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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(6)

―フィネガンの足のような寒気、というのは―

【訳文】

《女は私の膝の上にしなだれかかった。私は顔の上に屈み込んで眼で舐めまわした。彼女は私の頬に蝶がキスするように睫を震わせた。唇を合わせたとき、彼女の唇は半開きで燃えていた。歯の間から舌が蛇のように飛び出してきた。
 ドアが開いて、ミスタ・グレイルが静かに部屋に入ってきた。私は彼女を抱いており、身を振りほどく暇はなかった。私は顔を上げて彼を見た。私は寒気がした。フィネガンの足のようだった、埋められたその日の。
 私の腕の中でブロンドはじっとしていた。唇を閉じようとさえしなかった。半ば夢見るような、半ば嘲るような表情を浮かべて。
 ミスタ・グレイルは、軽く咳払いをして言った。「これは失礼した」それから、静かに部屋を出て行った。彼の目にはかりしれないほどの悲しみが浮かんでいた。
 私は彼女を押しのけて立ち上がり、ハンカチを取り出して顔を拭った。
 彼女はそのままダヴェンポートに半ば横向きに横たわっていたが、片脚のストッキングの上の肌が気前よくむき出しになっていた。
「誰だったの?」彼女は嗄れ声で訊いた。
「ミスタ・グレイル」
「だったら気にしないで」
 私は彼女から離れ、この部屋に初めて入ったとき座った椅子に腰を下ろした。
 しばらくして、彼女は居ずまいを正し、しっかりと私を見た。
「大丈夫。彼は理解してる。あの人に口出しなんかできゃしない」
「彼は気づいてるよ」
「だから、平気だって言ったじゃない。それで充分でしょう。彼は病人なの。どうしたっていうのよ―」
「金切り声を上げるんじゃない。金切り声を上げる女は嫌いだ」
 彼女は傍に置いてあったバッグを開けて小さなハンカチを取り出し唇を拭いた。それから鏡で自分の顔を見た。「あなたの言うとおりね」彼女は言った。「スコッチが過ぎたわ。今夜ベルヴェデア・クラブで、十時に」彼女は私を見ていなかった。息遣いが速かった。
「いいところなのかい?」
「レアード・ブルネットの店。彼とは親しい仲なの」
「分かった」私は言った。私はまだ寒気を感じていた。自分が汚らしく思えた。まるで貧乏人から財布を掏ったみたいな気がした。
 彼女は口紅を取り出し、唇にそっと当てた。そして私の方を見た。鏡を放ってよこした。私は鏡をつかんで顔を映した。私はハンカチに一仕事させて立ち上がり、鏡を返した。
 彼女は後ろに仰け反り、喉をあらわにして、物憂げに私を見下ろした。
「まだ、何か?」
「何も。十時にベルヴェデア・クラブ。派手な格好は願い下げだ。こっちはディナー・スーツしか持ち合わせがない。バーでいいか?」
 彼女はうなずいた。眼は物憂げなままだった。
 私は部屋の中を通って外に出た。一度も振り返らなかった。フットマンが廊下で待っていて、私の帽子を手渡した。「大いなる岩の顔」に似ていた。》

【解説】

「彼女は私の頬に蝶がキスするように睫を震わせた」は<She worked her eyelashes and made butterfly kisses on my cheeks>。「バタフライ・キス」というのは、睫を動かしてかすかに相手に触れることをいう。まるで蝶の羽が触れたようなタッチであることからその名がついた。清水氏は「彼女はまつ毛をふるわせて、私の頬に接吻した」と訳しているが、これだと本当にキスしたようにも読める。村上訳は「彼女はまつげを微妙に動かし、私の頬をくすぐった」だ。事実上の動きはその通りだが、バタフライ・キスという言葉が響いてこない憾みが残る。

「私は寒気がした。フィネガンの足のようだった、埋められたその日の」は<I felt as cold as Finnegan's feet, the day they buried him>。清水氏は「全身が冷たくなったようだった」と訳している。これでいいと思うのだが、唐突にフィネガンという固有名詞が出てくるのがひっかかる。ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』が出版されたのが一九三九年。『さらば愛しき女よ』の出版がその翌年であることから見て、チャンドラーがそれを意識していたことは明らかだ。村上氏は「通夜の翌日のフィネガンの脚に負けないくらい背筋がひやり(傍点三字)とした」と「通夜(ウェイク)」を訳の中に盛り込んでいる。

「彼女は嗄れ声で訊いた」は<she asked thickly>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「と濃密な声で彼女は尋ねた」と訳している。「濃密な声」とは、どんな声なのだろう。たしかに<thickly>には「濃密な」の意味があるが声に使われる場合は「かすれ声、だみ声」という意味になる。

「私はまだ寒気を感じていた」は<I was still cold>。さっき感じた寒気だ。清水氏はここもカットしている。村上訳は「まだ身体に冷気が残っていた」だ。

「『大いなる岩の顔』に似ていた」は<looking like the Great Stone Face>。清水氏はカットしているが<the Great Stone Face>はナサニエル・ホーソーンの短篇のタイトルで、ニュー・ハンプシャーにある人間の顔のように見える巨大な岩山のことでもある。村上氏は「彼はニューハンプシャーの巨大人面岩みたいに見えた」と訳している。

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第18章(5)

