセット」は「サンセット・ストリップ」を指しているのではないだろうか。我々の年代には、TV番組『サンセット77』のテーマ曲として何度も口にした懐かしい響きだ。村上氏も「目抜き通り(ザ・ストリップ)」と訳しているように、レストランや賭博のできるクラブの犇めく観光名所である。後で、本文にもその<Strip>が出てくるので、多分まちがいない。

つまり、この一文は後で詳しく描写する情景が何なのかを読者に紹介している部分。本筋は、この後で訪れる心霊顧問医の家の場面であって、サンセット・ストリップの猥雑な通りや、その後の山麓のドライブは、いわば添え物。ただし、チャンドラーは他のハード・ボルド作家に比べ、情景描写を大切に扱う作家だ。情景描写には話者の感情が反映する。読者は知らず知らずのうちにマーロウに共感して物語世界に分け入ってゆくことになる。

「手編みレースと古い白目でいっぱいのウィンドウ、禁酒法時代を潜り抜けたギャング上がりが経営する、評判のシェフと評判の賭博場を擁した今を時めくナイトクラブ」は<past the windows full of point lace and ancient pewter, past the gleaming new nightclubs with famous chefs and equally famous gambling rooms, run by polished graduates of the Purple Gang>。

ここを清水氏は「有名な料理人頭と高級賭博場で知られているナイト・クラブ」で済ませてしまっている。村上訳だと「アンティック・レースと、年代物の白磁がいっぱいにならんだウィンドウ、評判のシェフと評判の賭博部屋を備えた新しいきらびやかなナイト・クラブ(経営するのはギャング上がりの曰くありげな連中だ)」。因みに<pewter>は「白目、白鑞(しろめ)」のことで、スズを主成分とする古くからある低融点合金のことで、多くは装飾品に用いられている。白磁は文字通り、磁器のことで全くの別物である。

「芝生の敷かれた大きなポロ競技場と、隣接するやはり大きな練習場を迂回するために坂を下り」は<We dipped down to skirt a huge green polo field with another equally huge practice field beside it>。清水氏は「大きなポロ競技場をひとまわりすると」、と高低差も練習場も省略して訳している。村上氏は「一段低くなったところに、緑の芝生を敷いた大きなポロ競技場と、それに負けない大きさを持つ隣接した練習場があった。その周りを迂回し」と訳している。

「セージの匂いが渓谷から立ち上ってきて」は<The smell of sage drifted up from a canyon>。清水氏は「谷あいからやまよもぎ(傍点五字)の匂いがただよってきて」と訳し、村上氏は「サルビアの匂いが谷間から風に乗って上ってきて」と訳している。これについては第十章で言及済みなので省略する。

「コンクリートのリボンめいた道の片側は急な崖で、スクラブオークとマンザニータの灌木が絡み合っていて」は<the concrete ribbon of road and a sheer drop on one side into a tangle of scrub oak and manzanita>。清水氏は「コンクリートのリボンのような道路の片側には、灌木がしげっていて」と、ここもあっさり訳している。村上訳は「コンクリート舗装の道路がリボンのように連なり、その片側は切り立った崖になっていた。崖の下はヒイラギガシとウラシマツツジのもつれあった茂みだ」。

植物の名前を辞書の通りに訳せばヒイラギガシもウラシマツツジもアリだろうが、カリフォルニアの山地に生える灌木の名としては、スクラブオークとマンザニータとする方が親切ではないだろうか。和名を図鑑で調べても、日本の在来種の説明が出てくるばかりで、山火事の後に萌え出るスクラブオークの写真も、幸運の飾りとして使われるマンザニータの木の枝の写真も出てこない。近頃ではその気になればネットで写真が見られる。下手に和訳するより、原語の音を残す方が調べやすいと思う。

「それまでのインディアンの臭いなど、今と比べたら前触れに過ぎなかった」は<Such smelling as the Indian had done before was a mooncast shadow to what he was doing now>。狭いエレベーターに二人して閉じ込められた災難をぼやいているのだが、清水氏はここを「インディアンのすることがますます不可解になってきた」と訳している。<cast shadow>は「前兆」を意味する。村上訳だと「私がそれより前に嗅がされたインディアンの体臭など、そのときのものに比べたら。慎み深い前触れに過ぎなかった」になる。

