marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『ブルックリン・フォリーズ』ポール・オースター

ブルックリン・フォリーズ
「フォリ−」とは愚行を意味する名詞だが、複数形の「フォリーズ」になると、女性たちの歌や踊りを中心としたレビューを意味するのが通例だ。となれば、表題の意味するところは、ブルックリンを舞台にした愚行の数々(についてのショー)、といったことにでもなるのだろう。オースターらしい洒落っ気のあるタイトルではある。

都会に生きる孤独な男の存在論的不安の追究とでもいえばいいのか、カフカベケットの不条理劇を思わせる初期三部作に魅せられ、オースター・ファンになった読者も少なくないことだろう。あの細部を削ぎ落とした抽象的、思弁的な作風が懐かしく感じられるほど、最近のオースターが書くものは変貌を遂げている。ストーリー・テラーとしての才能に覚醒した感のある中期の作風にも、それは感じられはしたのだが、孤独感や絶望、ニヒリズムへの傾斜など、随所にオースターらしさが、まだまだ残されていた。

それが、どうだ。ここのところの、訳者の言葉を借りれば「人生が終わった」「中高年」の男性を主人公にした作品群に見られる露悪的とでもいえばいいのか、露骨なセックス描写や、心身の衰えを含め、ある意味で諦念ともとれる、あるがままの人生に対する肯定のあからさまな頻出振りは、はるけくもきつるものかな、の感が深い。表紙カバーの折り返し部分から、真摯な眼差しで、こちらをみつめる著者の写真は変わらないのに。

オースターも歳をとった、ということだろうか。文学志望の青年らしい衒気や客気が消え失せ、舞台裏をそのまま見せたような、あまりにも気取りのないスタイルがかえってわざとらしく思えるほど、自虐的な人物設定や、露骨に過ぎる政治的状況に対するアジテートに、作家的な弱まりを見るべきなのか、と疑いたくなる。ファンとしては、そうではない、と思いたいのだが。

主人公ネイサンは、妻と離婚し、娘とは別居中。癌の手術後、長年勤めた会社を辞め、余生を「愚行の書」と呼ぶ書き物のために使おうと、ブルックリンに引っ越してきたところ。ゲイの店主ハリーが経営する行きつけの古本屋で見つけたのは、かつては将来を嘱望された文学青年だった甥っ子のトムのでっぷりと太った変わり果てた姿であった。妹の失踪を契機に博士論文を放棄し、自暴自棄の生活を送っていたトムだったが、ハリーの店で働くことで生活を立て直し始めていた。そんな二人のところへ、トムの妹の幼い娘が訪ねてくる。

その子ルーシーを親戚に預けるためヴァーモントに向かう一行をアクシデントが襲う。エンジンの故障で泊まったホテルが気に入ったネイサンは、旅の始まる前に聞いたハリーの金儲けの話を思い出し、ホテルを買い取りトムに経営させることを考える。人生の夢破れ、一敗地に塗れた中年男二人が、性懲りもなく美女に惚れたはれたの挙句、とんでもない行動に出る。多種多様な人間がともに暮らす街、ブルックリンを舞台に引き起こす悲喜こもごもの人生模様。

オースターが自家薬籠中のものとする有り得ない偶然の頻出は、ファンなら当然許せるところだし、終り良ければすべて良しといった大団円も、まあよしとしよう。人は誰しも死ぬ。老年が近づけば、自分の人生を見つめる視点も、おのずからその最後の方に引き寄せられるのかもしれない。自己というものの不確実性や、父と子の確執といった主題を追いかけていた若き作家も、今では自分と折り合いをつけ、家族というものの持つ価値や、人の死という誰しも避けられない運命を直視することで、この世の大多数の無名者の人生という、誰も見向きもしないが、その実、誰にとっても大事な物語の持つ意味に気づいたのだろう。

9.11という悲劇に襲われたニュー・ヨークに住む作家として、この日の記憶を風化させることはできない。そんな作家の思いが伝わってくる結末に、オースターならではの才気が感じられる、余韻の残る終わり方である。

『日の名残り』カズオ・イシグロ

日の名残り
主人公スティーブンスは、ダーリントン・ホールと呼ばれる由緒正しい名家の執事である。大戦後、ダーリントン卿は失脚、館はアメリカ人ファラディ氏の所有するところとなる。家付きの執事として仕えることになったスティーブンスに新しい主人は、一度ゆっくりイギリス見物でもしたらいい、と旅行を勧める。初めは遠慮したスティーブンスだが、かつていっしょに勤めた女中頭で、今は結婚して田舎で暮らすミス・ケントンから来た手紙のことを思い出し、訪ねてみようと思い立つ。