―ドレスが首のあたりまでめくれ上がったのには理由があった―

【訳文】

《「男はリンの座っている側に近づくとすぐに、スカーフを鼻の上まで引っ張り上げ、銃をこちらに向け『手を挙げろ』と言った。『おとなしくしてればすぐに済む』。それからもう一人の男が反対側にやってきた」
「ベヴァリ・ヒルズは」私は言った。「カリフォルニアで最も治安が行き届いた四平方マイルですよ」
 彼女は肩をすくめた。「言った通りのことが起きたの。宝石とバッグを寄こせとスカーフの男が言った。もう一人、私の側にいた男は一言もしゃべらなかった。リンの前に手を伸ばして渡すと、男がバッグと指輪をひとつ返してくれた。男は、警察や保険屋への連絡は少し待つように言った。その方がことがうまく運ぶだろう。物ではなく歩合で支払ってもらう方が手間が省けると言った。まったく焦った様子を見せなかった。是非にと言うなら、保険屋を通すこともできるが、弁護士が取り分を減らすから、乗り気ではないとも。教養のある人のように思えた」
「まるでドレスアップ・エディのようだ」私は言った。「シカゴで消されていなかったなら、ということですが」
 彼女は肩をすくめた。我々は飲んだ。彼女は続けた。
「連中は去り、私たちは帰った。私はこのことをリンに口止めした。次の日、電話があった。電話は二つあって、ひとつは内線つき、もうひとつは私の寝室にある内線なしのもの。電話はそちらにかかってきた。もちろん電話帳には載ってない」
 私はうなずいた。「二、三ドル出せば番号は買える。よくあることだ。映画俳優の中には毎月番号を変える者もいる」
 我々は飲んだ。
「私は電話してきた男に、私の代理のリンと話をするように、適切な価格だったら取引に応じるかもしれない、と言った。彼は了解した。それ以降進展はなかった。こちらの様子を見てたんだと思う。結果的に、知っての通り、八千ドルで手を打った」
「どっちかの顔を覚えていませんか?」
「そんなの、無理」
「ランドールはこのことを知っていますか?」
「もちろん。もっと話す必要があるかしら? うんざりなの」彼女は素敵に微笑んだ。
「彼は何か言ってましたか?」
 彼女は欠伸した。「多分ね。でも忘れた」
 私は空のグラスを手に腰を下ろして考えた。彼女はグラスを取り上げ、また注ぎ始めた。
 私は彼女の手からお代わりのグラスをとり、それを私の左に移し、自分の右手で彼女の左手をつかんだ。滑らかで柔らかな手だった。温さが心地よかった。彼女は強く握り返した。手の筋肉が強かった。しっかりした体つきで、ペーパー・フラワーではなかった。
「彼には何か考えがあるみたい」彼女は言った。「でも、それが何かは言わなかった」
「話を最後まで聴けば、誰だってひとつの考えが思い浮かぶ」私は言った。
 彼女はゆっくり振り返ってこちらを向いた。そうして、うなずいた。「すぐ分かることよね?」
「いつからマリオットのことを知ってるんです?」
「何年になるかしら。彼は夫が持ってた放送局でアナウンサーをしていた。KFDK。そこで出会った。夫ともそこで出会った」
「知っていました。しかし、マリオットは贅沢な暮らしをしてた。金持ちでなくても、金に不自由はしてなかった」
「お金が入ったので、ラジオ局をやめたの」
「金が入ったことを事実として知っていましたか、それとも彼がそう言っただけですか?」
 彼女は肩をすくめた。私の手を握りしめた。
「あるいは、それほどの金額ではなかったかもしれないし、すぐに使い切ったのかもしれない」私は彼女の手を握り返した。「彼はあなたから金を借りてましたか?」
「あなたって、けっこう昔気質なのね?」彼女は私が握ったままの手を見下ろした。
「まだ仕事中です。それにあなたのスコッチは酔っぱらうには惜しいほどの上物です。別に酔っ払わなくても―」
「そうね」彼女は自分の手を引き抜き、擦った。「最大のヤマ場を迎えてるはず―空き時間だったら。リン・マリオットは、もちろんハイクラスの強請り屋だった。それは確か。彼は女にすがって生きていた」
「あなたも強請られていたのですか?」
「教えてあげましょうか?」
「それは賢明ではないでしょう」
 彼女は笑った。「どうせそうなるのよね。一度、彼の家でひどく酔っぱらって気を失ったことがある。めったにないことだけど。彼は写真を何枚か撮った―服を首までめくって」
「卑劣なやつだ」私は言った。「それは今手もとにありますか?」
 彼女は私の手首をぴしゃりと叩いて、そっと言った。
「お名前は?」
「フィル。あなたの名は?」
「ヘレン。キスして」》

【解説】

前半部分に大したちがいは見つからない。

「話を最後まで聴けば、誰だってひとつの考えが思い浮かぶ」は<Anybody would have an idea out of all that>。清水氏は「おそらく、ぼくが考えていることと同じだろう」と訳している。意訳だろう。村上氏は「その話を聞けば、誰だっていくらかの考えは浮かぶはずだ」と訳している。

その後の夫人の「すぐ分かることよね?」だが、原文は<You can't miss it, can you?>。清水氏はここを「私、あなたを信頼していいわね」とこれもまたかなり大胆な意訳だ。村上氏は「わかりきった話だというわけね」と訳している。<miss>は「見逃す」という意味だから、マーロウならランドールの考えに気づかないはずはない、というくらいの意味だ。清水氏はそれを理解したうえで夫人の気持ちとして訳したということだろうか。

「最大のヤマ場を迎えてるはず―空き時間だったら」は<You must have quite a clutch-in your spare time>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「あなたは一筋縄ではいかない男らしいー余暇には(傍点四字)、ということだけど」。<clutch>は「手などをしっかり握る」ことだが、くだけた言い方として「最大のヤマ場、ピンチ」のような意味で使われる。この場合、二人の手を握りあう行為に掛けているのだろう。

「彼は写真を何枚か撮った―服を首までめくって」は<He took some photos of me-with my clothes up to my neck>。清水氏は「そのときに、裸の写真を撮られたわ」とあっさり訳している。映画の字幕ならこれでいいと思う。村上訳は「そのとき彼は写真を何枚か撮った。衣服が首のあたりまでめくれ上がったやつを」となっている。

前回の夫人の「ほんとにこれって、放っておくと首のあたりまでずり上がっちゃうんだから」という村上訳の意味がこれで分かった。このことを匂わせていた、と村上氏は考えたにちがいない。

