marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『ブルックリン・フォリーズ』ポール・オースター

ブルックリン・フォリーズ
「フォリ−」とは愚行を意味する名詞だが、複数形の「フォリーズ」になると、女性たちの歌や踊りを中心としたレビューを意味するのが通例だ。となれば、表題の意味するところは、ブルックリンを舞台にした愚行の数々(についてのショー)、といったことにでもなるのだろう。オースターらしい洒落っ気のあるタイトルではある。

都会に生きる孤独な男の存在論的不安の追究とでもいえばいいのか、カフカベケットの不条理劇を思わせる初期三部作に魅せられ、オースター・ファンになった読者も少なくないことだろう。あの細部を削ぎ落とした抽象的、思弁的な作風が懐かしく感じられるほど、最近のオースターが書くものは変貌を遂げている。ストーリー・テラーとしての才能に覚醒した感のある中期の作風にも、それは感じられはしたのだが、孤独感や絶望、ニヒリズムへの傾斜など、随所にオースターらしさが、まだまだ残されていた。

それが、どうだ。ここのところの、訳者の言葉を借りれば「人生が終わった」「中高年」の男性を主人公にした作品群に見られる露悪的とでもいえばいいのか、露骨なセックス描写や、心身の衰えを含め、ある意味で諦念ともとれる、あるがままの人生に対する肯定のあからさまな頻出振りは、はるけくもきつるものかな、の感が深い。表紙カバーの折り返し部分から、真摯な眼差しで、こちらをみつめる著者の写真は変わらないのに。

オースターも歳をとった、ということだろうか。文学志望の青年らしい衒気や客気が消え失せ、舞台裏をそのまま見せたような、あまりにも気取りのないスタイルがかえってわざとらしく思えるほど、自虐的な人物設定や、露骨に過ぎる政治的状況に対するアジテートに、作家的な弱まりを見るべきなのか、と疑いたくなる。ファンとしては、そうではない、と思いたいのだが。

主人公ネイサンは、妻と離婚し、娘とは別居中。癌の手術後、長年勤めた会社を辞め、余生を「愚行の書」と呼ぶ書き物のために使おうと、ブルックリンに引っ越してきたところ。ゲイの店主ハリーが経営する行きつけの古本屋で見つけたのは、かつては将来を嘱望された文学青年だった甥っ子のトムのでっぷりと太った変わり果てた姿であった。妹の失踪を契機に博士論文を放棄し、自暴自棄の生活を送っていたトムだったが、ハリーの店で働くことで生活を立て直し始めていた。そんな二人のところへ、トムの妹の幼い娘が訪ねてくる。

その子ルーシーを親戚に預けるためヴァーモントに向かう一行をアクシデントが襲う。エンジンの故障で泊まったホテルが気に入ったネイサンは、旅の始まる前に聞いたハリーの金儲けの話を思い出し、ホテルを買い取りトムに経営させることを考える。人生の夢破れ、一敗地に塗れた中年男二人が、性懲りもなく美女に惚れたはれたの挙句、とんでもない行動に出る。多種多様な人間がともに暮らす街、ブルックリンを舞台に引き起こす悲喜こもごもの人生模様。

オースターが自家薬籠中のものとする有り得ない偶然の頻出は、ファンなら当然許せるところだし、終り良ければすべて良しといった大団円も、まあよしとしよう。人は誰しも死ぬ。老年が近づけば、自分の人生を見つめる視点も、おのずからその最後の方に引き寄せられるのかもしれない。自己というものの不確実性や、父と子の確執といった主題を追いかけていた若き作家も、今では自分と折り合いをつけ、家族というものの持つ価値や、人の死という誰しも避けられない運命を直視することで、この世の大多数の無名者の人生という、誰も見向きもしないが、その実、誰にとっても大事な物語の持つ意味に気づいたのだろう。

9.11という悲劇に襲われたニュー・ヨークに住む作家として、この日の記憶を風化させることはできない。そんな作家の思いが伝わってくる結末に、オースターならではの才気が感じられる、余韻の残る終わり方である。