小旅行の間、スティーブンスの脳裏に去来するのは、数々の歴史的事件の舞台となったダーリントン・ホールの栄華の日々であり、いっしょに働いていた有能な女中頭ミス・ケントンの思い出である。人手不足もあり、満足の行く仕事ができないスティーブンスは、もう一度ミス・ケントンに戻って来てほしいと考えている。今回の休暇旅行は彼にとってはそういう意味のある旅行だった。しかし、ジョーク好きのファラディ氏は、「おいおい、スティーブンス。ガールフレンドに会いにいきたい?その年でかい?」と、からかうのだった。他者であるファラディ氏の価値観と主人公の価値観との相違が暗示されている大事なところだ。

回想のなかに当時のドイツ駐英大使リッペントロップの名が度々登場することからも、英国とドイツの間に再度戦端が開かれようとしていた時代であることがわかる。スティーブンスが仕えるダーリントン卿は、第一次世界大戦後の賠償問題で疲弊したドイツに同情的で、宥和政策を推進しようとしていることが言葉の端々から伝わる。卿を崇拝する主人公は、卿の仕事が円滑に進むよう、交渉の舞台であるダーリントン・ホールの運営に心を砕く。

執事という職業はイギリスにしかなく、他の国のそれは召使である、と言われるほど、英国人にとって執事という職の持つ意味合いには重いものがある。スティーブンスが目指すのは「品格」を持った執事である。では「品格」とは何か。スティーブンスは言う「品格の有無を決定するのは、自らの職業的あり方を貫き、それに堪える能力だと言えるのではありますまいか」と。この言葉が、彼の行動、意思決定を終始つかさどる。尊敬する父も、そのように生きてきた。スティーブンスに感情がないわけではない。おそらく、執事という職を辞しさえすれば、自分の思いを表面に出すこともできるのだろうが、執事である間は、執事であることを貫き、それに堪えるのだ。

読者から見ると、朴念仁の石部金吉にしか見えないスティーブンスだが、執事という生き方しか知らない彼にとって、より良い執事をめざす限り、気がおけず、能力について尊敬も覚える女性を前にしても、同僚の線を決して越えることはない。それは、ヒューマニズムの問題や、イデオロギーに関しても同じである。主人の決定に異議を唱えるなどということは、執事としての分を超えることになるからだ。彼の考える「品格」を持った執事である、ということは「頭」や「心」は主人に預け、有能な「手足」として働く、いわば「道具」に徹するということである。

ダーリントン・ホールで暮らしているうちはそれでよかった。しかし、たとえ車で出かける数日間の旅行にしても、一歩屋敷の外に出れば、そこは異世界である。スティーブンスは執事ではなく、一人のイギリス人として扱われる。はじめは、とまどい、やがて上流階級の人間と見られることに快感を覚え、本来の出自を隠すようになる。そこには「品格」をもった執事スティーブンスの姿はない。むしろ、それがスティーブンス本来の姿であった。

「執事」という殻をかぶり、本来の自分をみつめることを怠ってきたつけは、この旅行の真の目的であったミス・ケントンとの再開できっちり払わせられることになる。スティーブンスの腹積もりでは、不幸な結婚に陥っているミス・ケントンをそこから救い出し、もう一度ダーリントン・ホールに連れ戻し、かつての愉しい日々を再開する、というものだった。しかし、その期待はあえなく潰える。彼が顧みることのなかった時間は、他の人間を成長させるに充分な時間であった。夕闇迫る桟橋で、こみ上げる涙の苦さ。

アメリカ人という他者の洗礼を受けることで、名残りの日々を過ごすための新たな生きがいを見つけることになるスティーブンス。ほろ苦い結末だが、人生の夕暮れを照らすやさしい光が、そこにさしているようだ。鼻をかむためのハンカチを貸してくれる男の言うとおり「夕方が一日でいちばんいい時間」なのかもしれない。