「卑劣なやつだ」は<The dirty dog>。清水氏は「ひどい奴だ」とマリオットのこととして訳しているが、村上氏は「ポルノっぽいやつだ」と写真のことと解している。スラング等を調べても「人をだますやつ」のような意味はあるが卑猥な物を表す使用例は見つからなかった。村上氏は次にくる言葉に引きずられて、そう訳したのだろうか。それよりも、マリオットを「卑劣なやつ」と蔑みながら、写真を見たがるマーロウを夫人がいなしたと考える方が気が利いてるのではないか。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(4)

―どんなドレスを着たら、裾が首のあたりまでまくれ上がるものだろう―

【訳文】

《「ニュートンはいいでしょう」私は言った。「ギャングとつるむようなタイプじゃない。当て推量に過ぎませんが。フットマンについてはどうですか?」
 彼女は考え、記憶を探った。それから、首を振った。「彼は私を見ていない」
翡翠を身につけてほしい、と誰か言いませんでしたか?」
 彼女の眼は瞬く間に用心深くなった。「そんな手に引っかかると思う」彼女は言った。
 彼女はおかわりを注ごうと私のグラスに手を伸ばした。まだ残っていたが、したいようにさせておいて、その美しい頸の線を研究した。
 彼女が二つのグラスを満たし、二人がまた手にしたとき、私は言った。「記録をはっきりさせてから、あなたに話したいことがある。あの晩のことを詳しく聞かせてください」
 彼女は腕時計を見ようとして長い袖を手繰り寄せた。「そろそろ、行かないと―」
「彼なら、待たせておけばいい」
 彼女の眼が光った。私はその眼が気に入った。
「あけすけに言えないこともあるものよ」彼女は言った。
「この稼業でそれは通用しません。あの晩のことを話すか、私を叩き出すか、どっちか決めるんですね」
「私の隣に来て座ったら」
「長い間考えてたんです」私は言った。「正確には、あなたが脚を組みだしてからずっと」
 彼女はドレスの裾を引っ張り下ろした。「つまらないことを気にするのね」
 私は黄色い革張りのチェスターフィールドに行き、彼女の隣に腰を下ろした。「あなた、手が早いんじゃないの?」彼女はそっと訊いた。
 私は答えなかった。
「こういうことをよくするの?」彼女は横目で訊いた。
「ほとんどありません。暇な時の私はチベットの僧です」
「暇な時がないだけよね」
「本題に入りましょう」私は言った。「我々の―或いは私の―心にひっかかっている問題について。いくら払うつもりです?」
「ああ、それは問題ね。あなたは私のネックレスを取り戻すだろうと思ってたんだけど。少なくともやってはみる、と」
「仕事は自分の流儀でやることに決めてます。このように」私は一息で酒を飲み干し、倒れそうになった。空気も少し飲み込んだ。
「そして、殺人犯を挙げる」私は言った。
「そんなの関係ない。警察の仕事でしょう?」
「その通り。ただ哀れな男が百ドル出して護衛を頼んだのに、護ってやれなかった。気が咎める。泣きたいくらいだ。泣きましょうか?」
「飲みましょう」彼女は二人のグラスにまたスコッチを注いだ。酒は彼女に少しも影響を与えないようだった。ボールダー・ダムに水を注ぐようなものだ
「さてと、どこまでだったかな?」グラスのウィスキーをこぼさないように気遣いながら私は言った。「メイド抜き、運転手抜き、執事抜き、フットマンも抜き。次は洗濯も自分たちですることになりそうだ。ホールドアップはどのようにして起きたか? あなたのヴァージョンにはマリオットが与えてくれなかった細部があるかもしれない」
 彼女は前屈みになり、頬杖をついた。真面目くさって見えたが、見かけほどの真剣さはなかった。
「私たちはブレントウッド・ハイツのパーティーに行った。その後でリンが、<トロカデロ>で少し飲んでダンスでもどうか、と言った。それでそうした。帰りのサンセット・ブルヴァードは工事中でひどい埃だった。それで、リンはサンタモニカ・ブルヴァードへ引き返した。うらぶれたホテルの前を通り過ぎた。つまらないことを覚えているようだけど、ホテル・インディオという名。通りの反対側にビアホールがあって、前に車が一台停まってた」
「たった一台、ビアホールの前に?」
「そうよ、たった一台。薄汚れた店。その車が動き出して私たちの後をついてきた。もちろん、私は何も気にしなかった。気にする理由もないし。その後、サンタモニカ・ブルヴァードからアルゲロ・ブルヴァードに入ろうというところで、リンが、他の道から行こう 、と言って、道が曲がりくねった住宅街に入った。すると突然、後ろの車が突進してきて追い抜きざまにフェンダーをかすめ、路肩に寄せて停車した。コート姿にスカーフ、帽子を目深にかぶった男が謝罪のために引き返してきた。白いスカーフが盛り上がっているのが私の目を引いた。それがあの男に関する印象のすべて。背が高くて痩せてたことの他には。男は近づくとすぐに―今思えば、こっちの車のヘッドライトを避けて歩いていた―」
「当然だ。ライトを浴びたいやつがいるわけがない。一杯やろう、今度は私がつくる」
 彼女は前屈みになって、細い眉をひそめて考えていた。眉は描かれたものではなかった。私は飲み物をふたつつくった。彼女は続けた。》

【解説】

「彼は私を見ていない」は<He didn't see me>。そのままだが、清水氏は「きっと、頸飾りを見ていないわ」と訳している。清水氏は「下男」、村上氏は「召使い」と訳しているが、フットマンというのは、ただの下男や召使いとは異なり、仕事が決まっている。制服を着て食事や酒の給仕などをする職種だ。当然、その仕事以外で主人に会うことはない。外出用の服に着替えた夫人を見る機会はない。村上訳は「彼は私の姿を見なかった」だ。

