ジェローム・K・ジェローム、イーヴリン・ウォーの系譜に連なる英国滑稽小説の名手デイヴィッド・ロッジの手になる伝奇小説ならぬ伝記小説。しかし、名うてのロッジの手にかかる人物が、『タイムマシン』、『透明人間』などのSF小説作家として知られるあのH・G・ウェルズとなると、ただの伝記ですむはずがない。実は、H・G・ウェルズは、生涯に百冊にあまる著作を発表した作家というだけでなく、自由恋愛を標榜し、妻の了承の下に、年若い愛人や他人の妻、女流作家とつぎつぎと相手を変え、或はかけもちで関係を持った世にいうところの「絶倫」の人であった。
特に英文学に親しい人でもなければ、H・G・ウェルズの名から何度も映画化されたSF小説の大家以外の業績を思い浮かべる人はいないだろう。しかし、『世界史概観』という著作からも分かるように、科学的知見を生かし、二つの大戦にはさまれた当時の社会状況に積極的に発言し、バーナード・ショーらとともにフェビアン協会の重鎮として、社会改良に熱心な知識人として英国大衆に知られた人であった。こともあろうに、その人が、女性関係で何度もスキャンダルにまみれていたとは。
全編これ、女性遍歴に尽きる。人の一生を説き語るのが伝記であるとすれば、H・G・ウェルズの一生とは、女の尻を追いかけまわすか、その後始末に苦慮しているか、のどちらかである。もちろん、その間に何冊もの本を書き、新聞雑誌に記事を送り、講演のために海外に渡航もしている。普通一般の伝記であれば、これほどの著名人の一生である。ルーズベルト大統領やマクシム・ゴーリキーらとの交遊のほうを中心に描くのだろうが、そこはロッジ。つぎつぎと変わるお相手の女性との関係の合間合間に、それら対外的な活躍が点綴されるという趣向。
いくら妻が認めているからといって、その妻の友人や友人の娘といったごく近しい関係にある女性と関係を繰り返し、子どもを作り、愛人と息子のために家を借り、二つの家を行き来するという暮らしは、ストレスがたまると思うのだが、H・Gはめげずたゆまず性道に精進する。まったく懲りないのだ。このあたりの描写は、さすがにコミック・ノヴェル第一人者だけのことはある。泥沼不倫、情痴の果て、といった陰惨な空気がこれっぽっちもない。奇妙に明るく描かれていて、面白い読み物になっている。
「人のセックスを笑うな」というのは、某女流作家の小説のタイトルだが、何とかして当の女性をものにしようとあくせくする有名作家の悪戦苦闘振りには笑わされる。そのヴァイタリティの質量が凡人の域を超えているからだろう。たいがいにしろよ、と思いながらも読まされてしまうのだ。当の女性に対して誠心誠意つきあっていることも憎めない要因だ。もっとも、妻のジェインの本心は如何ばかりだったろうか。男性的視点で一貫したこの作品、フェミニズム批評の手にかかったらひとたまりもなかろう。
同時代の作家仲間との関係も興味が深い。皮肉屋で知られるショーとの主にフェビアン協会内での対立が手紙や演説の引用から生き生きと伝わってくる。G・K・チェスタトンやヘンリー、ウィリアムのジェイムズ兄弟も登場している。なかでも、近くに住んでいたヘンリー・ジェイムズとは、手紙のやり取りが頻繁にあったようで、互いの著書についての評が引用されている。芸術としての小説をめざしていたジェイムズと、小説を意見陳述の手段と考えていたウェルズとの差異に加えて、一般受けせず、当然売れ行きの伸びないジェイムズの小説に対し、大衆受けし、抜群の売れ行きを示すウェルズの小説という対比がある。二人の書評の微妙な言い回しにこめられた互いに対する敬意と批判が精妙な引用からうかがえて実に愉快。イギリスの書評文化の高さがしのばれる。そのジェイムズとの交誼が、スキャンダル以来疎遠となり、感情のいきちがいから冗談めかして書いた戯作をきっかけに完全に決裂したままジェイムズは亡くなってしまう。このあたり哀切きわまりない。
両大戦間に生き、科学に詳しく、未来に対する予見に秀でた作家としてのH・G・ウェルズをあえて裏張りにとどめ、女性遍歴を繰り返す「絶倫の人」としての側面を強調した伝記小説であるが、『小説の技巧』の著者の手にかかれば、かくも読み応えのある長篇小説になるのかと驚く。男性作家についてはいくらかの知識はあるもののヴァージニア・ウルフ以外英国の女性作家をほとんど知らないことが悔やまれた。もし、その方面に詳しければ、レベッカ・ウェストはじめ名立たる作家目白押しのH・G交遊録が、もっと楽しめただろうに。
丸谷才一のアントニー・バージェスを論じた書評の中に次のような文章がある。「イギリス長篇小説には、雄大でしかも精緻に語られた冗談といふ性格の一系列がある。それは男らしくて、知的で、突飛で、まじめなのかふざけているのか見当がつかなくて、しかし楽しい」。これは、まさにそのような小説である。