marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『クーデタ』ジョン・アップダイク

クーデタ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-5)
ラテン・アメリカ文学には独裁者小説というジャンルがあると訳者である池澤夏樹が月報に書いている。ガルシア=マルケスの『族長の秋』、バルガス=リョサの『チボの狂宴』と、既読のものでも指が折れるくらいだから、多分ジャンルとして成立するのだろう。強烈な個性を持った一人の男が国を牛耳っているのだ。小説にする材料に事欠かないのはいうまでもない。とはいえ、作者のアップダイクといえば「ウサギ」シリーズで知られるアメリカ人作家。典型的なアメリ中産階級の男女の愛とセックスを描いてきた、いわば都会派小説の書き手。まず、このミス・マッチが興味をひく。

小説の舞台になっているのはクシュという架空の国。北アフリカ内陸部にあって、国土はジャングルでなく沙獏。元はフランスの植民地だが1960年に独立してイスラム社会主義国になった。大統領は、ハキム・フェリクス・エレルー。この小説の語り手であり、主人公である。エレルーは生粋のアフリカ人だが、孤児として育ち、外人部隊の一員として仏領インドシナで戦った後アメリカに留学する。帰国後昇進し1969年のクーデタで国の実権を掌握。三十六歳で大統領となる。

クシュの現在の問題点は干魃による飢饉である。もともと沙獏地帯であるクシュに干魃はない。季節に応じて家畜を移動させる遊牧民的な生活が常態であった。それが、クーデタ後他国からの援助で井戸が掘削され、定住的生活が可能となったため、牧草地に生えた草を家畜が食い尽くすことで人為的な干魃が生じたのだ。善意の援助が、かえってその地域本来の生態系や文化を破壊してしまうという主張が全編を貫く語り手の問題意識である。これに冷戦時の米ソ双方の思惑がからむことでストーリーが展開していく。

エレルーは、アメリカに留学中にイスラム教に帰依している。イスラム教を信奉し、イデオロギー的には社会主義というのは簡単にいえば反アメリカということだ。これに対し、エレルーの片腕で主席大臣を務めるエザナは、イスラム教が認めない絹製のスーツを身に纏い、アメリカに対しても親近感を感じているようだ。クシュは、霊的にはエレルーが統治し、外交や財政といった現実的な政治はエザナが担当している。

独裁者小説といいながら、政治的な駆け引きや権力闘争の気配が希薄なのは、そちらはエザナの担当だからだ。エレルーは、千一夜物語のカリフよろしく、旅の物売りに扮し国内の様子を見回るのが仕事だ。ある時は沙獏の隊商の中に紛れ込み、またある時は、井戸掘り職人の一団に加わって、問題が起きている土地に直接乗り込み解決をはかる。最後には、自分がエレルーだと名乗りを上げるのは水戸黄門と同じである。格さん助さんならぬオプクとムテサという二人のボディガードがメルセデスに乗って少し後ろから付いてくるのまでよく似ている。もちろん女性もいなくては話にならない。四人の妻のうちの一人一番若くて小柄なシェバと、新しく見つけてきたクトゥンダが、旅に同行する。

沙獏の地下にソ連が作ったミサイル基地が忽然と現れたり、ほとんど秘境といってよい不毛の高地を訪れたり、ある面でこの小説は秘境小説であり冒険小説的な香りが濃い。回教寺院の尖塔から流れる晩祷や、王宮の迷路のような抜け道といった基本的な設定から、沙獏の稜線に幻のように現れる二つの金の放物線(マクドナルドの看板である)や、イスラム社会主義国の中に秘密裡に作られていたアメリカ村や油田の存在といったマジック・リアリズム風の書き割りまで、読ませる工夫に溢れている。

一夫多妻の許されるイスラムの国だから、エレルーには四人の妻がいる。年上で母や姉のような存在のカドンゴミリ。王女であったシッティナ。アメリカから連れ帰った白人の妻キャンディー。それにシェバ。それぞれがエレルーの分裂する人格を照射する働きを持たされている。それを象徴するように、エレルーは、四人の妻に別の名で呼ばれている。一番新しい女であるクトゥンダへの嫉妬から、エレルーとエザナの間には亀裂が生じ、それがもとでエレルーは失脚する。

エレルーにはラテン・アメリカの独裁者のような強烈な個性があまり感じられない。自分を引き立ててくれた王の首を斬るにあたってもハムレットのように悩む。四人の女の間を往ったり来たりするエレルーの姿はウサギと似ていなくもない。舞台をアフリカに置いてはみたが、結局アップダイクの問題意識は「男と女、宗教と死」にあるのだろう。米ソの冷戦期、アフリカの内陸国に起きたクーデタを材料に独裁者小説のジャンルを借りて、外から見たアメリカの像を描いて見せたアップダイクの問題作である。