marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『V.』 トマス・ピンチョン

V.〈上〉 (Thomas Pynchon Complete Collection) V.〈下〉 (Thomas Pynchon Complete Collection)
ピンチョン=難解というイメージが先行しているようだけれど、そんなことはない。一つ一つの章で区切りをつけて読みすすんでいけば特に理解し難いところはない。登場人物の多さと錯綜する二つの時間軸の存在が単に理解を妨げているだけだ。一度読んだだけで分かったつもりになるのは確かに難しかろうが、再読すればあらかた分かる。三読すればピンチョン・ワールドにはまること請け合い。批評家でない単なる読者のありがたいことは、すべてが分かる必要などないってこと。そう開き直ってしまえば、ケネディ登場以前のアメリカを背景にしたこの小説が21世紀の今読んでもとんでもなく面白いことにびっくりするはず。

登場人物の多さと二つの時間軸についてはすでに述べたが、そもそも二つのレベルのちがう物語が一冊の本の形式に綴じられているのがこの作品だ。その一つは、1955年のクリスマス・イヴに始まるベニー・プロフェインというヨーヨー男の物語。ヨーヨーに自分の意志がないように、自分というものを持たず、行き当たりばったりな生活を続けている。ある時は一日中地下鉄に乗り続け、そうでなければ酔っぱらって他人の家に転がり込むという生活。どう贔屓目に見てもヒーローにはなれないタイプだが、この男やたらもてる。ビリヤードの球のように転がっていくプロフェインがぶつかる何人もの男女、NYを拠点に活躍するレコード会社の社長や小説家、画家、ジャズマンといった一癖も二癖もある連中との酒とパーティーとセックスだらけの生活。デカダンスに満ちた日々をクールに、けれど優しく描いたパートは、どう考えても愛し合っている二人の男女が自意識に絡めとられて身動きできずに傷つけ合うラブ・ストーリースラップスティック的色調で描かれているが、その裏にしみじみとした哀感がにじむ。

もう一つは、ハーバート・ステンシルという男が収集した「V.」についての物語群である。ステンシルの父は二つの大戦時をスパイとして生きた。彼が残した手記に書かれていたのが、「V.」という謎の存在である。父の残した「V.」を追跡するのがオブセッションとなったステンシルは、手記に残された手がかりを頼りに「V.」に纏わる情報を集めるのだった。このパートは、もう一つの物語とは色調が全く異なる。ある時はスパイ活劇調であり、またある時はグラン・ギニョールめいた残酷さを帯びるといった具合に。「V.」とは何か、というのがヒッチコックがいう「マクガフィン」である。真面目な読者は、ついついそれにひっかかるが、話を引っぱっていくための道具に過ぎない。ヴィクトリアやヴェロニカといったヒロインたちや物語の鍵を握るマルタ島の首都ヴァレッタの頭文字。歴史を動かす大きな陰謀の陰に暗躍する危険な魅力を持つ「女」を象徴する文字である。

面白いのは、この二つの相容れない物語が、ステンシル親子を蝶番にして繋がっていることだ。一例を挙げれば、プロフェインのつきあっているパオラは、マルタ島の詩人でステンシルの父シドニーに情報を流す二重スパイ、ファウスト・マイストラルであったという具合に。パオラがステンシルに読ませる父の手記が、まるまる十一章「マルタ詩人ファウストの告解」に充てられている。戦争を契機に一人の青年詩人が人間性を喪失し「非人間性」ではなく「無人間性」を持つにいたる経緯を綴った文学性の濃い自伝は、全く別の異なった一篇の小説を読んでいるような気にさせる。

次々と繰り出される挿話のバリエーションの豊富さに圧倒される。フィレンツェヴェネチア、パリと旧世界の華やかな都市を経巡る舞台の意匠もさることながら、それぞれの物語を語る語り口の変化も見逃せない。オペラ座における暗殺事件の顛末を描いた第三章「早変わり芸人ステンシル、八つの人格憑依を行うの巻」ではヴァージニア・ウルフばりの話者の素速い転換で目眩く舞台転換を軽々とさばいてみせる。第九章「モンダウゲンの物語」では、歯科医アイゲンヴァリューが若き日の独領南西アフリカでの残酷と頽廃の日々をたっぷりと語り尽くすのだが、ここでも夢うつつの裡に語られる物語の話者が果たして誰だったのか判別し難くなる曖昧なナラティヴが駆使され、読者は眩惑される。

定職や定住を厭うプロフェインは何らかの理由でアイデンティティーの確立を放棄している。彼の仲間である「病ンデル連」と称する知的スノブたちも自分は何をなすでもなく出来合いの言葉を投げ合っているだけ。ステンシルという名が暗示するのは大量の複製品である。ユダヤ系のエスターが自分の出自を示す鉤鼻を削りとるために通う整形外科医は、かつて戦争で傷つけられた上官の面貌の修復を期して形成外科医を目指した男のなれの果てだ。現代に生きる登場人物たちに蔓延するのはアイデンティティーの喪失という主題である。

それに対して、豪華な舞台や配役を総動員してゴテゴテと造りあげているのが二つの大戦をはさむ時代。「V.」が象徴する世界である。絶世の美女や各国のスパイが諜報活動を行い、世界に起きる事件を操っているかのように見える世界。得も言われぬ色彩の乱舞する無可有郷や南極の極点にある世界を閉じ込めた球体の存在が信じられる魅惑的な時代。暴力や殺戮が支配する者とされるものを截然と分かつ世界。何か大きな装置が混沌とした世界を一つに纏め上げていて、人間はその中で決められた役割を果たしているような劇的な時代であり、世界である。

プロフェインがいつまでもぐずぐずしているのは、混沌とした世界を割り切ることのできる大きな装置などありえないということを言いたいのかもしれない。しかし、恋人レイチェルは、そんなプロフェインや「病ンデル連」を認めない。ステンシルのように大きな世界を束ねる一つの解決策を求めるのではない別の道を探しているのだろう。アルトサックス奏者スフィアが呟く次の科白にそのヒントがある。

クールとクレイジーのフリップ=フロップ回路から抜け出るには、明らかに、スローでしんどいハードワークが必要だと。黙ったまま人を愛する。やけを起こさず、自己宣伝をせず、他人をヘルプする。クールに、されどケアを忘れず。Keep cool but care. 常識で分かることだ。天啓が閃いたというわけじゃない。自分で言うのも恥ずかしいほど当たり前の認識に至っただけのことである。

この生き方、いつの時代であっても通じるのではないか。今のこの国の状態ならなおさらに。

百科全書ばりの蘊蓄やら、挿入された歌曲(ジャズあり、ロックあり、モーツァルトのオペラあり)やら、多彩な才能を発揮するトマス・ピンチョンだが、1937年生まれで本作が発表されたのが1963年。若干26歳のこれがデビュー作だというから呆れてしまう。溢れるばかりの才気の輝きに、今更ながら脱帽である。