「窓のないところはパネル張りの壁だった」は<There were paneled walls where there were no windows>。清水氏はここを「窓がないところはガラスをはめこんだ壁で」と訳しているが「ガラスをはめこんだ」ら、窓になってしまわないか。村上訳は「窓のないところはパネル張りの壁になっている」だ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第20章

―帽子のリボンと汗どめバンドの取り違えが命取り―

【訳文】

《インディアンは臭った。ブザーが鳴ったとき、小さな待合室の向こう側にはっきりと臭いがしていた。私は誰だろうと思ってドアを開けた。廊下のドアを入ったところに、まるで青銅で鋳造されたみたいに男が立っていた。腰から上の大きな男で、胸が分厚かった。浮浪者のように見えた。
 茶色のスーツを着ていたが、その上着は男の肩幅には小さすぎ、ズボンはおそらく腰回りが少々きつかったろう。帽子は少なくとも二サイズは小さく、サイズに合った誰かがかいた大量の汗の痕があった。家に風向計を取り付けたみたいなかぶり方だった。襟は馬の首輪のようにぴったりしていて、首輪とほぼ同じ色合いの汚れた茶色だった。黒いネクタイがボタンをはめた上着の外にぶら下がっていた。プライヤでも使って締め上げたのか結び目が豆粒大になっていた。汚れた襟の上の、むき出しになった立派な喉のまわりには、老いを隠そうとする老嬢のように、幅広の黒いリボンを巻いていた。
 大きくて扁平な顔つきで、肉づきのよい高い鼻は巡洋艦の船首のように頑丈そうだ。瞼のない眼、垂れ下がった顎、鍛冶屋のような肩、そして短くてチンパンジーのように不様な脚をしていた。後になってわかったが、ただ短いだけだった。
 もう少し小奇麗にして白いナイトガウンでも着せたら、ひどく性悪なローマの元老院議員のように見えただろう。
 彼の匂いは未開人の土臭さだった。都会のいやらしい汚泥のそれではなかった。
「ふん」彼は言った。「早く来い。すぐ来い」
 私はオフィスに戻り、彼に向かって指をくいっと動かした。彼は壁の上を蠅が這うような音を立てて私に従った。私は自分の机を前にして座り、専門家らしく回転椅子を軌らせ、反対側にある客用の椅子を指さした。彼は座らなかった。小さな黒い眼には敵意が見えた。
「どこへ行くんだ?」私は言った。
「ふん、わたし、セカンド・プランティング。わたし、ハリウッド・インディアン」
「座ったらどうだ、ミスタ・プランティング」
 男は鼻を鳴らし、穴が大きく開いた。最初から鼠穴くらいはあったが。
「名前、セカンド・プランティング。ミスタ・プランティング、ちがう」
「それで、ご用件は?」
 彼は声を張り上げ、厚い胸を響かせ朗々たる音吐で詠唱し始めた。「彼は言う、すぐ来い。偉大な白人の父は言う、すぐ来い。彼は言う、炎の戦車に乗せて連れて来い。彼は言う―」
「わかったから、ラテン語遊びはよしてくれ」私は言った。「私はスネークダンスを見に来た女教師じゃないんだ」
「くそくらえ」インディアンは言った。
 我々は机をはさんで暫く互いをあざ笑った。あざ笑いは相手の方がうまかった。それからさも嫌気が差したという風に帽子を脱いでひっくり返した。汗どめバンドの下に指を入れてぐるりと回した。それで汗どめバンドが視野に入ったが、その名に恥じない仕事ぶりだった。彼は端からペーパークリップを外し、折り畳んだティッシュペーパーを机の上に投げると、噛み痕のある指の爪で腹立たし気に指さした。きつすぎる帽子のせいで真っ直ぐな髪の高いところに段がついていた。
 ティッシュペーパーを広げると、中にカードが入っていた。目新しいものではない。三本のロシア風煙草の吸い口からそれと全く同じものが三つ見つかっている。
 パイプを弄びながらインディアンを睨みつけ、揺さぶりをかけようとしたのだが、相手の神経は煉瓦塀並みだった。
「オーケイ。彼の望みは何だ?」
「彼の望み、あなたすぐ来る。今来る。炎の戦車に乗って―」
「くそくらえ」私は言った。
インディアンはそれが気に入った。彼は口をゆっくり閉じ、片目で厳かにウィンクした。それから薄笑いを浮かべさえした。
「それには依頼金として百ドル用意してもらわないと」私はつけ加えた。それが五セント玉でもあるかのように。
「ふん?」疑り深そうな顔に帰って、基礎英語を守った。
「百ドル」私は言った。「一ドル銀貨。一ドル紙幣。ドルの数が百だ。金ない、私行かない、分かる?」私は両手で百まで数え始めた。
「ふん、大物ぶって」インディアンはあざ笑った。
 彼は脂ぎった帽子のリボンの下を探り、もう一つのティッシュペーパーを机の上に放った。開いてみると、手が切れるような百ドル札だった。
 インディアンはリボンを元の位置に戻そうともせず帽子をかぶった。その方がほんの少しだけ滑稽に見えた。私は座ったままぽかんと口を開け、百ドル札に見入った。
「まさに霊能力だ」私はやっと言った。「おそろしいほどの賢さだ」
「日が暮れちまう」インディアンがくだけた調子で言った。私は机の抽斗からコルト三八口径オートマチックを取り出した。スーパー・マッチの呼び名で知られているタイプだ。ミセス・ルーウィン・ロックリッジ・グレイルを訪ねたときには身に帯びることはしなかった。私は上着を脱ぎ、革製のハーネスを身につけ、中にオートマチックを落とし込み、下のストラップを締め、上着を羽織った。
 インディアンにとって、それは私が首を掻いたくらいの意味しかなかった。
「車ある」彼は言った。「大きな車」
「大きな車はもう二度と御免だ」私は言った。「私、自分の車ある」
「あなた、わたしの車、来る」インディアンが脅すように言った。
「わたし、あなたの車、行く」私は言った。
 私は机とオフィスに鍵をかけ、ブザーのスイッチを切って外に出た。出て行くとき、いつもどおり待合室の鍵は掛けなかった。
 我々は廊下を歩いてエレベーターで下りた。インディアンは臭った。エレベーター係でさえそれに気づいた。》