蛇足ながら訳について一言。1990年に、この翻訳が出たとき、丸谷才一氏は書評の最後に「土屋政雄の翻訳は見事なもの」と、付け加えるのを忘れなかった。そのことに異議はないのだが、72ページで、ダーリントン卿の「これは誇張ではあるまい?」という質問に対し、スティーブンスが「とんでもございません」と答えているのが気になる。文化庁は、誤用ではないとしているようだが、「品格」を大事とする英国の執事が使う言葉とは思えない。ここは、「とんでもないことでございます」と訳してもらわないと、スティーブンスも浮かばれないのではないだろうか。

ただいま改修中

 連休といっても、毎日がやすみの身ではどうということはない。いつものように、朝から読みかけの本(因みに今日はカズオ・イシグロ著『日の名残り』)を読み、散歩の時間になったら、帽子とマスクとサングラスをつけて外に出るだけだ。

 

今年の連休は上天気に恵まれている。我が家の周りは、日曜日ということで、隣近所の店も休み。静かな通りに時折、他府県ナンバーの車が行き過ぎて行くばかり。いつもの道を通り、改修中の倭姫の境内に入った。遷宮の関係で、ずっと放ったらかしになっていた公園の整備が着々と進んでいる。

 

さすがに連休中は、工事関係者も休みらしく、静かな苑地には、人の気配すらない。ここはいつもこんな風で、絶好の散歩コースなのだが、昨今は観光客も増え、車の出入りも頻繁で落ち着かないことはなはだしい。今日はいつもの徴古館にもどっているのがうれしいかぎりだ。

 

ルノートル式の庭園も、以前とは趣が変わった。もうしばらくすれば、潅木も芝生も生長し、見映えがよくなるだろうが、今は少々痛々しい。

 

美術館の裏に回り、工事中の箇所を見て回る。こちらの方は、まだ工事が始まったばかりだ。あまり手を入れないほうが好ましいのだが、こちらの勝手にはしてくれない。すっかり工事が終わるのは九月の末である。そのころには、以前の植物園のときのように歩き回れるようになるのだろうか。そうなるといいのだが。今から待ち遠しい。

 

『書庫を建てる』松原隆一郎/堀部安嗣

書庫を建てる: 1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト
『劇的ビフォー・アフター』というテレビ番組がある。狭小住宅や危険家屋で暮らす施主の依頼に応え、その家屋をリフォームする過程を、司会者とゲストがクイズなどに答えながら視聴者とともに見守り、リフォーム前と後の落差に感動する施主の反応を見て楽しむ、というあれである。番組のミソは、設計を担当する「匠」と呼ばれる建築家に、あらかじめ注文はつけるけれど、それがどんな風に具体化されるか、施主は完成するまで見せてもらえないところにある。この本は、ちょうどその書籍版といったら、よく分かるかもしれない。

もちろん設計図や模型は施工前に示されるし、施主はそれに納得して契約するわけだが、それなりに著名な建築家に設計を依頼する時点で、ある程度、建築物が施主の意向に沿っていさえすれば、その具現化は、建築家のアイデアが中心になったものになる。つまり、金を出し、そこに住まうのは施主の方だが、建物は「誰それの(設計した)家」になってしまう、という点で両者はよく似ている。

それでは、施主は満足していないかと言えば、そうではない。自分の希望を深いところで受け止め、とうてい素人ではなしえない造形にまで導くという点がすべてをクリアしてしまうからだ。この「書庫」の凄いところは、施主である松原氏の希望、それは、たとえば浴槽に浸かりながら草花を眺める、とか、屋上庭園だとかいう、いわば通俗的な願望は、あっさりうっちゃって、その心理の深いところにある、祖父の残した「イエ」の継承という本質をズバリとつかみ出し、円筒形の吹き抜けの内側に仏壇と本をすっぽり納めてしまったことにある。

建築家は、アレクサンドリア図書館だとか、納骨堂だとか、その発想のよって来るところを書いてはいるが、円筒形のなかに「仏」を納めるという観点から見れば、この書庫は「経筒」や「厨子」、もしくは「持仏堂」の一種と考えることができる。それかあらぬか、建築家の文章からは、共に記憶を蔵する場所としての書物と墓所の類似に思い至ったことが述べられている。

平行四辺形の形をした八坪ほどの狭小地に書庫を建てる。しかも、そこにはかなり大きな仏壇を納めることが必須条件となっている。なぜなら、この書庫は、祖父の残した実家を売却した費用でまかなわれているからだ。というよりむしろ、祖父の思い出の残る実家とその土地を、そのまま残すことができなかった直系の孫が、新築書庫という形で祖父の位牌の入った仏壇を安置する建物を建てる、というところにこそ深い意味が込められているのだ。

