marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『リトル・シスター』レイモンド・チャンドラー

リトル・シスター
村上春樹の書く小説も、他の作家の書いたミステリもあまり読まないのに、村上訳のチャンドラーだけは出るたびに読んでしまう。単にチャンドラーのファンというだけかもしれない。そうでないのかもしれない。

村上訳が出たことによって、チャンドラーの位置づけが変わった。以前は、ハード・ボイルドという推理小説のコーナーに置かれていたものが、今ではフィッツジェラルドの隣あたりに並べて置かれるようになった。どこに置かれても作品自体は変わらないような気もするが、旧訳のマーロウと村上訳のマーロウでは、味と香りにバーボンとスコッチくらいのちがいがある。無論、人それぞれに好みがあり、どちらも捨てがたい。

『リトル・シスター(かわいい女)』は、マーロウものの長篇では五作目。マーロウは三八歳になり、少しくたびれかけている。相変わらず自分を含め街や人を観察する目はシニカルだが、口調が時におだやかでない。言いすぎたと思うのか、そのたび自分で「おいおいマーロウ。今夜のお前はどうかしてる」と自分で茶々を入れるといった具合だ。

音信不通の兄を捜しに、カンザスの田舎から出て来た妹がマーロウに仕事を依頼するところから話ははじまる。マーロウが行く先々で出会うのが頸椎にアイスピックを突き刺された死体。どうやら強請がからんだ事件らしい。現場で見つけた一枚の預かり証を手がかりにマーロウは事件の解決をはかるが、そこには映画の都ハリウッドならではのスキャンダルが隠されていた。

正直いって、チャンドラーの他の作品と比べた場合、あまりよくできた作品とはいえないのではないか。プロットが入り組みすぎていて、一読しただけでは誰が誰を殺したのかよく分からないというのが訳者自身の言葉だ。さらに、会話の中ですでに話されたことになっている内容がそれまでのところに書かれていないなど、明らかに書き落としと思われる箇所が散見される。

男性に比べると女性の人物造型が難とされるチャンドラーだが、今回も重要な役割をつとめる二人の映画女優の造型はいまひとつだ。セックス過剰のヴァンプ役は戯画化された分楽しむことができるが、マーロウが惹かれる新進女優の方は、映画の台詞をなぞっているようだ、と自分でも口にする。ヒロインが自分で類型化されたキャラクターだと証しているようなものだ。

それでは、面白くないかと言われたらそれはちがう。チャンドラーの筆力は相変わらず冴えている。時に長広舌となる文明批評、ここでは映画産業に代表されるハリウッドの娯楽産業がやり玉に挙げられる。ハリウッドがやってくる前の牧歌的なロスアンジェルスを懐かしむマーロウの口ぶりには、当時脚本家としてハリウッドで仕事していた作家自身の屈折した心理が窺われる。

的確な人物スケッチ。オフィスのパティオで三匹のボクサー犬に小便をさせる映画会社の社長など、モデルとなる人物がきっといるにちがいないと思わされるほどの出来映えである。一生懸命やっているのに誰からも誉められず、批判され、嫌われる警官としての日頃の鬱憤を爆発させるフレンチというロス市警警部補がマーロウにぶつけるスピーチもいい。

タイトルにもなっている妹をはじめ、マーロウと相手役の交わす会話はいつもながらひねりが効き洒落ている。時にすべるが、それは愛嬌というもの。ちょっとメモしておいて使いたくなる決め科白も少なくない。

最後まで読み終えても、何度でも読み返したくなるというのがチャンドラーの小説である。ミステリの枠におとなしく収まっているような代物ではない。次回は、何を訳してくれるのだろう。『大いなる眠り』あたりではないか、と思うのだが、それではあんまり当たり前か。いずれにせよ、楽しみなことだ。