「あけすけに言えないこともあるものよ」は<There's such a thing as being just a little too frank>。清水訳では「ずいぶん遠慮がないのね」とマーロウの物言いに対する非難のように訳されている。村上訳は「率直には話せない種類のものごともあるわ」と自分自身の態度についての言い訳になっている。この解釈をとることで、次のマーロウの<Not in my business>という決め科白が引き出される仕掛けだ。清水氏は「ぼくの稼業(しょうばい)は、遠慮をしていてはできない」と訳すことで話を繋げている。

「つまらないことを気にするのね」は<These damn things are always up around your neck>。清水氏の訳は「すぐ、まくれてしまうので……」。村上氏の訳は「ほんとにこれって、放っておくと首のあたりまでずり上がっちゃうんだから」だ。いったい、どんなドレスを着たら、ドレスの裾が首のあたりまでまくれ上がるものだろうか。ここに限らず、村上氏は清水氏の訳を土台にして自分流に訳文を作っている。それがまちがいのもとだ。

<around one's neck>には、「重荷(足手まとい)になる」という意味がある。マーロウは二度、夫人の脚の組み方に言及している。しどけなく投げ出された脚が気になって近くに座ることをためらっていた。夫人は、そんなつまらないことを気にして、そばに来ることを躊躇していたなんて、という意味でドレスの裾を引っ張ったのだ。

「我々の―或いは私の―心にひっかかっている問題について」は<Let's get what's left of our minds- or mine-on the problem>。清水氏は「われわれの……とにかく、ぼくの心を問題からそらさないで」と訳している。その前の<Let’s focus>を「話をそらさないで」と訳したことからくる流れだろう。村上訳は「お互い残っている正気をかきあつめて、その問題について考えてみましょう。少なくとも私はがんばってかきあつめる必要がありそうだ」。村上氏ならではの解きほぐす訳なのだろう。でも、シンプル極まる原文を、こんなに持って回った訳文にする必要があるのだろうか。

「私は一息で酒を飲み干し、倒れそうになった」は<I took a long drink and it nearly stood me on my head>。清水氏は「私はグラスを一気に飲みほした」と、後半部分をカットして、あっさり訳している。<stand on my head>は「逆立ちをする」という意味。村上訳は「私は息も継がずに一口でぐいと酒を飲んだ。頭にずん(傍点二字)とこたえるきつい一杯だった」と「頭」を使って訳している。

「彼女は前屈みになり、頬杖をついた」は<She leaned forward and cupped her chin in her hand>。清水氏は「彼女は両手を顎にあてて、からだを前にかがめた」と訳しているが、手は<hands>ではない。村上氏は「彼女は前屈みになり、顎に片手をやった」と訳している。前屈みになったのは肘をつく必要があるからだ。<cup one's chin in one's hand>は「頬杖をつく」という意味。ここは頬杖をついたと考えるべきだ。

「真面目くさって見えたが、見かけほどの真剣さはなかった」は<She looked serious without looking silly-serious>。清水氏は後半をカットして「真剣な顔つきだった」と訳している。これだと微妙なニュアンスを欠いている。村上訳は「真剣な顔に見えたが、それはほどほど(傍点四字)という程度の真剣さだった」。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(3)