【解説】

「浮浪者のように見えた」は<He looked like a bum>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「なり(傍点二字)は浮浪者みたいだった」。

「襟は馬の首輪のようにぴったりしていて」は<His collar had the snug fit of a horse-collar>。清水氏は「カラーは馬の首輪のようにゆるく」と訳している。村上訳は「シャツの襟もとは、馬の首輪並みに心地よさそうで」だ。<snug>は「(衣類などが)体にぴったりの、ぴっちりした」という意味だが、「(場所などが)くつろげる、心がなごむ」の意味もある。村上訳はそちらを採ったのだろう。しかし、後にも出てくるように立派な咽喉の持ち主である。上着が窮屈なのに、シャツだけ心地よさそうなのは変だろう。

「黒いネクタイがボタンをはめた上着の外にぶら下がっていた」は<A tie dangled outside his buttoned jacket>。清水氏は「黒いネクタイがボタンをはめられたチョッキの上にぶらさがっていた」と訳している。<jacket>はライフ・ジャケットの場合のように「胴着」の意味もあるが、普通は背広の上着を意味する。村上訳は「ネクタイはボタンがかかった上着の外に、だらんとはみ出ていた」だ。

「プライヤでも使って締め上げたのか結び目が豆粒大になっていた」は<a black tie which had been tied with a pair of pliers in a knot the size of a pea>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「黒いネクタイはペンチでも使って締め上げられたのか、結び目が豆くらいの大きさになっている」だ。英米では、ペンチを含む挟み工具全般をプライヤと呼ぶらしいので、村上氏はペンチとしたのだろう。

「汚れた襟の上の、むき出しになった立派な喉のまわりには」は<Around his bare and magnificent throat, above the dirty collar>。清水氏は「汚いネクタイのたくましいのど(傍点二字)のまわりに」と訳している。これは誤り。ネクタイは黒で、汚れているのは襟だ。村上訳は「汚れた襟の上の、むき出しになった見事なばかりののど元には」。

「早く来い。すぐ来い」と訳したところは<Come quick. Come now>。清水氏は「すぐ来るある。今来るある」と、まるで、中国人をまねた手品師のような言葉遣いだ。村上訳は「早く来い。すぐに来い」だ。

ラテン語遊び」と訳したところは<pig Latin>。清水訳は「まずいラテン語」、村上訳は「おちゃらか語」だ。<pig Latin>というのは、子どもがふざけて使う言葉づかいで、語の最初の子音を最後に移し、さらにei(音)を付加したもの。例えば<dictionary>なら<ictionaryday>になる。

