カクテル・パーティーに招待されたマーロウは、車でアイドル・ヴァレーにあるウェイド邸に向かう。使用人のキャンディに案内された部屋にはリンダ・ローリングとその夫の姿もあった。酒を飲むと自分を見失うロジャーの頼みごとというのは、本を仕上げるまでの三ヶ月間、泊り込みで守りをしてほしいということだった。
この章も清水訳には省略が多い。村上のそれが逐語訳であるのも同様。好みにもよるだろうが、清水訳のテンポのよさは、いかにもハードボイルド小説を読んでいる気にさせてくれる。一方、村上訳を読むことで、チャンドラーがどう書いていたのかを確認することができる。たとえば冒頭、清水訳では「一台のジャガーが」だが、村上訳では「車高の低いジャガーが」になっている。原文の“A low-swung Jaguar”を村上は「車高の低い」と訳したわけだ。この後、その車に乗っているのが、派手なスカーフをした女性であることが描かれている。ジャガーにもいろんな車種があるが、当時のハリウッドでスターたちが愛車にしていたジャガーといえばあのロングノーズ・ショートデッキの名車XK120が思い浮かぶ。色は書かれていないが、手を振って「隣人から隣人へのあいさつ」<“neighbor to neighbor”>(清水訳は省略)をしているところから見て、ロードスターできまりだろう。“A low-swung”の一語がそういうイメージを喚起する。村上訳の「車高の低いジャガーが」を名訳とは思わないが、存在価値はあると思う。
そのジャガーのドライバーは、派手なスカーフのほかに「サングラス」をしていたらしい。フルオープンで車を走らせたことがあれば分かるが、髪が風で乱される。対角線で二つ折りにしたスカーフをあごの下で結び、それに白いセル縁のサングラスというのが当時定番のスタイルだった。しかし、原文は“a pair of sun goggles”だ。ここは、二つのレンズの周りが革で縁取られた防塵ゴーグルではないだろうか。ハイウェイからアイドル・ヴァレーに入るための連絡路は、スーパー・ハイウェイを流す日曜ドライバーを怖気づかせるため、わざと未舗装にされている。砂塵を防ぐ効果もあるだろうが、「やわな」連中との差を見せつけるためにわざと大仰なゴーグルをしてみせる、その気持ち分からないでもない。今でも、オープン・タイプの車に乗るドライバーの中には二連のゴーグルを愛用している人が少なくないのだ。
道路沿いに馬を歩かせている娘がいる。この娘のはいているのが乗馬ズボンなのか、ジーンズなのかが問題になっている。ちなみに清水訳はこうだ。「若い娘が一人、道路にそって馬を歩かせていた。乗馬ズボンの娘ははでなシャツを着て、木の枝を口にくわえていた。」村上訳ではこうなっている。「一人の娘が馬を引いて道路の端っこを歩いている。彼女はリーバイスのジーンズをはき、派手な模様のシャツを着て、小枝を噛んでいる。」
松原元信氏の『三冊の「ロング・グッドバイ」を読む』の中で、氏は「くだらぬ詮索が過ぎるようだけれど[村上本]での“彼女はリーバイスのジーンズを履き”は、ちょっと筆の勢いが早すぎたのではないかしら。なにしろ、ウェイド邸のあるアイドル・ヴァレーは金ピカの人たちだけが住む超高級住宅地なのだから、ここで“trousers”をはいて馬を引いていれば、やはり、[清水本]の“乗馬ズボンの娘”の方が落ち着く」と、書いておられる。
どうやら松原氏が参照されているテクストでは彼女の履いているのが、“trousers”となっているらしい。もしかしたら、清水氏のも同じテクストなのかもしれない。ところで、手もとの“Black Lizard Edition”1992年版の同じ箇所を見てみると、以下のようになっている。
“She had Levis on and loud shirt and she was chewing on a twig.”
大文字ではじまる“Levis”は、あのリーバイスにちがいない。もしかしたら村上氏の訳は、このテクストをもとにしているのではないだろうか。『ロング・グッドバイ』の異本については詳しくないので、これ以上のことは分からないが、村上氏の筆の勢いが早すぎたせいではないように思う。
アイリーン・ウェイドが登場するシーン。原文は
“Then Eileen Wade materialized beside me in a pale blue something which did her no harm. She had a glass in her hand but it didn't look as if it was more than prop.”
村上訳は「気がつくと、アイリーン・ウェイドが私のそばに立っていた。彼女は淡いブルーの衣服に身を包んでいたが服などどうでもいいことだった。手にしたグラスも、ただの小道具にしか見えなかった」と、まるで女神の降臨かなんぞのように、思い入れたっぷりに描写されている。そこが、清水訳では「そのうちに、アイリーン・ウェイドがうすいブルーのいでたちで私のそばにあらわれた。手にグラスを持っていた」と、そっけない。読者はマーロウの目を通してヒロインたちを視るしかない。いかにハードボイルド小説の探偵とはいえ一人の男である。マーロウがアイリーンをどう見ていたか。提出された手がかりはきっちり訳してほしいものだ。
リンダ・ローリングが夫を揶揄するように「いとしのシバよ帰れ」という台詞を吐いた後、ローリング医師のとった態度の訳が異なる。清水訳は「彼はむっとして、夫人をにらんだ」。村上訳は「彼はくるりと背を向けることで、それに対応した」。原文は“He swung around and did a take.”。“swing around”の感じが出ているのは村上訳の方だろう。夫人をにらみつけるほどの意思表示ができたら、人前でこうも侮られはしまい。聞かなかった振りをしてみせるくらいが精一杯のところではないだろうか。チャンドラーは医者嫌いだったのか、どうも医師という肩書きを持つ人物を描く際、筆に容赦がないようだ。