marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

「3冊の『ロング・グッドバイ』を読む」

3冊の「ロング・グッドバイ」を読む―レイモンド・チャンドラー、清水俊二、村上春樹― (ソリックブックス)
レイモンド・チャンドラーの代表作『ロング・グッドバイ』は、長く清水俊二訳で愛されてきたが、2007年、村上春樹が新訳を発表した。往年のファンは、自分たちが愛読した清水訳のそれとのちがいにとまどいを覚えたようだ。著者もどうやらその一人らしい。村上は、あとがきの中で「両方の翻訳を併せて楽しみたいという熱心な読者も中にはおられるかもしれない。実際にそうしていただければ、僕としてはとても嬉しいのだが」と書いている。それを作者からの挑発と受けとめ、それでは、一つやってみるか、と思った読者はたくさんいたにちがいない。かくいう評者もその一人なのだから。

翻訳を読み比べようと思えば、原文に当たる必要が生じる。そこで、チャンドラーの書いた原文の“The Long Goodbye”と、清水俊二訳『長いお別れ』、それに村上春樹訳『ロング・グッドバイ』の都合「3冊の『ロング・グッドバイ』を読む」ことになるわけだ。

おそらく誰もが試みたであろう3冊の読み比べだが、本になったのは今回が初めて。だってそうでしょう。村上春樹をして名文家と言わせるチャンドラーの凝りに凝った文章を、定評のある清水訳と世界的な人気作家が満を侍して発表した新訳の二つを読み比べ、判定をつけるなどという恐ろしいことを誰がやりきれるものか。ところがである。それをやる人がいるんですね。

まずそれに驚いた。しかし、それだけではない。自分でもやってみたから分かるのだが、翻訳とはいえ、他人の文章を論じるわけだ。評するこちらの文章にそれに見合う力がなければ、誰もはなから相手にしない。つまり、「読む」だけでなく「書く」力がいるということ。『3冊の「ロング・グッドバイ」を読む』を読んでまず初めに思ったのは、これがデビュー作という著者の文章の巧さである。

翻訳の読み比べと言えば、つい重箱の隅をほじくるようなまねをしがちだが、そうなって当然のところを実に手際よくさばいてみせる、その手つきの鮮やかさに感心した。いずれの翻訳が良いかでなく、二つの翻訳のちがいを手がかりに、チャンドラーの創り出した世界に遊ぼうという心意気と見た。現在は隠居生活とか。悠々と趣味の世界に遊んでおられるからか葉巻煙草や珈琲、カクテルやシャンパンといった酒、車に拳銃と次から次へと繰り出される蘊蓄がまた愉しい。

アメリカの事情に詳しい友人もいて、いちいち的確なアドバイスがもらえるのが実にうらやましいかぎり。その中に「九月の朝」という話が出てくる。依頼人の妻で夢のように美しいアイリーンがマーロウを落としにかかる場面で、ローブの下は一糸纏わぬ姿であることを“September Morn”という言葉で表現しているところがある。指摘を受け、自分の迂闊さに悔やんだが後の祭り。ポール・シャバが描いた絵『九月の朝』なら、新聞等に掲載された複製名画の広告で何度も目にしたことがある。「売り絵」という偏見から軽視していたのだろう。確かにアメリカ人が好みそうな健康的な色気を漂わせた美女だ。

その大文字で一つ気づいたことがある。アイリーンがマーロウのオフィスを訪ねた時にマーロウが出すコーヒーカップのことだ。原文を引く。“I set out two Desert Rose coffee cups and filled them and carried the tray in.”このデザート・ローズを村上はそのまま「デザート・ローズのコーヒーカップ」と訳し、清水は「上等のコーヒー・カップ」と訳している。著者は、「コーヒー・カップに絵付けされた“砂漠の薔薇”と呼ばれる観葉植物」と解釈されているが、大文字で書かれているから固有名詞ではないかと思いつき、調べてみた。1940年代のサンフランシスコで売られていた陶器に「デザート・ローズ」というブランドがあって、随分人気があったようだ。時代や場所から見て、ブランド名ととるのが自然ではないだろうか。

このように、『3冊の「ロング・グッドバイ」を読む』は単なる解説書でなく、読んだ者が著者に応答したくなるような問題提起に溢れた絶妙なエッセイになっている。もともとエッセイとは、隠退したモンテーニュが暇にまかせて城館に集めた書物の欄外に自分の感想や疑問を書きためた『エセー』を嚆矢とする。その意味でも著者に相応しい。74歳のエッセイストの誕生を心よりお祝いしたい。