事実、冒頭から書き起こされるのは、松原氏の家の来歴であり、多分にこみいった家庭事情なのだ。裸一貫で事業を起こし、成功者となった祖父は、信頼していた人間や国家にその財を奪われ、最後には魚崎の実家だけが残る。父は資産家であった家の思い出に生き、実態から目を背け、他者と縁を切り、残った資産を独り占めする。しかし、阪神淡路大震災で、その実家も倒壊。父の死後は、兄妹三人で分割相続することになる。

実家にあった石や樹木まで移築、移植しようという、家の継承ということに対する松原氏の強い思い入れには共感する人もそうでない人もいるだろう。評者も長男として仏壇を引き継ぎはしたが、父母の建てた家は白蟻の被害もあり、解体してしまった。狭い土地のことで、庭も木もない。特に思い出に残るようなものもなければ、それを失くしたことで悔いるところもない。所詮は人によるのだろう。

松原氏は、仏壇や庭木に対するほどには、本自体に思い入れは少ないようで、仕事に使う資料として検索、取り出しに適した形で常時一万冊を収納できることに主眼を置いている。写真で見たところ納められているのは、現在公刊されている本に多い白い背表紙が目立つ。所謂書庫というより、アナログのデータベースといった印象を受ける。そのなかで異彩を放つのはなんといっても立派な仏壇であろう。白檀の香の匂いが漂ってきそうな荘厳な佇まいを見せている。文庫や新書も多く並んだ書棚にはそこまでの迫力はない。

建築家と施主が、一つの建築物が完成するまでの思いをそれぞれ語るという形態も興味深く、どこにも直角を使用しない矩形を底面とした躯体内部に複数の円筒形を刳りぬいたRC造の小豆色の書庫、というなかなかお目にかかれない建築の出来上がるまでを、どうぞじっくりと検分されたい。

『十二の遍歴の物語』G・ガルシア=マルケス

十二の遍歴の物語 (新潮・現代世界の文学)
ガルシア=マルケスの訃報に接し、その死を悼んで何か書きたいと思ったが、『百年の孤独』はもとより、すでに多くの著書や関連する書物について書いてしまっている。そこで、あらためて翻訳された書名を眺めわたしてみたところ、未読の短篇集を一冊見つけ出した。それが、この『十二の遍歴の物語』である。

書物の成立の経緯については、作家自らが冒頭に置かれた「緒言―なぜ十二なのか、なぜ短篇なのか、なぜ遍歴なのか」のなかで意を尽くして述べている。七〇年代初期バルセロナに暮らしていたときに見た夢がきっかけで、短篇集のアイデアをメモとして子どものノートに書きとめだした。旅行の際も携行し、六十四集まった時点で書きはじめたが、二篇書きおえたところで後が続かず、いつの間にか忘却に任せた。それが八〇年に新聞コラムを書くようになり甦る。十二編のうち五篇がコラム、さらに五篇が映画の台本、一篇はテレビドラマ、そして残る一篇は何とインタビューで話したものだという。もちろん、短篇集にまとめるにあたり、最初から書き直されているのだが、映画はまだしも、これらのうちのどれがコラム記事だったのか、その跡形もないほど見事な短篇となっている。

十二篇に共通するのは、その舞台をヨーロッパにとっていることだ。ガルシア=マルケスは、コロンビアの作家とされており、代表作の多くがコロンビアを思わせる土地を舞台にしているにもかかわらず、コロンビアで書かれてはいない。それらは、ヨーロッパや他の中南米諸国で暮らしながら書かれている。訳者の言葉を借りれば、「彼はいつも、とても遠くから書いている」のである。興味深いのは、その彼が本書では逆向きに、遠くからヨーロッパを書いていることである。

ガルシア=マルケスは、二十代半ばで新聞の特派員となりヨーロッパに渡る。しかし、その新聞が母国で発行禁止となったため失職、そのままヨーロッパに留まることになる。その後、他国を転々としながら小説を発表していくのだが、そのうちの少なくない時間を「ヨーロッパのラテン・アメリカ人」として暮らしている。暮らし向きが決して楽でなかったことは、バルガス=リョサがパリの下宿先の大家から、前の借り手もラテン・アメリカ人だったが下宿代を溜めて困った、とこぼされたのがマルケスのことだったと笑い話にしていることからも分かる。当時の印象が強いせいか、概してヨーロッパに向ける視線には冷たいものがある。