18-3

【訳文】

《「何だろう、このお上品な飲み方」彼女はいきなり言った。「さっさと話に入りましょう。にしてもあなた、あなたみたいな稼業にしちゃ、ずいぶん様子がいいのね」
「悪臭芬々たる仕事です」私は言った。
「そんな意味で言ったんじゃない。お金にはなるの、それとも大きなお世話かしら?」
「大して金にはなりません。悲嘆にくれることも多いが、愉快なことも少なくない。それに、いつだって大事件に出くわすチャンスが待ってる」
「人はいかにして私立探偵になるのか? 私が下す評価なんか気にしないわよね? それから、そのテーブルこっちに押してくれない? 飲み物に手が届くように」
 私は立ち上がり、大きな銀のトレイを載せた小卓を、艶やかな床を横切って彼女の側に押した。彼女は飲み物をもう二つ作った。私は二杯目を半分まで飲んだところだった。
「探偵の大半は警官あがりです」私は言った。「私はしばらく地方検事の下で働いていたんです。解雇されましたが」
 彼女は感じよく微笑んだ。「無能だったってわけではないでしょうね」
「いいえ、口ごたえのせいです。ところで、あれから電話はかかってきましたか?」 
「そうね―」彼女はアン・リオーダンの方を見て、待った。その顔つきがものを言った。
 アン・リオーダンは立ち上がった。彼女はまだいっぱい入っているグラスをトレイまで運び、そこに置いた。「人手は足りてるようですね」彼女は言った。「でも、その気になったら―お時間を頂き有難うございました、ミセス・グレイル。記事にはしないのでご安心を」
「まさか、もう帰るっていうんじゃないでしょうね」ミセス・グレイルは微笑みを浮かべて言った。
 アン・リオーダンは下唇を歯の間に挟んだまま、いっそ噛んで吐き出すか、それとももう少しそのままにしておくか、しばらく決めかねているようだった。
「申し訳ありませんが、お暇しなければなりません。私はミスタ・マーロウのために働いていません。ただの友人です。さようなら、ミセス・グレイル」
 ブロンド女はきらりと彼女に目を光らせた。「また立ち寄ってね、好きな時に」彼女はベルを二回押した。執事がやってきた。彼はドアを開けて待った。
 ミス・リオーダンは足早に出て行き、ドアが閉まった。ミセス・グレイルはしばらくの間、気のない笑みを浮かべてドアを見つめていた。「この方がいいわ、そうは思わない?」沈黙の幕間が終わると、彼女は言った。
 私は頷いた。「ただの友達のはずの彼女がどうしてそんなに知っているのか不思議に思うでしょう」私は言った。「好奇心旺盛な娘なんです。いくつかは彼女自身が掘り出してきたものです。たとえば、あなたが誰で、翡翠のネックレスの所有者が誰なのかといったことの。いくつかは偶然そこに居合わせたからです。彼女は昨夜マリオットが殺されたあの谷にやってきた。ドライブの途中、たまたま明かりを見つけそこまで下りてきたんです」
 「まあ」ミセス・グレイルは素早くグラスを傾け顔をしかめた。「考えてみれば怖ろしい。かわいそうなリン。どちらかといえばろくでなしだった。あの人の友達のほとんどはそうよ。でもあの死に方はひどすぎる」彼女は震えた。瞳は大きく暗くなった。
「そういうわけで、ミス・リオーダンについては心配ご無用。何もしゃべりません。父親が長い間ここの警察署長をやっていたんです」私は言った。
「ええ、そのことも話してくれた。あなたは飲んでないわ」
「私はこれを飲酒と呼んでいます」
「あなたと私、うまくやっていけそうね。リン・マリオットはあなたに話したの、どうやってホールドアップが起きたか?」
「ここと<トロカデロ>の間のどこか。詳しいことは話さなかった。三人か、四人組だと」
 彼女の金色に輝く頭がこくりと肯いた。「そう、変なホールドアップだった。指輪のひとつを返してくれたの。かなり高価なものを」
「それは聞きました」
「それに、私はあの翡翠は滅多にしない。世界に類を俟たない極めて珍しい翡翠だけど、はっきり言って時代遅れ。なのに、連中はそれに飛びついた。あれの値打ちが分かる輩とは思えないのだけど、そう思わない?」
「あなたが値打ちのないものを身につけないことを連中は知ってる。値打ちを知っていたのは誰です?」
 彼女は考えた。彼女が考えている姿は見ものだった。脚はまだ組んでいた。しどけなさもそのままだった。
「いろんな人がいると思う」
「でも、その晩あなたが身に着けていることは知らないはずです。それを知る者は?」
 彼女は薄青い肩をすくめてみせた。私は両眼をあるべきところにとどめておこうと努めた。
「私のメイド。でもその気なら機会は山ほどあった。それに私は彼女のことを信じてる」
「なぜ?」
「分からない。私は人を信じるだけ。あなたのことも」
「マリオットのことも信じてましたか?」
 彼女の顔が少し険しくなり、眼に警戒の色が浮かんだ。「ある面ではノー。でも別の面ではイエス。程度によるわね」感じのいい話し方だった。クールで、半ばシニカル、それでいてドライ過ぎもしない。言葉の使い方を熟知していた。
「メイドのことは良しとしましょう。運転手はどうです?」
 彼女は首を振って否定した。「あの晩はリンが自分の車を運転してた。ジョージは見当たらなかった。木曜日じゃなかった?」
「私はそこにいなかった。マリオットが言うには四、五日前のことだと。木曜日は昨夜から数えて一週間前になります」
「そう、木曜日だった」彼女はグラスに手を伸ばし、私の指に少し触れた。柔らかな触り心地だった。「ジョージは木曜の夜は休みをとる。公休日だから」彼女は芳醇なスコッチをたっぷり一杯分私のグラスに注ぎ、炭酸水を噴出させた。いつまでも飲んでいたいと思わせる種類の酒で、そのうち、どうとでもなれと思えてくる。彼女は自分にも同じようにした。
「リンは私の名前を言った?」彼女は優しく訊いたが、眼は警戒を解いていなかった。
「慎重に避けていました」
「おそらく、それで日にちについてごまかしたのね。手札を見てみましょう。メイドと運転手は抜き。共犯者としては考えられないという意味よ」
「私ならその二枚は置いておきます」
「そうなの、でもやるだけやってみる」彼女は笑った。「それからニュートンがいる。執事。あの晩私の襟元を見ることができたかもしれない。でも翡翠は低く垂れ下がっていたし、上からホワイト・フォックスのイブニングラップを羽織っていた。無理ね、彼に見えたとは思えない」
「夢のよう眺めだったでしょうね」私は言った。
「酔いが回ったんじゃないでしょうね?」
「人より醒めてることで名が通ってるんです」
 彼女は頭を仰け反らせ、どっと笑いこけた。そんな真似をしても美しい女は、生涯で四人しか知らない。彼女はその中の一人だった。

【解説】

マーロウとミセス・グレイルのやり取りはたがいの腹の探り合い。訳す方も息を抜けないのだろう。清水氏も、いつものようにトバすことなく訳している。

「はっきり言って時代遅れ」は<After all, it's a museum piece>。清水訳は「博物館にあるようなもので」。村上訳は「だいたいが美術館向きのものなのよ」。文字通り訳せばそういうことだが、これでは、その前の「私はあの翡翠は滅多にしない」ことの理由になっていない。<museum piece>には「時代遅れ」という意味もある。いくら貴重な品でも装身具としての価値はまた別。他者が欲望するようなものでなければ身に着ける価値がない訳だ。

「あなたが値打ちのないものを身につけないことを連中は知ってる。値打ちを知っていたのは誰です?」は<They'd know you wouldn't wear it otherwise.Who knew about its value?>。清水氏は「頸飾りをつけていたことを知っていたのは、誰ですか?」と訳しているが、これはでは次の会話を先取りしてしまう。村上訳は「価値のあるものしかあなたは身につけないと知っていたんですよ。その値うちを知っていたのは誰ですか?」。

「彼女が考えている姿は見ものだった」は<It was nice to watch her thinking>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「彼女が考えるのを目にしているのは素敵だった」と、優等生的な訳だ。

「私は両眼をあるべきところにとどめておこうと努めた」は<I tried to keep my eyes where they belonged>。清水氏は「私は彼女の脚を見つめていた」と作文している。村上氏は「私は目が飛び出さないように自制しなくてはならなかった」と一歩踏み込んで訳している。アメリカのカートゥーンでも、目が飛び出る表現は見たことがあるから、おそらくその意味なのだろう。

