marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第24章

―<backseat>には、「つまらない地位」という裏の意味がある―

【訳文】

《エレベーターで下まで降り、狭い廊下を抜け、黒いドアから外に出た。外気は爽やかに澄みきっていた。海霧も流れてこない高さだった。私は深く息を吸った。
 大男はまだ私の腕をつかんでいた。車が停まっていた。平凡な黒いセダンで、個人のナンバープレートがついている。
 大男がフロント・ドアを開け、ぼやいた。「階級を上げ過ぎたよ、あんた。一息入れたら元気も出るさ。大丈夫かい? 俺たちも、あんたの気に入らないことはしたくないんでね」
「インディアンはどこだ?」
 彼は軽く首を振り、私を車に押し込んだ。私はフロントシートの右側に乗り込んだ。「ああ、インディアンか」彼は言った。「あいつを射ちたけりゃ弓矢を使うこった。それが決まりだ。車の後ろにいる」
 私は車の後ろを見た。空っぽだ。
「変だな、どこにもいない」大男は言った。
「誰かがさらっていったにちがいない。ロックしてない車には何も置いておけないな」
「早くしろ」口髭の男がそう言って、バックシートに乗り込んだ。ヘミングウェイは回り込んでその逞しい腹をハンドルに押しつけた。車は向きを変え、静かに野生のゼラニウムに縁どられた私道を下りていった。冷たい風が海から吹いてきた。遥か遠くに星が見えた。彼らは押し黙っていた。
 私道の端から、コンクリート舗装の山道に入り、道に沿ってゆっくり走った。
「どうして車がないんだ?」
「アムサーが迎えを寄越したんだ」
「そりゃまたどういう訳で?」
「私に会いたいからに決まってるだろう」
「こいつは大丈夫だ」ヘミングウェイは言った。「物事を理解してる」。窓からぺっと唾を吐いて、きれいにカーブを切り、エンジンを回しながら丘を下った。「あいつが言うには、あんたに電話で強請られかけたので、考えたんだそうだ。もし取引することになるなら、先に取引相手をざっと見ておきたい、と。それで自分の車を寄越したのさ」
「知り合いの警官に電話するつもりでいたから、帰りの車は要らなかった」私は言った。「そういうことだ、ヘミングウェイ
「ああ、またそれだ。まあいい。テーブルの下にディクタフォンがついていた。録音した分を秘書が書き起こす。俺たちが来たとき、ミスター・ブレインに読み直してたのがそれだ」
 私はミスタ・ブレインを振り返った。彼は葉巻を吸っていた。スリッパでも履いているかのようにくつろいで。こちらを見ようともしなかった。
「まず、それはない」私は言った。「こんなときのために用意した修正済みの文書ファイルがあるのさ」
「なぜあの男に会いたかったのか、理由を話したいんじゃないか」ヘミングウェイがそれとなく持ちかけた。
「まだ顔の一部が残っている間にという意味か?」
「おっと、俺たちはその手の警官じゃない」大きなジェスチャーをまじえて彼は言った。
「なあ、君はアムサーをよく知っているんだろう、ヘミングウェイ?」
「ミスタ・ブレインはよく知ってる。俺はただ言われた通りにするだけだ」
「ミスタ・ブレインというのは何者だ?」
「バックシートの紳士だ」
「バックシート(つまらない地位)にいることの他に、いったい誰なんだ?」
「意味が分からん、ミスタ・ブレインを知らない者はいない」
「もういい」私は言った。急にどうでもいいという気分になってきた。
 しばらく静寂が続いた。カーブが続き、曲がりくねったコンクリートの道が続き、闇が続き、痛みが続いた。
 大男が言った。「今は野郎だけで、女はいない。何であんたがあそこに戻ってきたのかはどうでもいいが、このヘミングウェイという戯言には本当のところ、うんざりしてるんだ」
「ギャグさ」私は言った。「大昔のギャグだ」
「そのヘミングウェイとかいうのは誰なんだ?」
「同じことを何度も繰り返して言う男だ。こちらがその通りだと信じるようになるまで」
「それにはえらく長い時間がかかるにちがいない」大男が言った。「私立探偵にしちゃ、あんたはたしかに、少しばかりとりとめのない頭の持ち主だ。まだ自前の歯は残ってるか?」
「ああ、いくつか詰め物はあるが」
「まあ、ツキが回ってたってとこだ、あんた」
 バックシートの男が言った。「ここでいい。次を右折だ」
「了解」
 ヘミングウェイは、狭い未舗装路にセダンを突っ込んだ。山の側面に沿って延びる道を、ざっと一マイルほど走った。むせかえるようなセージの匂いが鼻をついた。
「ここでいい」バックシートの男が言った。
 ヘミングウェイは車を停め、サイド・ブレーキを引いた。私のからだ越しに屈みこみ、ドアを開けた。
「知り合えてよかったよ、あんた。けど、戻ってくるんじゃないぜ。少なくとも仕事絡みではな。出るんだ」
「ここから歩いて帰るのか?」
バックシートの男が言った。「早くしろ」
「ああ、あんたはここから歩いて帰る。それでいいか?」
「結構だ。考え事をまとめられる。例えば、君たちはL.A.の警官じゃない。しかし、どちらかは警官だ。たぶん二人ともだろう。見たところ、ベイ・シティの警官のようだ。分からないのは、どうして管轄外に出張ってきたかだ」
「証明するのは難しいんじゃないか?」
「おやすみ、ヘミングウェイ
 彼は返事しなかった。二人とも何も言わなかった。私は車を降りようとし、ステップに足をかけて、前にのめった。まだ少し眩暈がした。
 バックシートの男が電光石火の動きを見せた。眼で見るのではなく、気配で感じた。足元には漆黒の夜より深く闇だまりが広がっていた。
 私はその中にダイブした。闇の底が抜けた。》