今は亡命先のジュネーブで療養中のカリブ海に面した国の元大統領は、手術後体調は悪化する一方だったが、最後の頼みでマルティニークへ移送されると、元気を取り戻す(「大統領閣下、よいお旅を」)。また、元女優だったメキシコ美人はバルセローナに向かう途中、車が故障したため通りかかったバスに乗せてもらい、合流予定の夫に遅れることを告げようと、停まった先で電話を借りるが、そこは精神病院だった。「電話をかけに来ただけなの」と、いくら言っても信じてもらえず、事態はとんでもないことに(「電話をかけに来ただけなの」)。

ブエノス・アイレスからはるばる法王猊下に拝謁するためイタリアを訪れたプルデンシア・リネーロ夫人は、下船したナポリでホテルに泊まる。食堂のあるホテルには、半ズボンからピンク色のひざ頭をのぞかせたイギリス人観光客十七人がホールの椅子に並んで腰かけ眠りこんでいた。肉屋の豚肉を思わせるその光景に怖じ気を震った夫人は別の階の食事抜きのホテルに泊まることにする。翌日、町歩きから帰った夫人の見たものは、担架で運ばれるイギリス人たちだった(「毒を盛られた十七人のイギリス人」)。

バルセローナ近郊のカダケスに吹く「トラモンターナ」という季節風は猛烈なものらしい。ダリの故郷を紹介したテレビで見たことがある。その風を恐れる現地の少年を無理矢理つれてカダケス行きを強行するスウェーデンの男女たちを待ち受けていたものとは(「トラモンターナ」)。せっかくの夏休みを台無しにしてしまう厳格なドイツ人家庭教師に兄弟が仕掛けた悪意ある悪戯の顛末を描いた「ミセズ・フォーブスの幸福な夏」。上流コロンビア人の若夫婦がベントレーの新車を駆って出かけた新婚旅行先のパリで出会うことになった不条理な結末に胸ふたぐ「雪の上に落ちたお前の血の跡」と、どれも「ヨーロッパのラテン・アメリカ人」の感じる違和感に端を発した物語の数々。長篇小説に勝るとも劣らないガルシア=マルケスの短篇小説の切れ味の鋭さを賞味されたい。

『寂しい丘で狩りをする』辻原 登

寂しい丘で狩りをする
表題はエピグラフに引かれたヘミングウェイの「たしかに、狩りをするなら人間狩りだ。武装した人間を狩ることを長らくたっぷりと嗜んだ者は、もはや他の何かに食指を動かすことは決してない」(「青い海で―メキシコ湾流通信」)から採られたもの。いかにも物騒な題辞にふさわしく、小説は強姦致傷、及び窃盗、恐喝未遂で七年の量刑を宣告された被告押本史夫に対する判決文からはじまる。

野添敦子は京橋にあるフィルムセンターのエディター。数年前の大雪の日、親切心で車に同乗させた押本に強姦され、法廷で証言にも立った。その結果収監された加害者に逆恨みされ「出たら殺してやる」と脅されていた。復讐を恐れた敦子は顔見知りの法廷ジャーナリストの紹介で探偵を雇い、出獄した押本の動静を探ることにする。

桑村みどりは、イビサ・レディス探偵社に勤める私立探偵。夫の浮気調査を依頼した探偵社の営業本部長に勘のよさを見込まれ、勤めることに。今では腕利きの女性私立探偵である。しかし、プライベートでは、離婚後付き合ったストーカー男のDV被害に苦しむ被害者でもあった。野添敦子が人を介して調査を依頼することになるのが、桑村みどりである。

検事調書や判決文、調査報告書といった実務的な文書が、そのままの形で記載される法廷物を装ったスタイルから、一見するとストーカー、DVと世間を騒がす流行の犯罪事件を主題に、わが国のような法治国家において事件の被害者の人権がいかに守られることがないか、という既成の事実をこれでもか、というほどの事実を積み重ね、世に訴えようというねらいで書かれた小説のように見える。たしかに、一つにはそういうねらいもあるにちがいない。

最近も事件報道を目にしたばかりだが、ストーカー規制法が成立してからも、この手の犯罪が目に見えて減少したという報告を聞かない。警察ができるのは警告であり、違反しても1年以下の懲役もしくは100万円以下の罰金刑で、この小説に登場するような繰り返し同種の犯罪を犯すことをためらわない常習犯にとっては痛くもかゆくもない。警察には度々届けを出していたのに、という被害者の声を何度聞いたことか。