「彼女は自分にも同じようにした」は<She gave herself the same treatment>。村上氏は「彼女が求めているのもまさにそういう状態だった」と訳している。村上訳によれば「そういう状態」とは「飲んでいるうちになんでもあり(傍点六字)という気分になってくる」ことだ。少々考え過ぎではないだろうか。<same treatment>は「同列」という意味だ。客につくった物と同じ物をつくった、ということだろう。清水訳では「彼女は同じ飲物を自分のグラスにもつくった」だ。

「そうなの、でもやるだけやってみる」<Well, at least I'm trying>。清水訳は「私は、ただお手伝いをしているだけよ」だ。たしかに、ここでミセス・グレイルがやっているのは探偵のまねごとだ。お手伝いにはちがいない。村上訳を見てみると「かもしれないけど、少なくとも私はそう考えたいの」となっている.。村上氏は、この<try>を、自分の意見に固執することと考えているようだ。

オープン・ガーデン

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南伊勢町に無料開放している庭があって、今ササユリが見頃だ、という話を妻が聞きつけてきた。ボランティア仲間との作業に忙しいのは大変だが、こういう情報交換のお土産がある。なんでも、土日月だけの公開で、今日を逃すと来週はもう見られないという。

それでは、というのでお昼は五ケ所の<ファイブ>でとることにして、妻の車に乗って出発した。サニーロードの入り口にはジェットコースター級の急坂があるので、トゥインゴでそこを走ってみたいと前々から思っていた。

晴れ時々曇りの空模様ながら、新緑が眩しく絶好のドライブ日和。ランチを食べた<ファイブ>のマスターに地図までいただいて、目的地に向かう。たぶん同じ場所目当ての車がゆっくりと走っているので、それについてゆくとまもなく到着した。

汐見ガーデンというところで、あと数か所の家が<オープン・ガーデン>として、お庭を無料開放してくれている。今日伺ったI邸はロック・ガーデン仕立て。もとの持ち主が荒れ放題にしていた千坪ほどの土地を購入後、移住し、廃棄物の山を取り除いてここまでにするのに七年かけたそうだ。

藪を切り拓き、岩に沿って掘って行ったところ、岩肌が露出し、池が現れた。もとからあった石垣を生かして今のようなロック・ガーデンに仕立てたという。たくさんの花が植えられているが、ササユリは自生である。この季節はササユリ目当ての客が引きも切らない。

妻のいちばんのお気に入りはオダマキだった。私としては、アカンサスの花を見ることができたのが収穫だった。ギリシア建築の装飾に用いられているので、葉の方はよく知っていたが、花については知らなかった。

小高い丘の上に造られた庭を一巡りすると、木の間隠れに海が見えた。景色の眺めのいいところや木陰にベンチが配され、一息つける場所には事欠かない。これだけの庭を維持するのは大変だが、見せてもらう方はありがたい。

来年は今種から育てているオダマキがたくさん花をつけそうだという。再訪を約束して庭を後にした。車なら我が家から往復一時間ほどの距離である。いいところを教えてもらった。

「帰るう」

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暑くなってきた。夏毛に生え変わる時期だからか、ニコの抜け毛がすごい。毎朝夕櫛で梳いても、もくらもくらと毛がついてくる。我が家に来たばかりのころは、さわられるのが嫌で、よく逃げられたものだが、最近は櫛を入れると、グルグルと喉を鳴らす。

冬から春にかけて、妻のベッドに上がってきていたニコだが、さすがにここのところの暑さで、ベッドに来なくなっていた。ところが、ここ何日かは朝晩、少し寒いくらいで、昨日も今日も、ニコがベッドに上がってきた。

妻は喜んだが、今日はトリミングの日だ。せっかく一緒に寝ようとベッドに上がったニコを泣く泣くキャリーに入れて、トリミングに向かった。ニコに限らず一般に猫は車に乗るのが嫌い。この日も車が動き出すと泣き出した。

あやしていた妻が言った。

「ねえ、この子『帰るう、帰るう』って鳴いてる」

耳をすますと、なるほどそう聞こえないでもない。

鳴き声は可愛いのに、ふだんはめったに鳴かない。泣くのはきまってペット・クリニックに行く日。トリミングはクリニックに併設されているので、ニコには行き先がトリミングなのか、病院なのかは分からない。

昨日、ダイニングの窓に上ろうとして、足を滑らせたばかりだ。肉球の周りの毛がのびてきて前足の踏ん張りがきかないのだ。抜け毛も多いし、シャンプーとカットは嫌いじゃないはず。話しかける妻の声の調子で、病院じゃないことも賢いニコなら分かるように思うが、車に乗ることがパニックで、それどころじゃなくなるらしい。

病院といえば、検査の結果、ストラバイトの方はよくなっているらしい。しばらくは療法食を続けなければならないが、逆にいえば、薬は飲まなくていいということだ。このまま完治してほしいものだ。

トリミングから帰ってきたニコは元気そのもの。現金なもので、同じ車なのに帰りはあまり鳴かない。鳴いても「ニャン」と短い。とすると、往きのあれは、やはり「帰るう、帰るう」だったのだろうか。猫後の翻訳アプリができたらスマホに替えてもいいと真剣に考えているところだ。

 

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(2)

