marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『スウェーデンの騎士』 レオ・ペルッツ

スウェーデンの騎士
1701年冬、シレジアの雪原を二人の男が追手を恐れながら歩いていた。軍を脱走しスウェーデン王の許へ急ぐ青年貴族クリスティアンと、絞首台を辛くも逃れた市場泥棒だ。身を隠すため入った粉挽き場にあった料理を勝手に食べた二人は、ちょうど来合わせた粉屋に代金を請求される。無一文の二人は窮するが、貴族は近くに代父で金持ちの従兄が住んでいたことを思い出す。体が弱っていた貴族は泥棒に指輪を渡し、自分の代わりに従兄の領地に行きスウェーデン行きの支度を整えるよう頼みに行ってくれと泥棒に託す。

泥棒が訪ねた貴族の従兄の領地は荒れ果て、館には自分を追う悪禍男爵率いる龍騎兵の一団が屯していた。おまけに領主は死に、跡を継いだ美しい娘は多額の負債に苦しんでいた。粉挽き場に取って返した泥棒は貴族に事情を話し、二人が入れ替わることを提案する。自分がアルカヌムであるグスタフ・アドルフの聖書を携えスウェーデン王の許に行くから、お前はほとぼりが冷めるまで僧正館の鉱山に身を隠せ、と。つまり、この話は「王子と乞食」ならぬ「泥棒と貴族」という異なる環境に生まれた二人の人物の入れ替わり譚である。

年恰好は似ているが、二人の性格、能力はかなりちがう。坊ちゃん育ちの貴族はプライドの高いわりに肉体的には脆弱で何かというと弱音を吐く。一方、泥棒は知力、胆力、身体能力共に高く、人を差配するのに秀で、農業全般に詳しく経営の才能にも恵まれている。世が世であれば、泥棒の方が貴族の若殿にふさわしいのは誰の目にも明らかだ。泥棒が、貴族に成りすまし、娘を助けて領地を管理してやろうと考えるのも理解できる。

ヴァルター・ベンヤミンの『子どものための文化史』に「昔のドイツの強盗団」という話がある。泥棒のなかには王や皇帝といった権力者に楯突き、仲間内ではきちんとした盟約を交わした騎士団のような強盗団があったことを子どもたちに教える内容だが、ちょうどこの話の泥棒が悪禍男爵率いる龍騎兵と対抗するために首領に納まるのが、そうした強盗団のひとつである。いくつもある誓約の中には仲間を売らないという重要な一項がある。女の嫉妬がそれを破らせることで泥棒貴族の悲運が生じるのだが、それはもっと後の話。

美しい娘のことが頭から離れない泥棒は貴族との約束を反故にし、スウェーデンには行かずに盗賊団を率いて荒稼ぎをし資金ができたところで解散する。そうして娘のところに行き、自分があのクリスティアンだと名乗り、領地を監督、いつしか領民に<スウェーデンの騎士>と呼ばれるようになる。二人の間には可愛い娘クリスティーネもでき、幸福の絶頂にいるとき、昔なじみの盗賊二人が現れる。正体がばれそうになった泥棒は泣く泣くスウェーデン王の許に馳せ参じるためと偽って、家族のもとを去り、自分を陥れようとする昔の女を訪ねるのだった。

世界が今ほど固定化しておらず、未分化で混沌としていた時代。権力者としての王が君臨していても、それ以外にも地上の権力者は多数いて、治外法権に守られ、鉱山から産出される富で贅沢三昧する僧正、裁判権を手にし、好き放題に罪人を狩る悪禍男爵、強盗団の首領黒イビツ、といずれも手強い面々が群雄割拠しているシレジアの地。アルカヌムという羊皮紙でできた呪符に幸運を呼ぶ効力があり、体の傷みは呪いの言葉が癒すと信じられている時代である。年に一度煉獄からよみがえる粉屋の主人のような不審な人物も登場すれば、天使による天上での裁判の場面さえ描かれる。そういう場面には幻想小説の気味がないとも言えないが、異能の泥棒が盗賊団の首領から<スウェーデンの騎士>と呼ばれる貴族にまで成り上がるこの話はやはりピカレスク伝奇ロマンの名が相応しかろう。

「序言」で、この話はマリア・クリスティーネというデンマーク王国顧問官にして特命公使夫人の回想録をもとにしていることをことわっている。六歳の頃<スウェーデンの騎士>と呼ばれた父は母の懇願を無視して戦場に赴いたが、その後も何度か深夜に娘クリスティチーネの窓辺を訪れた。しかし、使いの者の報せによれば、父は三週間前に名誉の戦死を遂げていたという。では、二日前に父と会ったあれは夢だったのか。母は、お父さまのために『我ラノ父ヨ』を祈っておあげ、といったが、父の死を信じられない娘は、ちょうど表の街道をゆく葬列のために『我ラノ父ヨ』を唱えたのだ。この序言に示された不可思議の謎解きは最後に明かされる。いかにも悪漢小説(ピカレスクロマン)にふさわしい幕切れとなっていると思う。