空き瓶を片付けようと書斎に入ったマーロウは、ウェイドが死んでいるのを発見する。お茶の用意をして居間に戻ったアイリーンは、マーロウの様子から異変に気づく。そして、しばらくして訪れた警官に、マーロウの方を見もせず「夫はこの人に撃たれた」と、言うのだった。
ウェイドの死体を検分しながら、マーロウが自殺について考察する場面で、原文に誤植があると村上氏は解説で書いている。少し長いが、その部分を引く。
“ People have killed themselves on the tops of of walls, in ditches, in bathrooms, in the water, over the water, on the water. They have hanged themselves in bars and gassed themselves in garages. ”
自殺の仕方あれこれ、というところだろうか。人は自殺をするためにいろいろな場所や方法を試みる。対句表現で列挙される自殺の対の中で、ガレージ内でのガス自殺の対に” hanged themselves in bars “ (バーで首をつる)というのはおかしい、と氏は言い、ここは“ barns ” (納屋)ではないか、と指摘する。清水訳でも納屋と訳されているので、版がちがえば“ barns ” となっている本もあるのかもしれない。もうひとつ。対句が続く中で、水だけは三連の対句表現になっている。“ in the water, over the water, on the water. ” ここを清水氏は、「水中で自殺するのもいるし、水面で死ぬのもいる」と普通の対句にして済ますが、村上氏は「水の中で死んだり、水上で死んだり、船上で死んだりする」と、三連で訳している。いずれにせよ、ウェイドの死は、それらから比べるとシンプルと言えよう。
死体に取りすがる夫人に、気の毒だが何にも手を触れないでと警官が命じる。そのとき夫人はどうしたのか。、
“ She turned her head, then scrambled to her feet. ”
清水訳「彼女は頭を上げ、床に坐りこんだ。」
村上訳「彼女は振り向き、足をもつれさせながら立ち上がった。」
その前に膝をついて夫を抱きかかえ、体を前後にゆすっていたのだから、死体を放して床にへたり込むことも、立ち上がることもできるわけだが、辞書に用例があり、“ scramble to one’s feet ” は、「急に立ち上がる」の意とある。“ scramble ” の一語には「よじのぼる」も「這うように進む」もあるので、二人の訳者の苦労は分かるが、ここは、「急に立ち上がった」と素直に読んでもかまわないのではなかろうか。