marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『生半可版英米小説演習』柴田元幸

生半可版 英米小説演習 (朝日文庫)
海外の小説が好きでよく読む。もちろん日本語訳で。読んでいて思うのは「これって原作者じゃなくて、翻訳家が書いた文章だよね」ってこと。フォークナーを読もうが、サリンジャーを読もうが、はっきり言って、読んでいるのは「筋」であって、本来英語で書かれた「小説」が持っている微細なニュアンスのようなものは、翻訳の上手下手はあるにしても、ほとんど抜け落ちているのではないか。実際に原文で読んだら、そのちがいは分かるんだろうか、なんてことを常々考えていたところに、この本が出た。もともとは1998年に出版されたものの文庫化である。
原作の「さわり」の引用に、作家や作品についての解説をつけるというスタイルは、デイヴィッド・ロッジ作『小説の技巧』その他の先例があるようだが、原文の引用に対訳つきというのは、この本が初めてなのではないか。タイトルに「演習」とあるように、大学で教えているゼミの学生に提出を義務づけているレポートの体裁と同じらしい。
英語が堪能というわけでもないので、対訳がたよりになるが、一読して分かるのは、なるほど、同じ英語による文章でも作者の個性というのはあるものだな、ということ。たとえば、カズオ・イシグロの「ほとんどそのまま辞書の例文に使えそうな」几帳面かつ端正な英語によって書かれた『充たされざる者』と、絵本『フランシス』シリーズで知られるラッセル・ホーバンのコンマも改行もなく、奇妙なスペルの頻出する『リドリー・ウォーカー』を読み比べてみれば、そのちがいは明らかだ。
スティーヴン・ミルハウザースチュアート・ダイベックが、さわりだけとはいえ対訳つきの原文で読めるのはファンとしてうれしい限りだが、何のことはない、柴田元幸がさかんに推奨し、訳出したからこそ日本でも話題になり、多くの作品が読めるようになったわけだ。1998年に本が出た時点で「いったいこんなもの誰が訳すんだろう」と書かれているトマス・ピンチョンの『メイスン&ディクスン』は、結局そう書いた当人の翻訳を待って日本初お目見えとなった次第。
翻訳者としての著者の功績はミルハウザーダイベックの翻訳でもあきらかだが、柴田の存在価値は単に訳が上手というだけではない。数多ある英米文学の中から面白いのに紹介されていない作家、作品を見つけてきて、どうだい面白いだろう、と読者に薦めつつ、その本が世界文学の中で占める位置や作家の持つ個性といったものをしっかりとらえてみせること、つまりは、すぐれた批評性の持ち主であることだ。それぞれの作品に付された、決して長いとはいえない解説がそれを示している。
近現代英米文学のブックリストとしての価値は、初版発行後十数年経過した今でも、その価値は減じていない。文庫版のあとがきには、今現在なら、こんな作家が加わるはずという新しいリストも付け加えられている。