18-2

【訳文】

《縞のヴェストに金ボタンの男がドアを開けた。頭を下げ、私の帽子を受け取れば、今日の仕事は終わりだ。男の後ろの薄暗がりに、折り目を利かせた縞のズボンに黒い上着を着て、ウィング・カラーにグレイ・ストライプ・タイをしめた男がいた。白髪混じりの頭を半インチばかり下げて言った。「ミスタ・マーロウでいらっしゃいますね? どうぞこちらへ」
 我々は廊下を歩いた。たいそう静かな廊下だった。蠅一匹飛んでいない。床には東洋の絨毯が敷きつめられ、壁に沿って絵が並んでいた。角を曲がるとまた廊下が続いていた。フレンチ・ウィンドウの遥か彼方で青い水がきらりと光った。危ういところで思い出した。我々は太平洋の近くにいて、この家は渓谷のどこかの縁に建っていたのだ。
 執事は一つのドアに手を伸ばし、話し声のする方に開き、自分は脇に控え、私を通した。快適な部屋だった。大きなチェスターフィールド・ソファと淡黄色の革張りのラウンジ・チェアが暖炉を囲むように置かれ、艶やかだが滑りにくい床に、絹のように薄く、イソップの伯母さんのように年季の入った敷物が敷いてある。きらめきを帯びた花々が部屋の隅に咲きこぼれ、ローテーブルの上にも花があった。壁紙はくすんだ色の羊皮紙だった。そこには安らぎ、ゆとり、心地よさがあり、極めて現代的な味わいと、かなり古風な味わいが各々ほんの少しだけ加味されていた。そして口を噤んだ三人の人物が、床を横切る私を見ていた。
 うち一人はアン・リオーダンだった。最後に見たときと変わりなかった。琥珀色した液体の入ったグラスを手にしていることを除けば。一人は背の高い痩せて陰気な顔をした男で、石のような顎に窪んだ眼をし、不健康な土気色のほかには顔に色というものがなかった。六十代は優に超えていようが、優にというより寧ろ、劣化した六十代だった。暗い色のビジネス・スーツに赤いカーネーションを挿し、塞ぎ込んでいるように見えた。
  三人目はブロンドの女で、薄い緑がかった青の外出着を着ていた。服装に特に注意は払わなかった。どこかの男が彼女のためにデザインしたのだろう、正しい人選だった。その服には彼女をより若く見せ、ラピス・ラズリの瞳をひときわ青く見せる効果があった。髪は古い絵にある金色で、やり過ぎにならない程度に手が掛けられていた。肢体はこれ以上誰にも手が出せない曲線一式を備えていた。ドレスそのものは喉元のダイヤの留め金を別にすればむしろプレーンと言っていい。小さいとは言えない手は良い形をしていて、よくあることだが、爪が不協和音を奏でていた。マゼンタに近い赤紫だ。私に微笑みかけていた。気軽に微笑んだように見えたが、視線は外さず、まるで時間をかけ慎重に熟慮中といったところだ。口は、官能的だった。
「ようこそおいでくださいました」彼女は言った。「こちらは夫です。ミスタ・マーロウに飲み物を作ってあげて、あなた」
 グレイル氏は私と握手した。手は冷たく少しじっとりしていた。悲しげな眼だった。彼はスコッチ・アンド・ソーダを作り、私に手渡した。
 それが終わると黙って隅の椅子に腰を下ろした。私は半分ほど口をつけミス・リオーダンに笑いかけた。彼女は上の空だった。まるで別の手がかりを見つけでもしたように。
「私たちのために何かできるとお考え?」ブロンドの女はグラスの中を見下ろしながら、ゆっくり訊いた。「できるとお考えでしたら、喜んで。でも、これ以上ギャングや不愉快な連中と揉めるようなら、被害は忘れてもいいくらい」
「その辺の事情は不案内でして」私は言った。
「そこを何とか、お願いします」彼女は人をその気にさせるように微笑んでみせた。
 残りの半分を飲み干し、気分がほぐれかけてきた。ミセス・グレイルが革のチェスターフィールドの肘掛けにセットされたベルを押すと給仕人(フットマン)が入ってきた。彼女はトレイのあたりを適当に指さした。彼はあたりを見まわして飲物を二杯つくった。ミス・リオーダンは借りてきた猫のように同じ物を手にしたままで、ミスタ・グレイルは酒を飲まないようだ。フットマンは出て行った。
 ミセス・グレイルと私はグラスを手にした。ミセス・グレイルは少々ぞんざいなやり方で脚を組んだ。
「私に何かできるのか」私は言った。「怪しいものです。いったい何に手をつけたらいいのやら?」
「あなたなら大丈夫」彼女はまた別の微笑みを投げてよこした。「リン・マリオットは、どこまであなたに話したの?」
 彼女はミス・リオーダンの方を横目で見た。その視線にミス・リオーダンは気づかなかった。そのまま座り続けていた。彼女は別の方を横目で見た。ミセス・グレイルは夫の方を見た。「ねえ、あなたが、この件で気に病む必要があって?」
 ミスタ・グレイルは立ち上がって、お会いできて何よりでした。気分が優れないので、少し横になることをお許し願いたい、と言った。非常に礼儀正しかったので、謝意を表するために抱きかかえて部屋から出したくなったくらいだった。
 彼は去った。ドアをそっと閉めて。まるで眠っている人を起こすのを怖れてでもいるかのように。ミセス・グレイルはしばらくドアの方を見ていたが、やがて顔に微笑みを置き直しこちらを見た。
「ミス・リオーダンはあなたの信頼を完全に得ているのよね。当然のことに」
「誰も私の信頼を完全に得ることはありません、ミセス・グレイル。この事件に関して言えば、彼女はたまたま知ったということです」
「なるほど」彼女は一口か二口啜ってからグラスの酒を一息に飲み干し、脇に置いた。》

【解説】

「私の帽子を受け取れば、今日の仕事は終わりだ」は<took my hat and was through for the day>。清水氏は後半部分をカットしている。<be through for the day>は「今日の仕事は終わり」という意味だ。村上訳は「この男の仕事はそれで終わりだった」。金持ちの家では玄関扉を開け、客を迎え入れるだけのために、人ひとり雇う余裕がある、ということだろう。ワークシェアリングの一種と思えばいい。

