marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『ローラのオリジナル』ウラジーミル・ナボコフ

ローラのオリジナル
ナボコフの未発表の遺作と聞けば、ファンでなくとも色めき立つ。あの『ロリータ』が作家自ら火中に投じられようとしていたのを妻が気づいてとめたことによって世間に知られることになったのは有名な話だが、『ローラのオリジナル』も未完成であるが故に作家によって焼却処分を命じられていた。父の遺言を文字通り実行すべきか息子であるドミートリイは悩んだ。しかし、悩むこと自体がすでに遺言の破棄を予言していたといえよう。正確にはまだ作品として完成していない自筆の138枚のインデックス・カードをそのまま公開することに決めた。偏愛する作家の直筆原稿で作品世界を俯瞰できるというのはファンにとって望外な喜びである。

ペンギンおよびクノッフ社から出たハードカヴァーの初版はページに再現されたカードの周りにミシン目の孔があけてあり、その気になれば切り取ってカード状に束ねることができるようになっているという。それぞれのカードの右上に書かれた章番号を参考に、完成稿を組み立ててみることもできる仕掛けだ。日本語版は、インデックス・カードの写真図版をページ上部に、若島正訳の翻訳文をその下部に配する仕立て。その代わり、若島正氏による懇切丁寧な解説がついている。

若島氏によれば長篇小説として考えれば300枚程度のカードが必要とされる。綴り字の誤りも散見されるインデックス・カードに記された草稿は、これからまだまだ練り上げられる過程にあるものなのだろう。とはいえ、『ローラのオリジナル』という作品はすでにナボコフの頭の中に完成された形で存在していたはずで、それがどのようなものであったかを想像しながら読むには、一枚一枚独立したカードを関係する内容によってグループ化し、そうしてできた山を移動させるという作業は必須だ。ナボコフファンなら英語版初版のハードカヴァーを手に入れて切り抜いてみるのもいいだろう。因みにカードに近い厚手の紙が使用されているというから出版社ももとよりその気である。

昨今の小説は時間軸はもちろんのこと、視点の移動も断りなしに行われる。カード化された断片が小説の躰をなしても何の不思議なことがあるものか。カードを跨いだ記述も多く、それぞれのカードは独立を装いながらも連関するところは繋がりを保持している。

『ローラのオリジナル』とは、主人公フローラをモデルにして描かれた『我がローラ』という小説の作者を話者とするオリジナルのローラの物語と、その夫であるフィリップ・ワイルドの心理的実験を並行して叙述することで、「語る主体の消失」という主題を変奏してみせたものといえる。遺作を意識したかどうかは知らないが、『ロリータ』をはじめとする過去の作品の登場人物に擬せられる人物やら、その行動やら自己言及的な表現が頻出する。

その一例が、母の愛人でフローラの家に同居するヒューバート・H・ヒューバートなる人物である。ハンバート・ハンバートをいやでも想起させるその名前といい、看病するふりをして少女のからだを触ろうとするその行為といい、『ロリータ』の主人公をなぞっている。ただ、『ロリータ』では、話者であるハンバートが、ねじくれてはいるが、ある意味で類例のない美への殉教者の一面を感じさせるのに対し、第三者的視点で描かれるヒューバートの行為は、ただのいやらしい中年男にしか見えない。

ヒューバートの娘でフローラにそっくりのデイジーが、田舎道で後退してきた大型トラックに轢き殺されたり、『ロリータ』のリライトを感じさせる記述は他にもある。想像力の枯渇によるネタの使い回しなのか、それとも愛読者へのウィンクなのか、どちらとも決めかねるが、暗にホモ・セクシュアルであることを仄めかすようなワイルドの夢の記述といい、理解できるものなら理解してみろと、読者や批評家を挑発してみせるナボコフの姿勢は最後まで変わらない。

丁寧な斜字体で罫線内に筆記された鉛筆原稿をたどってナボコフの生原稿を読むという愉しみのためだけにでも、手にとってみる価値がある。いそいで書きとめたのか、罫線を無視したメモ書きのようなカード、欄外に附された思いつきめいた一言と、ナボコフの思惑に思いを馳せるのも一興。手書きでは読みづらい読者のために英文テクストも附されていて、ナボコフの英文が、日本語の文章に変換されるとどう印象が異なるのかを知るにも格好の一冊と言える。