marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『バット・ビューティフル』ジェフ・ダイヤー

バット・ビューティフル
村上春樹の小説は読まないが、彼の訳になる小説やエッセイ類には結構お世話になっている。特にチャンドラーの翻訳と、ジャズ関係の文章は必ずといっていいほど目を通す。一昔前、植草甚一氏が果たしていた役割。ニュー・ヨークの本屋やレコード店をめぐっては見つけてきた本その他の話題を日本の読者に紹介するという目利きの仕事を、今受け持ってくれているのが村上春樹ではないのだろうか。村上氏が見つけてくるジャズ関連の書物は、もしかして彼がいなかったら、邦訳すらされなかったかもしれないものが少なくない。これもその一つ。ジャズ・ファンなら何をおいても読んでみたくなる一冊。

著者によれば「想像的批評」というジャンルになるそうだが、平たく言えばジャズ・ミュージシャン七人のポルトレ(評伝)である。どこが「想像的」なのかといえば、著者は伝記的事実を尊重しつつも、方法としては、ミュージシャンの写真を前にして想像をめぐらせ、頭の中に浮かび上がってきた映像を文章化してゆくという。その結果、セロニアス・モンクバド・パウエルが麻薬不法所持で警官に逮捕される有名な場面が、車から投げ捨てられ、水溜りに浮かぶヘロインの袋にいたるまで、著者自身その場で目撃していたようなタッチで描かれることになる。

レスター・ヤングセロニアス・モンクバド・パウエルベン・ウェブスターチャールズ・ミンガス、チェト・ベイカー、アート・ペパー、いずれ劣らぬ名手七人の肖像写真を収めるギャラリーの壁にあたるのが、ワンナイト・ギグの演奏会場に向けて車を走らせるデューク・エリントンが車中で曲の構想を練る場面のエピソードだ。ジャズの代名詞ともいえるデュークと長年の相棒ハリーの気のおけない会話が、いずれも個性の強い、どちらかといえば破滅型のミュージシャンたちが繰り広げる人生の一幕の色彩を浮き上がらせる役割を果たしている。

ノンフィクションとフィクションが垣根を越えて行きかうような描写は、まるで短篇小説を読んでいるようだ。これのどこが「批評」なのかと疑問を覚えた読者は「あとがき」を読んで納得するにちがいない。ジャズ・ミュージシャンは、常に先行するミュージシャンの音をなぞるように演奏する。たとえば、マイルズはディジーのように吹こうとした。ところが、ディジーのトレードマークである高音部の跳躍を持続させることができなかった。それがあのマイルズの「孤独な背筋が寒くなるほど美しいサウンド」をもたらしたのだ。演奏自体が批評行為である、というのが著者の見解である。

それにしても、ジャズ・ミュージシャンという人種は、なぜこんなにも破滅的な人生を送らなければならないのだろう。描かれる人々は、どれも麻薬中毒アルコール中毒患者、さらには精神を病んで精神病院に入院した経歴を持つ。早死にした者も多い。著者が選んだミュージシャンに偏りがあるとは思えない。「あとがき」で著者も書いているように、これがジャズ・ミュージシャンなのだ。一晩のギグのために、全精力を傾けての演奏。それも、インプロヴィゼーション(即興演奏)がその中心となるだけに、気を抜けるところがない。クスリやアルコールに頼りたくなる気持ちも分かるというもの。

表題『バット・ビューティフル』は、スタン・ゲッツビル・エヴァンスの名演奏で知られる曲だが、あるサックス奏者のどうしようもない生活、その生き方の破滅的な様相を前にして、なおかつその演奏を耳にした女が漏らすひとことでもある。村上春樹氏も訳しながら、彼らの演奏を聴いていたというが、この七人にデューク・エリントンを含めた七人+αの演奏を聴きながらページに目を落とすとき、知らず知らずのうちにあなたも口にしているだろう。彼らの人生はなんと凄惨なんだろう。「けれど、その音楽はなんと美しいことか…」と。