「執事は一つのドアに手を伸ばし、話し声のする方に開き、自分は脇に控え、私を通した」は<The butler reached a door and opened it against voices and stood aside and I went in>。清水氏は「執事は一つのドアを軽くノックしてから、私を部屋に通した」と訳している。ノックをすれば返事を待つ必要があるが、それのないことから考えるとノックはしていないはず。<opened it against voices>というのは、ドアが内開きだったことを指しているのではないか。

村上氏は「執事はひとつのドアに手を伸ばして開けた。中からは人々の話し声が聞こえた。執事は脇に寄って私を中に通した」と訳しているが、これだと、どちらに開いたかはよく分からない。外開きなら、執事の立ち位置はドアの陰になる。話者の視点からは見えなくなるわけで、わざわざ<stood aside>と書く必要はない。つまり、ドアは内側に開かれたのだ。それらのことが、この短い文から読み取ることができる。

「きらめきを帯びた花々が部屋の隅に咲きこぼれ、ローテーブルの上にも花があった」は<A jet of flowers glistened in a corner, another on a low table>。清水氏はここを「部屋の隅の低いテーブルの上に花が匂っていた」と、訳している。いちいち挙げているときりがないが、これでは省略のし過ぎというものだ。部屋に飾ってある花の数が減ってしまう。

村上氏は「漆黒の花が部屋の隅で輝き、同じものが低いテーブルの上にも置かれていた」と訳している。形容詞<jet>には「漆黒の」という意味もあるが、<a jet of~>と使われる場合は「~の噴出」の意味だ。花瓶の口からあふれるように飾られた多くの花を表現したものと思われる。

「石のような顎に窪んだ眼をし」は<with a stony chin and deep eyes>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「石のような顎と、窪んだ目」。同じところで「六十代は優に超えていようが、優というより寧ろ、劣化した六十代だった」は<He was a good sixty, or rather a bad sixty>。清水氏は<good>と<bad>の対比を無視して「おそらく、六十を越しているだろう」とあっさり訳している。村上氏は「年齢はおそらく六十代の後半。好ましい年齢の重ね方をしているとは見えない」と、意味の方を重視して訳している。

「どこかの男が彼女のためにデザインしたのだろう、正しい人選だった」は<They were what the guy designed for her and she would go to the right man>。清水氏は「それは男が女のために考えて、彼女はその男のところに行くのだ」と訳している。分かりづらい訳だ。村上氏は「それはどこかの人物が彼女のためにデザインしたものであり、彼女はただデザイナーの選び方がうまいだけだ」と訳している。少し訳者の主観が混じっているようだ。

「髪は古い絵にある金色で、やり過ぎにならない程度に手が掛けられていた」は<Her hair was of the gold of old paintings and had been fussed with just enough but not too much>。清水氏は「髪は、古い油絵の金色のような色だった」と後半をカットしている。村上氏は「髪は古い絵画の中に見られる黄金色であり、いくらかほつれていたが、良い具合のほつれ方だった」と訳している。<fuss>を辞書にある「空騒ぎ」と解釈してのことだろうが、<fuss with>は「あれこれかまう、いじる」という意味だ。

「ドレスそのものは喉元のダイヤの留め金を別にすればむしろプレーンと言っていい」は<The dress was rather plain except for a clasp of diamonds at the throat>。清水氏は「咽喉に、ダイヤモンドが光っていた」と訳しているが、これではネックレスのように読めてしまう。村上訳は「喉のダイアモンドの留め金を別にすれば、ドレスはどちらかというと簡素なものだ」。

「よくあることだが、爪が不協和音を奏でていた」は<and the nails were the usual jarring note>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「世の常としてそれが全体の調和を損なっていた」だ。「マゼンタに近い赤紫だ」は<almost magenta>。両氏とも「深紅(色)」という色名を使っているが、マゼンタには紫が入っていて、もっと明るく鮮やかな色のはずだ。

ミス・リオーダンの態度について。「まるで別の手がかりを見つけでもしたように」は<as if she had another clue>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「何かほかのことを考えているみたいに」となっている。<clue>は、どの辞書で引いても「手がかり」と出ている。先を読まないと何とも言えないが、この時点で単なる「考え」と曖昧に訳す意図はどこにあるのだろう。

ミセス・グレイルの微笑について。「彼女は人をその気にさせるように微笑んでみせた」と訳した部分、原文は<She gave me a smile I could feel in my hip pocket>。清水氏は「彼女はまるで旧知の間柄のような微笑を私に見せた」と訳している。それに対して、村上氏は「彼女は私に微笑みを寄越した。尻ポケットのあたりがもぞもぞした」と訳している。

「人を思いのままに操る」という意味の慣用句に<have [get] someone in one’s (back) pocket>というのがある。<back pocket>は<hip pocket>のことだ。マーロウに向けられたミセス・グレイルの微笑は、その手のものではなかったか。< I could feel in my hip pocket>という、マーロウの印象は、自分が手玉に取られている気分にさせられたことを表している。

「ミス・リオーダンはあなたの信頼を完全に得ているのよね。当然のことに」は<Miss Riordan is in your complete confidence, of course>。清水氏の訳では「ミス・リアードンには何を聞かれても差し支えないんですのよ」となっている。<your complete confidence>とあるのだから、夫人が「何を聞かれても差し支えない」というのはおかしい。村上訳は「ミス・リアードンはあなたにとって間違いなく信頼できる人よね?」と疑問文にしている。原文に<?>はついていない。念を押しているのだろう。

「誰も私の信頼を完全に得ることはありません、ミセス・グレイル。この事件に関して言えば、彼女はたまたま知ったということです」は<Nobody's In my complete confidence, Mrs. Grayle. She happens to know about this case-what there is to know>。清水氏はこの部分を「ぼくにわかっていることは、もう知っているんです」と前半をカットして訳している。村上訳は「私にとって間違いなく信頼できる相手など一人もいません、ミセス・グレイル。彼女はたまたまこの事件の事情を知っているというに過ぎない。少なくとも、今まで判明している限りの事情を」。