しかし、小説巧者、辻原登の手にかかれば、読んでいる間、読者の脳裏にそうした実用的な側面が浮かび上がることはまずない。どれほど、住所変更を繰り返してもターゲットの住処を見つけ出すストーカー常習者の手口の周到さ、緻密さ、またその執念深さに圧倒され、被害者にいつその魔の手が襲いかかるか、というサスペンスフルな展開から目がはなせなくなるからだ。

それだけではない。二人の女性が、DVや強姦事件の単なる被害者として描かれることなく、自立して働く魅力的で有能な女性として描かれていることも、その理由の一つだろう。二人の女性が卑劣な男たちによって追い詰められながらも、ただ逃げるだけでなく、正面から立ち向かおうとする、その姿勢に読者はエールを送りたくなるのだ。仮令、私立探偵みどりの手に握られるのが、スミス&ウェッソン製の拳銃ならぬボールペンであったとしても。ふだんは筆記用具として持ち歩いているが、タクティカル・ペンといい、強化アルミ製で、握り部分に滑り止めの格子模様が刻まれ、先端部はガラスも打ち破るという優れものである。

いまひとつ、この小説を面白くしているのが、主人公敦子の職業である。古い可燃性の映画フィルムを探し出し、復元させるという仕事に携わる敦子のもとへは、各地から新たに見つかった懐かしい映画作品の購入依頼が集まってくる。名匠、山中貞雄の幻のフィルムもその一つである。映画ファンならすでに承知のことだが、将来を嘱望された山中はこれからという時に召集され、中国で戦病死し、帰国がかなわなかった。フィルムは消耗品だと考えられた当時の日本では、古いフィルムは処分され、貴重な山中の作品も今では『丹下左膳余話、百万両の壷』、『河内山宗俊』、『人情紙風船』の三本しか現存していない。たとえ一本でも当時のフィルムが残っていて、それが復元可能であるとしたら、これは日本だけではなく、世界的にも一大ニュースになるはず。その一作とは、山中貞雄のデビュー作品『磯の源太、抱寝の長脇差』。現存するのは断片で、全編が発見されたら事件である。

完全に架空の小説のなかに、いかにもありそうな史実を象嵌させる辻原得意の手法は今回も健在で、この陰惨な小説を明るく彩るサイド・ストーリーとして十全に機能している。敦子を付けねらう押本が以前小倉の映画館で映写技師をしていたという設定が見事に生かされ、余韻の残る結末が準備されている。川本三郎が行きたくなるような戦後の闇市に出現したであろう飲み屋街だとか、懐かしい映画館の面影を宿すピンク映画館だとか、昭和の影を色濃く残す書割に、趣味を同じくするご同輩にはたまらない設定がいかにも、の辻原登の最新作である。是非。

 49章

エイモスの運転で、リンダがやってくる。マーロウはシャンペンでもてなそうとするが、リンダのボストンバッグを部屋に入れかけたところで口論になる。シャンペンくらいでベッドをともにする女と見られたくない、と怒り出すのだ。一度は、謝るマーロウだが、怒りの覚めやらぬリンダに、今度はマーロウのほうが怒り出す。そして痴話喧嘩のあとは仲直りのキス、となる。その冒頭から。

“When the car stopped out front and the door opened I went out and stood at the top of the steps to call down.”
清水訳
車が表でとまって、ドアがあくのが聞こえたとき、私は入り口に出て、会談の上に立っていた。
村上訳
うちの正面に車が停まり、ドアの開く音が聞こえた。私は外に出て階段のてっぺんから「すぐに下りていくから」と下に向けて声をかけた。
英語というのは、即物的というか、実践的というか、なんとも率直な言葉で、“call down”が、「下りて来るように言う」という意味を表す。村上訳は、その用例で、会話を補足して使っている。直訳すれば、「外で車が停まり、ドアがあいたとき、私は、降りてきて、と言われるために外に出て階段の上に立っていた」。もっと砕いて言うなら、「外で車が停まり、ドアが開いたとき、私はいつ声がかかっても下りてゆけるよう、外に出て階段の上に立っていた」か。