「「ふん、大物ぶって」インディアンはあざ笑った」は<“Huh. Big shot,” the Indian sneered>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「「ハア、大物だな」とインディアンはあざ笑った」だ。

「彼は脂ぎった帽子のリボンの下を探り」は<He worked under his greasy hatband>。清水氏は「彼は帽子の汗バンドから」と訳している。そう思っても仕方がないところだ。村上氏は、少し気になるのか「彼は脂ぎった帽子のバンドの下を探り」と<hatband>を少し前に出てきた「スエットバンド」とは訳し分けている。もちろん<hatband>は、帽子の上についている飾りのリボンのことだ。

「インディアンはリボンを元の位置に戻そうともせず帽子をかぶった」は<The Indian put his hat back on his head without bothering to tuck the hatband back in place>。清水氏は「インディアンは帽子をかぶった。ハットバンドをもとに直そうともしないでかぶった」と、今度は「ハットバンド」と訳している。

村上訳を見てみよう。「インディアンはバンドを内側に折り込みもせずに、帽子を頭の上に戻した」となっている。これは単なる推量だが、村上氏は清水氏が「ハットバンド」と訳したものを自身が訳した「スエットバンド」だと思い込んでいたのではないだろうか。清水氏は、最初は「汗バンド」と訳しておきながら、二度目は「ハットバンド」と正しく訳している。だから<without bothering to tuck>を「もとに直そうともしないで」と訳すことで、誤訳を回避することができた。

ところが、村上氏は二度目の<hatband>を単に「バンド」と訳してしまったことで<sweatband>と同一視し、<without bothering to tuck>を「内側に折り込みもせずに」と訳してしまったのだろう。まず、ひっかかったのは、インディアンは汗どめバンドからティッシュペーパーを取り出す際、指でぐるっと一回しして探っている。同じ汗どめバンドに二つ入っていたら、どちらが名刺でどちらが紙幣か判断がつかないはずだ。

だから、はじめから二つの包みは帽子の内側と外側のバンドに分けて入れたのだと想像することができる。チャンドラーは<sweatband>と<hatband>を正しく使い分けている。訳者たるもの、作者がそこまで配慮した言葉を安易に読み飛ばすことなどあってはならないと思う。第一、辞書にもその違いは記載されている。あまりに簡単な言葉であることと、同じ場面に続いて使われたことがまちがいを生んだと思われる。他山の石としたい。

次の「その方がほんの少しだけ滑稽に見えた」は<It looked only slightly more comic that way>。清水氏はここもカットしている。村上氏はここを「しかし、それによってみかけのおかしさがことさら増加したというわけでもなかった」と訳している。確かにもともと滑稽に見えていたのだから、殊更におかしさが増したわけではなかろう。しかし、ほんのわずか<more comic>に見えたのだ。ストレートに訳してはいけないものだろうか。

「ブザーのスイッチを切って」は<switched the buzzer off>。清水氏はここをカットしている。これくらいどうでもいい、と思うのだろうか。映画の字幕なら映像で分かるが、本の場合には書かなければわからない。逆に書いてあるなら訳してもらいたいと思う。村上訳は「ブザーを切り」だ。たいした手間もとらない。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第19章

―口紅は落ちているのか、いないのか―

 

