marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

第22章

第22章の舞台はおなじみのバー、<ヴィクターズ>。テリーとの約束を果たすためにやってきたマーロウが、ここで出会うのがリンダ・ローリング。レッノクス夫人の姉で、ウェイド夫人の主治医ローリング医師の妻にあたる。ギムレットを飲みながら、互いの腹を探り合う両者の白熱したやりとりが見もの。

店を開いたばかりのバーの静かな様子を修飾するお得意の比喩が “you almost heard the temperature drop”だ。清水訳は「体温が下がるのが聞こえるほど静かだった」。村上訳は「温度が下がっていく音さえ聞こえそうだった」。下がっていく音が聞こえるのは、体温なのか、気温(室温)なのか。扉を開けると同時に話者に纏わりついていた外気(とそれに伴う街のざわめき)が、一気に静まり返る様子を表すのなら村上訳の方だろう。単なる誇張として考えるなら清水訳も可だが。

“She had that fine-drawn intense look”というローリング夫人の容姿を形容する表現も気になる。清水訳は「沈んだ魅力のある表情」。村上訳は「細部までくっきり締まった顔立ちだった」。“fine-drawn”は、(針金などを)ごく細く伸ばした様子をいうらしい。“intense”とは、強烈な、激しいの謂いだ。マーロウにはそれが、神経症、性的飢餓、ダイエットのし過ぎのいずれかが原因と考えられるのだから、無駄な脂肪のない引き締まった顔立ちであったろう。

“A gimlet,”I said.“No bitters.”マーロウがバーテンダーに注文する、この大事な一行が清水訳では省略されている。これはわけが分からない。このあと、バーテンが「愉しげな声で」(ここも清水訳はカット)ローズ社のライムジュースを仕入れた訳を説明するのだが、正しい作り方をしたギムレットを飲ませようと、テリーとマーロウの来店を待ちわびていたバーテンにビター抜きのギムレットを注文する台詞をカットする清水氏の意図がつかめない。

夫人のエメラルドを本物だろうと見当をつけるのに、「ななめに切ってあるところを見ると」という清水訳はいただけない。原文は“cut-flat with beveled edges”である。表面は水平で、側面は斜めにカットするエメラルド特有のステップカットを表している。村上訳は「平らで、はす縁が入っている」。「はす縁」は“beveled edge”の直訳だが、「はす縁が入る」というのは、あまり聞いたことのない表現だ。宝石業界では使うのだろうか。

“Too well to think it mattered much what happened to him.”
レノックスが二人の共通の知人であったことが判明したとき、ローリング夫人が彼のことを「知りすぎていたくらい」と言ったその理由を述べた部分。清水訳は「あまりよく知っているので、あんなことになったのが忘れられないんです」。村上訳は「彼があんなことになっても、それもやむをえないのではないかと思えるくらいに、ということです」。妻を殺して自殺した男のことを追憶する気持ちとして、前者には同情の思いが、後者には自業自得という思いがこめられているように読める。テリーの無実を信じるマーロウに対し、テリー犯人説を信じる夫人の言葉とすれば、後者が妥当だろう。

それに続く夫人の言葉。“If he had to get proud ,the door was open.”は、清水訳だと「夫らしく扱ってもらいたいと思ったら、できないことはなかったんです」。村上訳では「自尊心を捨てずにおこうと思えば、他の道も選べたのです」。テリーの妻は、夫がいるのを承知で他の男と寝るような女だった。「ドアは開いていた」というのは、出て行くこともできた、ということだ。それは「夫らしく扱ってもらう」のではなく、妻と別れることを意味している。

“That's easily changed. ”マーロウの皮肉に腹を立て、「どうしてあなたと二人でお酒なんか飲んでいるのかしら」と言う夫人にマーロウの吐く台詞だ。清水訳では「もう飲まなくていいんですよ」。村上訳では「それは私の言いたいことかもしれませんよ」となっている。村上訳の方が原文に近い。「その台詞、そのままお返ししますよ」なんて訳してみたい気がする。

