marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

第27章

【ウェイドを寝かしつけたマーロウは、彼がどうして怪我をしたのか階下にある書斎を調べる。訳はすぐ分かった。壁際に転がった金属製の屑籠に血がこびりついていた。酒に酔ったウェイドが椅子を倒して、下にあった屑籠の角で頭を切り、蹴っ飛ばした後、外に出て倒れたのだ。分からないのは、夫人のとった態度だ。夫を探しもせず、煙草をふかしていたのはなぜか。第27章のマーロウは、いかにも探偵らしい調査と推理を行うのだった。】

冒頭、流行作家の豪邸の内部が細密に描写される。不必要とも思えるほどの室内の描写は、チャンドラーならでは。ただ、二つの日本語訳からは、いまひとつ、その様子が浮かび上がってこない。

“The middle part of the living room rose to the full height of the house walls and was crossed by open beams that also supported the balcony.”
清水訳「居間の中央部は家と同じ高さまで空間になっていて、むき出しの梁が横に渡してあった。」
村上訳「居間の中央部分は、屋根までの吹き抜けになっており、むき出しの梁が交差して、その梁がオープンのバルコニーを支えていた。」
マーロウは、玄関のドア近くに立って居間を眺めている。中央部分は吹き抜けで、二階部分の正面がバルコニーになっているのだろう。そのバルコニーをむき出しの梁が支えているらしいのだが、梁は「横に渡して」あるのだろうか、あるいは縦方向の梁と「交差して」いるのだろうか。

“The balcony was wide and edged on two sides by a solid railing which looked to be about three and a half feet high. The top and the uprights were cut square to match the cross beams.”
清水訳「バルコニーははばがひろく、三フイート半はあろうかと思われる頑丈な手すりがついていた。」
村上訳「バルコニーは広く、高さ一メートル以上あるしっかりした手すりが両側についていた。交差する梁に合わせて、手すり全体が角形にカットされている。」
手すりの形状を清水氏が省略しているのはいつも通りだが、村上氏の訳もめずらしく分かりにくい。バルコニーの両側というのは、どの部分を指すのだろう。もうひとつ、また出てきた「交差する梁」だが、ここは、“cross beam”(大梁)の意ではないだろうか。スクエア・カットされた梁にマッチするようにバルコニーの手摺もその支柱も角形にカットされている、ということだろう。

“The dining room was through a square arch closed off by double louvered doors.”
清水訳「食堂との境には、二重のよろい戸があった。」
村上訳「ダイニング・ルームには角形のアーチがついた戸口を抜けていくようになっており、ルーヴァー式の両開きのドアは閉じられていた。」
角形アーチを省いたのは清水訳らしいとしても、また「二重の」扉が出てきてしまった。リビングとダイニングの境を二重のよろい戸で区切るのは、いくらなんでも厳めしすぎるのではないだろうか。

マーロウは夫人のとった態度に悩まされている。どうにも解釈がつかないからだ。
“I'd just assumed she called him after I got there. She hadn't said so.”
清水訳「だが、私が来てから呼んだものにちがいない。私が来たときには博士を呼んだといわなかった。」
村上訳「私がそこに到着したあとで彼女は医師に電話をかけたのだろうと思い込んでいた。でも彼女がそう言ったわけではない。」
夫人は、マーロウが来てから電話をかけたのかどうか。前の章を読み返すと分かるが、マーロウが医者を呼ぶように言った時、「電話をしました」と夫人が答えている。いつかけたかは分からない書き方だ。ただ、清水氏の「にちがいない」というのは、どうだろうか。“assume”には、「(証拠がないのに)そう思う」というような意味はあるが、確信を表す用法はない。清水氏、“ assure”「(自信をもって)人に保障する」と取り違えたのではないだろうか。それだと、訳が分かるのだが。