【訳文】

《曲がりくねった私道を歩き、高く刈り込まれた生垣の陰で迷子になりながら門に出た。新顔の門番は私服を着た大男で、どこから見てもボディガードだ。うなずいて私を通した。
 ホーンが鳴った。ミス・リオーダンのクーペが私の車の後ろにとまっていた。私はそこまで行き、中をのぞき込んだ。冷やかで皮肉っぽい顔が待っていた。
 手袋をした細い手をハンドルに添えて座っていた。彼女は微笑んだ。
「待ってたの。私の知った事じゃないけど、あなたは彼女のこと、どう思った?」
「ガーターを外すのに手間取ってるだろう」
「どうしていつもそんな言い方しかできないの?」彼女はひどく顔を赤らめた。「ときどき男の人が嫌いになる。年寄り、若者、フットボール選手、オペラのテナー歌手、賢い億万長者、ジゴロの色男、私立探偵をやるようなろくでなし」
 私は悲しそうに笑ってみせた。「口が過ぎるのは知っている。近頃じゃ噂になっているからね。ジゴロだと誰に聞いた?」
「誰のこと?」
「しらばっくれるなよ。マリオットのことさ」
「ああ、それくらい誰にでも想像がつく。ごめんなさい。意地悪で言ったわけじゃない。あなたならいつでも好きな時に彼女のガーターを苦もなく外せるでしょう。でもひとつだけ確かなのは、あなたはショーに遅れたってこと」
 曲がりくねった広い通りは陽を浴びて安らかに微睡んでいた。きれいに塗装されたパネル・トラックが通りの反対側の家の前に音もなく滑りこんできて、止まった。それから少しバックして通用口に続く私道を上がっていった。パネル・トラックの側面には「ベイ・シティ・インファント・サービス」と記されていた。
 アン・リオーダンが私の方に身を乗り出した。灰色がかった青い瞳に傷ついたような翳りが見えた。わずかに長すぎる上唇を尖らせ、それから歯に押しつけた。息をのむような鋭い小さな音を立てた。
「余計な口出しをするなと言いたいんでしょうね。自分が思いつかないことを私に指摘されたくないのよ。これでも少しは役に立ってきたつもりなんだけど」
「私に手助けは要らない。警察も私に応援を求めちゃいない。ミセス・グレイルのために私ができることは何もない。彼女はビアホールから車がつけてきた作り話をしていたが、それに何の意味がある。サンタモニカのいかがわしい酒場じゃないか。これはハイクラスの犯罪集団だ。その中には翡翠を一目で言い当てることのできる者がいたんだ」
「もし前もって聞いてなかったらね」
「それもありだ」私は言った。そして、箱の中から煙草を一本探り出した。「いずれにせよ私にできることは何もない」
「霊能力者についても?」
 私は幾分無表情に見つめた。「霊能力者?」
「おやまあ」彼女は優しく言った。「あなたは探偵じゃなかったかしら」
「口を噤んでるふしがある」私は言った。「用心してかかる必要があるんだ。グレイルのズボンには現ナマがうなるほど詰まってる。そして、法律が金で買えるのがこの街だ。警察の動きが妙だと思わないか。広告もなし、新聞発表もなしときては、無辜の市民がもちこんだ小さな手がかりが事件解決の糸口となる機会もない。あるのは沈黙と手を引けという私への警告だけだ。すべてが気に入らない」
「口紅はほとんど落ちてる」アン・リオーダンは言った。「霊能力者のことは伝えた。それでは、さようなら。会えてよかった―ある意味で」
 彼女はスターター・ボタンを押してギアを突っ込み、舞い上がる土煙の中に消えた。
 私は彼女を見送った。彼女がいなくなり、通りの向こうを見た。ベイ・シティ・インファント・サービスと書かれたパネル・トラックの男が、邸の通用口のドアから出てきた。輝くばかりに真っ白で糊が効いた制服を着ていたので、見ているだけですっきりした気分になった。男は何かの段ボール箱を抱えていた。そしてパネル・トラックに乗って走り去った。
 おしめを取り替えたんだ、と思った。
 自分の車に乗り、エンジンをかける前に時計を見た。五時になろうとしていた。
 さすがに上物のスコッチだけのことはある、ハリウッドに帰る道中ずっと一緒にいてくれた。赤信号のたびに停まらざるを得なかった。
「可愛い娘がいる」私は車の中で独り言を言った。「可愛い娘が好きな男向きだ」誰も何も言わなかった。「でも私はちがう」私は言った。それにも誰も何も言わなかった。「十時にベルヴェディア・クラブで」私は言った。誰かが言った。「ふーん」
 私の声のようだった。
 六時十五分前、オフィスに戻ってきた。ビルディングは静まりかえっていた。仕切り壁の向こうのタイプライターは止まっていた。私はパイプに火をつけ、腰を下ろして待った。》

【解説】

「ミス・リオーダンのクーペが私の車の後ろにとまっていた」は<Miss Riordan's coupe was drawn up behind my car>。清水氏は「ミス・リオーダンのクーペが私の自動車のすぐうしろに駐(とま)っていた」と訳している。ところが、村上訳は「ミス・リオーダンのクーペが私の車の背後にやってきた」となっている。<draw up>は「(車などが)止まる」という意味だ。第一、車が動いてきたら音もするし目にも止まる。ホーンを鳴らす必要はない。