しかし、運転手のエイモスが彼女のためにドアを開け、小さな旅行鞄を手に、彼女の後から階段を上がってきたので、マーロウは待つことにした。マーロウがホテルまで送ってくれるから、とリンダは車を帰し、一人で部屋の中に入る。顔の傷に気づいたリンダは、どうしたの、と訊きマーロウはメネンディスにやられたが、もう彼のことは忘れていい、と話を打ち切る。飲み物でもということになり、シャンパンの話になる。
“I haven’t any ice bucket, but it’s cold, I’ve been saving it for years. Two bottles. Cordon Rouge. I guess it’s good. I’m no iudge.”
清水訳
「氷を入れるバケツはないが、シャンパンは冷えている。永いあいだしまっておいたのが、二本ある。コードン・ルージュです。いい品物だと思うんだがね。ぼくにはよくわからない」
村上訳
「アイス・バケツの用意はないが、よく冷えているよ。二年ほど前からずっととってあるからね。コルドン・ルージュが二本。悪くないものだ。とりたててシャンパンには詳しいわけじゃないが」
“saving it for”が、このあと問題になってくるのだが、村上氏はなぜ「二年ほど前」と時間を区切ったのだろう。閑話休題シャンパンがとってあるときいたリンダは“saving it for what?”(なんのためにとっておいたの?)と尋ね、マーロウは“saving it for you.”(君のためさ)と応える。気の利いた台詞のやりとりだ。リンダは、微笑みながら、マーロウの顔をじっとみつめて、こういう。
“You’re all cut.”
清水訳「うまいことをいうのね」
村上訳「顔じゅう傷だらけ」
次にくるのが、会ってからまだ二ヵ月しかたってないのに、という台詞だから、リンダがマーロウの言葉のいい加減さに呆れたことをいいたいのだろう。清水氏の意訳でもいいのだが、“be cut”には、「死ぬ、重傷を負う」の意味がある。顔の傷にかけて、「あなたって、まったくどうしようもない人ね」の意味を含めているのではないだろうか。その後にこう続くのだから。
“Saving for me? That’s not very likely, It’s only a couple of months since we met.”
清水訳
「私のためにしまっておいたの?おかしいじゃないの。会ってからまだ二ヵ月しかたっていないのよ」
そういわれても悪びれず、「いずれ会えるだろうと思ってしまっておいたのさ」と、かわすマーロウ。このあたりの台詞のやりとりは実に軽妙だ。

シャンパンをとりに台所へ行く際に、マーロウは旅行鞄を持って部屋から出ようとした。そこにリンダの鋭い声が飛ぶ。“Just where are you going with that?”(それを持ってどこへ行こうというの)。
“It’s an overnight bag, isn’t it?”
清水訳「身のまわりのものが入ってるんでしょ」
村上訳「だって、泊まり支度なんだろう?」
リンダのバッグは、ハンドバッグではなく、一泊程度の旅行用の鞄で、所謂ボストンバッグだった。車も帰したし、遅いから泊まるつもりで来たにちがいないとマーロウは考えたのだろう。しかし、リンダはマーロウが車でホテルに送ってくれるから、といって運転手を帰している。泊まる、とはひと言も言っていない。その一方で、マーロウは今夜は車がないこともリンダに告げている。それを承知で車を帰したからには、自分の家に泊まる気でいるとマーロウが考えるのも無理はない。

リンダは混乱している。マーロウはこれまで、自分に気があるような素振りは全然見せてこなかった。リンダは、マーロウのことを「タフで、シニカルで、ひねくれて、冷酷な人だ」と思ってきた、という。マーロウは、「そうかもしれない―ときによっては」と、返す。そのあと、
“Now I’m here and I suppose without preamble, after we had a reasonable quantity of champagne you plan to grab me and throw me on the bed. Is that it?”
清水訳
「ところが、私がここへ来たものだから、シャンペンでいいかげん酔っぱらわせてから、私をつかまえてベッドにつれこもうというのね。そうなんでしょ」
村上訳
「私は今ここにいる。前置きみたいなものも抜きに。そしてあなたは、そこそこの量のシャンパンを飲んだあとで私にいどみかかり、ベッドに押し倒そうとしている。違うかしら?」
“without preamble”というのは、「前置き抜きに」でまちがいないのだが、村上氏のように訳すと、ずいぶん堅苦しく聞こえてしまう。こんな訳はいかがだろう。
「私は今はここにいる。そして、ずばり言うけど、このあと二人が気持ちよくなるくらいシャンペンを飲んだら、あなたは強引に私をベッドにつれこむつもりなのよね。ちがう?」

