世界の歴史という割には、思いっきり西洋それもキリスト教世界中心。日本人もインディオも賑やかしに出てはくるが、料理でいえば刺身のつま。どんな料理でも注文できる場所で朝昼晩食べたいのが、ベーコン・エッグスとベイクド・トマトの乗っかったイギリスの朝食だというのだから、博識で知られるジュリアン・バーンズも根っからの英国人なんだなあ、と改めて思い知った。
近著『終わりの感覚』で再認識したのは、その徹底して懐疑的な歴史観だ。「歴史とは勝者の嘘の塊」でなければ「敗者の自己欺瞞の塊」にすぎず、それもたいていの場合、記憶や文書が確かなものでないことが多い、というのが『終わりの感覚』の主題である。いかにもイギリス人らしい皮肉な歴史観だが、どうやらそれは首までどっぷり浸かった骨絡みの観念であったらしい。1989年に発表されたこの小説は、そのまま同じ主題を扱っている。
同じ主題であっても、2011年の『終わりの感覚』が、人の記憶というものが、いかに自分に都合のいいように改変されているかということを、一人の中年男の体験を通して抉り出した苦い認識として捉えたものとするなら、ほぼ二十年前の小説は、いかにもポスト・モダンらしい軽さや洒落っ気を感じさせる才気溢れる作品に仕上げられている。近作に魅かれた読者にはまるで別人の作のように思えるかもしれない。二十年の歳月は作家にとっても決して短い時間ではないのだ。
落語に三題噺という趣向がある。客席から適当に出された三つのお題を素材にして即興で噺を作って語ってみせる、真打ちそれも名の通ったところでなければ手を出さない高等芸だ。無理矢理にでも三つの題をおり込まなくてはならないところに、噺家の腕の見せどころがあり、聞く側の楽しみがある。誰も頼んでもいないのに、いくつかのモチーフを共有する10の短篇小説と随想めいた短章で一巻の小説を編むという離れ技をやって見せるあたりに、まだ四十代になったばかりの才気走った衒気が見える。
おそらく第一章「密航者」で、ノアの方舟を思いついたとき、これは使えると手応えを感じたにちがいない。船による航海という閉じられた空間設定はドラマティックだし、遭難、難破という悲劇的要素も絡む。それに、方舟に限らず、タイタニック号にメデューサ号の筏、と人口に膾炙した海難劇は枚挙に暇がない。あとは、ノアの方舟関連で、教会や、世界各地に布教した修道士の冒険譚、アララト山への巡礼といった題材が使える。
ただ、それだけでは面白くない。10と二分の一章をつなぐ一本の糸のようなものがほしい。それが、キクイムシであり、二人組みのペアであり、清潔なものとそうでないものの選別等のモチーフ群だ。何本縒りの糸のように複数の共通するモチーフが絡まりあって尻取り遊びのように次々と語り出される時と場所、人物の異なる十章の短編は、それぞれ一話完結でありながら、関連するモチーフによって緊密に結び合わされ、最終章までもつれ込む。この無理矢理とも思える辻褄合わせが面白いと感じられるか、不必要な遊びと煩わしく思えるかで評価が大きく変わる。
2015年に、これを読む読者としては、クルーズ船で観光ツアーを催行するタレント学者がアラブのテロリストによってハイジャックに遭う第二章「訪問者」が印象深い。二人組みのペア、清潔なものとそうでないもの選別という二つのモチーフが重い意味を持つ一篇である。テロリストは人質を選別する。日本人やスウェーデン人、アイルランド人は入口ドア近くに、アメリカ人やイギリス人はそれぞれ別の隅に、フランス、イタリア、スペイン、カナダ人はひとかたまりで中央に、という具合に。それを見たアメリカの哲学教授は「清潔と不潔を分離しているんだ」と呟く。
それを聞いたイギリス人主人公は二重国籍でアイルランドのパスポートを取得している。要求が入れられぬまま、人質の夫婦は一時間に一組ずつ処刑され、海に投げ入れられる。この光景が、第一章でノアの方舟から処分されたひとつがいの動物にオーバー・ラップされる。その選別の基準がまず、シオニストのアメリカ人夫婦から、ついで他のアメリカ人、イギリス人、フランス人…と続き、中立国のスウェーデン、テロリストを輩出している日本とアイルランドはしんがりという皮肉な順になっている。今、この事件が起きたら、日本人は何番目に処刑される順番に入るのだろうという疑問が頭を過ぎった。
「歴史は繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」というマルクスの有名な言葉がある。テロもそうだが、船の沈没、航空機の墜落という事件も最近相次いで起きた。マルクスには悪いが、何度でも繰り返し循環する歴史観では二度目以降も到底喜劇とは思えないのが現実だ。裁判記録や書簡体といった、章ごとに手を変え品を変えた話法の採用に舌を巻いたことは別として、キリスト教世界に生きていない者としては、ノアの方舟に始まり永劫回帰的な天国に至るこの小説は、到底納得できない歴史観に基づいている、という感想を抱かざるを得ない。