「手袋をした細い手をハンドルに添えて座っていた。彼女は微笑んだ」は<She sat there with her hands on the wheel, gloved and slim. She smiled>。めずらしいことに村上氏はここをまるまる抜かしている。わざとではないだろう。読み落としたにちがいない。柴田元幸氏の翻訳チェックが入らないチャンドラーの翻訳ならでは、である。清水訳は「彼女は手袋をはめた細い手をハンドルにおいて、坐っていた。彼女は微笑した」。

「ガーターを外すのに手間取ってるだろう」は<I bet she snaps a mean garter>。清水氏は「すぐスカートを脱ぐ女だな」と、思い切った訳にしているが、マーロウは夫に見られたときに露出していた夫人の脚を思い出している。村上訳は「あのガーターを外すのは一苦労だ」。<a mean>には「意地悪な」という意味がある。この場合のガーターは、リング状のものではなく、ガーター・ベルトを指すのだろう。ストッキングが落ちるのを防ぐためにクリップで留めるタイプの下着の一種だ。

「口が過ぎるのは知っている。近頃じゃ噂になっているからね」は<I know I talk too smart. It's in the air nowadays>。清水氏は「ぼくが口がわるいことはわかっているが」と、後半はトバしている。村上氏は「もう少し当たり前のしゃべり方ができるといいんだが、きっと時代がそうさせてくれないのさ」と訳している。<in the air>は「(ニュースや噂などが)広まっている」という意味だ。主語の<it>は<I talk too smart>を受けている。つまり、自分の話し方が生意気なことは、近頃じゃ噂になっているから、知っている、ということだ。

「それから少しバックして通用口に続く私道を上がっていった」は<then backed a little and went up the driveway to a side entrance>。清水氏はここをカットしているため、トラックは停まったままのように読めてしまう。村上氏は「それから少しバックして、サイド・エントランスへのドライブウェイに入っていった」と訳している。少し片仮名が目立ちすぎはしないだろうか。

「自分が思いつかないことを私に指摘されたくないのよ」は<And not have ideas you don't have first>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「自分に思いつかなかったことを、私に思いついてほしくないと考えている」だ。

「口を噤んでるふしがある」は<There's a hush on part of this>。清水氏はここをカットして「うっかり手が出せないんだ」と、訳している。村上訳は「どうしてこんなにひっそりしているんだろう」となっている。

「広告もなし、新聞発表もなしときては、無辜の市民がもちこんだ小さな手がかりが事件解決の糸口となる機会もない」は<No build-up, no newspaper handout, no chance for the innocent stranger to step in with the trifling clue that turns out to be all important>。清水訳は<No build-up>を端折って「新聞にも記事を出させない。重要な手がかりを持っているかもしれないものも、協力する道がない」。

村上訳は「担当者が名前を売り込もうという気配もないし、プレス・リリースもない。従ってささやかな情報を持っている罪のない市民が名乗り出て、それが大きな手がかりにつながるという道も閉ざされている」だ。<build-up>を事件を担当する刑事一個人の「売り込み」ととるのは、ずいぶん突っ込んだ読みである。

「口紅はほとんど落ちてる」は<You got most of the lipstick off>。清水訳では「口紅はもう落ちているわ」だ。本当に落ちているなら、そんなことをわざわざ指摘する必要はないし、指摘できるはずがない。<most of>とあるから「その大半は」ということだろう。上手い訳だと思うが、村上訳では「口紅はすっかり落ちてはいない」になっている。アン・リオーダンという女性の性格設定の差だろう。清水訳だと揶揄う調子になるし、村上訳だときまじめさが強く出る。

「ベイ・シティ・インファント・サービスと書かれたパネル・トラックの男が、邸の通用口のドアから出てきた」は<The man from the panel truck that said Bay City Infant Service came out of the side door of the house>。清水氏は「ベイ・シティ幼児サービス会社としるされたトラックの男が純白の制服を光らせながら、邸の脇のドアから出てきて」と訳している。村上氏は「「ベイ・シティ幼児サービス」と横に書かれたパネルトラックから降りてきた男は」と訳している。男は「家の側部扉から出てきた」<came out of the side door of the house>のであって、「トラックから降りてきた」のではない。氏にしては珍しいミス。

「赤信号のたびに停まらざるを得なかった」は<I took the red lights as they came>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「赤信号があればそのたびにしっかり停まった」。