殺されたシルヴィアの顔は置物でたたかれ潰されていた。それをマーロウは“bloody sponge”と表現している。清水氏は「血だらけのスポンジ」と訳しているのに、村上氏は「スポンジのように」として、“bloody”を訳していない。原文にできるだけ忠実な訳を心がけている村上氏だが、これはどうしてだろう。と、ここまで書いたところで最近研究社から出版された『英和翻訳基本辞典』を引いてみると、“bloody”には、「血まみれの」のほかに英国の俗語表現で「いまわしい、とんでもない、ひどい、すごい」のような軽い罵り言葉の用法があると出ていた。さらに単なる強調を表すこともあるらしい。チャンドラーは、文字通りの「血まみれ」に俗語の罵り言葉である“bloody”を掛けているにちがいない。村上氏もそう考えて「血だらけ」を訳さなかったのだろう。しかし、だとすれば、ただ「血だらけ」を省略するのでなく、軽い罵りの意を加えて訳してほしかった。

“some of them through doors that didn't open fast enough to suit them”村上訳「ドアの開け方が必要以上に遅かったというだけでドア越しに射殺された人々もいます」の部分が清水訳はカットされている。ここに限らず警官の無法ぶりを非難するのは私立探偵マーロウの特徴の一つ。きちっと訳してほしいところ。

“No doubt the Mexican police faked it.”she said tartly.
清水訳「メキシコの警官がにせ物を作ったとおっしゃるんですか」
村上訳「きっとメキシコの警官が偽造したんでしょうね。」と彼女は皮肉をこめて言った。
会話部分をテンポよく訳そうと思うと、「と彼女は言った」という地の文を省略したくなる。しかし、言葉には言外の意味というものがつきまとう。皮肉屋の言う言葉を文字通りに受け止めたらとんだことになる。だから地の文で「彼女は辛辣に言った」と補う必要がある。会話の連続では訳しきれないところだ。清水訳では夫人の皮肉が消えてしまっている。

He said Terry was a gentleman twenty-four hours a day instead of for the fifteen minutes between the time the guests arrive and the time they feel their first cocktail.
清水訳「お客が見えてから最初のカクテルに口をふれるまでの十五分間を気にしなければ、一日二十四時間のあいだ、テリーほどいつも紳士の態度を失わない人間はいないっていっていましたわ」

村上訳「テリーは、一日二十四時間途切れなく紳士だと言っていたわ。パーティーに到着してから、最初のカクテルに手を伸ばすまでの十五分間だけしか紳士でいられないような連中とは違う、と」

これは完全に清水氏の誤訳。A“instead of ”B、つまりBではなくてAという構文。一日二十四時間真正の紳士と到着してカクテルに口をつけるまでの十五分間だけの似非紳士とを比較し、テリーは前者だと言っているのだ。清水氏の訳では、客が到着してカクテルを手に取るまでの十五分間、テリーは紳士でないことになる。酔いつぶれていても礼儀正しさを失わないのがテリー・レノックスという男なのだ。カクテルを飲む前に紳士でなくなることなど考えられない。

“the woman in black asked with dry ice in her voice. ”「黒い服を着た女は氷のように冷たく潤いのない声で言った」(村上訳)を清水氏はカット。父親を侮辱された娘の怒りの表出で、夫人の性格がよく出ている。訳出しない手はない。

メネンデスの用心棒チック・アゴスティーノをからかうところで“Maybe I was(イタリック) a little drunk”「私は実際に(三文字に傍点)酔っていたのかもしれない」(村上訳)と、同じくアゴスティーノの台詞“And next time you crack wise,be missing”「それから、俺にあまり気の利いたことは言わん方が身のためだぞ」(村上訳)を清水氏はカットしている。

風俗取締班の刑事ビッグ・ウィリー・マグーンにいいようにあしらわれたチック・アゴスティーノが負け惜しみに「自分をタフだと思っていやがる」と言ったのに対し、マーロウの返した言葉。“You mean he isn't sure?”清水訳は「自信がないからというのかね」。村上訳は「思っているだけ?」。「そうじゃないとでも?」というのはどうだろう?