一度汚してしまった自分の名を、生涯をかけて償うことで取り戻すことができるのか、というきわめてシンプルな主題を持つ小説である。
二年の養成期間を経て、晴れて憧れの船乗りになったジムは、航海中倒れてきた円柱の下敷きになり怪我をし、とある東の港に下ろされ病院に入る。怪我も癒え、仕事に戻る際、ジムは本国に戻らず、地元船の一等航海士の職を選ぶ。「パトナ」号と呼ばれる老朽船は、マレー周辺から集まった800人の巡礼を載せてメッカを目指すが、紅海近辺で何かに乗り上げ、船首近くが浸水する。
ドイツ系の船長はじめ四人の白人船員たちは乗客を見捨て、ボートに乗って逃げようとする。ジムは、はじめ船に残ることを選ぶが、ジョージという航海士が逃げる途中過って頭を打ち即死する。そのジョージにボートから「飛び下りるんだ。」と、声がかかる。気がついたときジムは、ボートの中にいた。
すぐに壊れると思われた船首隔壁が持ちこたえたため、パトナ号は沈没を免れ他船に救助される。乗客を見捨てて船員が逃げるということは許されるものではない。海事裁判が開かれ、白人船員たちは船員資格を剥奪される。船に乗れなくなったジムは、港々で停泊中の船に必要な物資を提供する船長番という仕事に就き、名船長番として評判になるが、パトナ号の事件が人の噂を呼び、逃げるように職を辞しては別の港を探すという日々を続けていた。
この話の大半の語り手は、ジムから事件当夜の話を聞いたマーロウという船長だが、そのマーロウの友人スタインの世話で、ジムは、パトゥザンという、商人にも名ばかり知られているが、誰も訪れた者のいないジャングルの奥地に赴任することになる。ジムは、そこでの活躍が認められ、現地人にトゥアン・ジム(ジム閣下=ロード・ジム)と呼ばれることになる。美しい娘とも結ばれ幸せなジムだったが、悪名高いブラウン船長の出現がジムを窮地に追い込むことになる。
筋立てだけを見れば、典型的な娯楽小説のそれだ。ところが、読んでみれば分かるが、それほどすっきりした味わいは得られない。この小説が発表されたのは、1900年。あと何ヶ月で二十世紀に入ろうかという時だ。世界には意味があり、そこでは総てが統御されていると信じられる人ばかりではなくなっていた。つまり、現代に近くなってきていたといえる。
ジムの話を聞いて、読者に伝えるマーロウという語り手の内心の声がそこには加わるので、読者はジムの行為をどうとっていいやら悩まなければならない。逆に、そこにこそこの小説の面白さが存するといっていい。乗客を見捨てて、海に飛びこむジムの弱さを責めることのできる人がいるだろうか。窮地に陥ったとき、多くの人が心の中で一度や二度、海に飛び込んだ経験を持っているにちがいない。マーロウやスタインは、それを知っているから、自分のしたことを許せないジムが好きで、彼を助けようと世話をするのだ。
しかし、マーロウが登場するまでの冒頭部分には、ジムの心のうちを直截に語る話者がいる。養成船時代のエピソードからは、チャンスを物にできなかった自分の瞬時の躊躇を知りながら、同僚を妬み事実を自分に都合のいいように解釈するジムを見つけることができる。また、怪我が治った後、本国に帰らなかった理由として、安逸な生活を送りながら幸運を夢みている仲間に魅力を感じていたことも明らかにしている。これらのことから分かるのは、ジムという人物は退屈な現実よりも想像力が描き出す事態の方に魅力を感じるタイプの人間だということである。
だとすれば、船長たちが逃げ出した裁判に出廷して証言してみせたことも、その後の船長番としての活躍も、パトゥザンでの戦いで指揮をとったことも、みな彼の中にあるイデアリストの仕業ではなかったのか。パトナ号の事件を知る者が現れると、その港を逃げ出してしまうのは、自分の想像が創り上げたイマジネーションとしての自己の像が、現実の自分の像の前に色褪せて見えるのを恐れる心の為せる業であった。そう考えることができる。名誉とはそれを重んじる者にとっては大事なものかもしれないが、他人にとってどれほどの価値があろうか。
スタインは、ジムのことをロマンチストと呼んでいる。マーロウは、それだけではないと思いながらもジムを自分とはちがう人間として見ている。果たして、ジムはどんな人間だったのか、というのが作者コンラッドの提示した謎だろう。解釈は読者に委ねられている。冒頭部に示されたジムの姿がそれを解く鍵ではないだろうか。