【解説】

「海霧も流れてこない高さだった」は<high enough to be above the drift of foggy spray from the ocean>。清水訳では「海に近い(さわやかな空気を深く吸い込んだ)」となっているが、水平方向では海に近くても、垂直方向では海から離れているので、原文からかなり意味が変わっている。村上訳は「遥か高いところにあるので、海の飛沫を含んだ霧も漂ってはこない」と原文に忠実だが「海の飛沫を含んだ霧」は少々くどい。

「平凡な黒いセダンで、個人のナンバープレートがついている」は<a plain dark sedan, with private plates>。清水氏は「黒塗りのセダンが一台(駐っていた)」と、ナンバープレートについて触れていない。どう見ても警官らしい二人が個人のナンバーをつけた車で来ている不自然さについて書いているのだ。カットするべきではない。村上訳は「地味な黒いセダンで、個人のナンバープレートがついている」。

「階級を上げ過ぎたよ、あんた」は<It ain't really up to your class, pally>。清水氏は「お前さんのような奴にはもったいない」と訳している。何が勿体ないのだろう。車のことだろうか? 村上氏は「実力以上に欲をかきすぎたんだよ」と訳している。強請るにしても闘うにしても相手が悪かった、というような両義的な意味にとれる訳だ。「階級」と訳したのは、ボクシングでいえば、ヘビー級<the heavyweight class>の意味。ヘミングウェイの言葉の後にマーロウがインディアンのことを訊いていることから見て、この<class>は、格闘技における階級差を意味しているのだと思う。

「なぜあの男に会いたかったのか、理由を話したいんじゃないか」は<Maybe you would like to tell us why you wanted to see this guy>。この<this guy>が曲者だ。清水氏は「なぜ、お前の顔を見たかったのか、わかっているかね?」と訳している。つまり<this guy>をヘミングウェイ本人と解釈しているのだ。しかし、その前に<tell us>と言っているので、ヘミングウェイは自分たちを二人組と考えていることが分かる。村上訳は「どうしてあの男に会いたかったのか、あんた、俺たちにその理由を説明したいんじゃないのかな」だ。

会話の場合、問いかけの訳をまちがえると、答えの方もおかしくなる。「まだ顔の一部が残っている間にという意味か?」の原文は<You mean while I still have part of my face?>。清水訳では「こんな形になる前の顔かね?」となっている。村上訳は「まだ私の顔に少しでも見られるところが残っているうちにということかな?」。

「バックシート(つまらない地位)にいることの他に、いったい誰なんだ?」は<And besides being in the back seat who the hell is he?>。清水訳は「それはわかってる。どういう人間なんだ?」。村上訳は「後ろの席のことは別にして、いったい誰なんだ?」。<take a backseat>という成句がある。「一目置く、二の次になる」の意味だ。自動車の後部座席に座ることが「目立たない位置、つまらない地位」を指している。マーロウは、それを仄めかしているのだが、ヘミングウェイにはそれが通じていない。註でもつけないと伝わらないので、両氏とも無視しているのだろう。しかし、そこを理解しないと、この後マーロウが急にやる気が失せる原因が理解できない。