マーロウは正直に、そんな考えも頭の片隅にちらっと浮かんだかもしれない、と明かす。「光栄だわ」と、言いながらもリンダは、あなたのことは好きだが、だからといってあなたと寝たいと思っているとは限らない。旅行鞄のせいで早合点したんじゃないの?と、軽くいなす。バッグを元の位置に置いたマーロウはシャンパンを取りにいこうとする。「シャンパンはもっといいことがあったときのためにとっておいたら」と、引きとめるリンダにマーロウは「たった二本だ。本当にいいことがあったら一ダースは必要だ」と、言う。その一言がリンダを傷つける。自分はそれだけの価値の女だ、と言われたように感じたのだ。離婚話と旅行鞄のせいで自分のものになると思ったらお門違いよ、と怒りを募らせるリンダに、マーロウも切れる。今度旅行鞄のことを口にしたら投げ捨ててやる。別に寝ることを求めてなどいない。いっしょに酒を飲もうというだけじゃないか、と。相手を怒らせてしまったことに気づいたリンダは、マーロウに詫びる。
“I’m a tired and disappointed woman. Please be kind to me. I’m not bargain to anyone.”
清水訳
「ごめんなさいね。私は世の中にくたびれて、幻滅を感じている女よ。お願いだから、やさしくしてくださいな。つまらない女なのよ」
村上訳
「ごめんなさい。とてもくたびれて、心が傷ついているの。だから優しくしてちょうだい。相手が誰であれ自分を安売りしたくないの」
最後のところの訳が異なっている。“ bargain”は、もともと「商い」を語源とする。この文脈では、誰とも(値段を)交渉する気がないという意味になる。相手の出方を見て、駆け引きするような、そんな元気は今の自分にはない。ただ、優しくしてほしい、と訴えているのだ。そういう意味では清水氏の「つまらない女なのよ」は、よく分かる訳だ。村上氏の「安売りしたくないの」は、“ bargain”に引きずられた訳だと思われるが、この状態のリンダの口から出てくる言葉としては、少々高飛車な感じがするのは否めない。

マーロウは、そんなリンダの言ったことを否定する。君はくたびれてなんかいないし、他の誰と比べても失望してなんかいない。誰かに優しくしてもらう必要などない女なのだ、と。マーロウが、シャンパンを用意して戻ると、リンダはいない。どこへ行ったのかと探すと、リンダは髪をほどき、ローブに着替えていた。
“I meant to all time,” she said. “I just had to be difficult. I don’t know why. Just nerves perhaps. I’m not really a loose woman at all. Is that a pity?”
清水訳
「抱いてほしかったのよ」と、彼女はいった。「でもかんたんに抱かれたくなかったの。なぜだかわからないわ。―でも、ほんとはこんなことをする女じゃないのよ。そう思わなかった?」
村上訳
「はじめからそのつもりだった」と彼女は言った。「でも自分で自分をついむずかしくしてしまう性格なの。どうしてかしら。ただ神経過敏なのかもしれないわね。ガードがとても固くて、うまくほどけない。困ったものね」
心まですっかりほどけたリンダは、しどけない姿でマーロウの前に現われる。ここは、村上訳が原文に忠実だ。

簡単に落ちる女だと思ったら、ヴィクターズではじめて会った時に誘っていたさ、と言うマーロウに、
“I don’t think so, That’s why I am here?”
清水訳「私はそうは思わないわ。だから、ここに来てるのよ」
村上訳「誘いをかけなかったのなら、私はなぜ今ここにいるのかしら」
村上訳でいくと、マーロウははじめからリンダにアタックしていたんだ、ということになる。だから、次の言葉が、「でもとにかくあの夜じゃない」という部分否定になる。清水訳では、最初の出会いのときに誘ってないから、今夜がある、という意味になる。いずれにせよ、マーロウは最初の夜にはリンダを誘っていない。あの夜はもっと他に気になることがあったからだ。
親しげな会話が続くうちに、リンダはシャンパンを再三ほしがる。なぜ?と問うマーロウに、
“It’ll get flat if we don’t drink it. Besides I like the taste of it.”
清水訳「飲まないと気分がわかないの。それに、舌ざわりが好きなのよ」
村上訳「飲まないと気が抜けてしまうでしょ。それにシャンパンが好きなの」
“it”が主語なのだから、沸き立つものがなくなってしまうのはシャンパンの方だろう。このあたりの会話は、もう内容など、どうでもいいような気がしてくる。勝手にやってくれというくらいのものだ。